「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 倭(大和)王朝は筑豊にあった
 (平成二九年一一月八日(水)、日本漆喰協会平成29年度総会、於:ホテル メルパルク熊本)より

 倭(大和)王朝は筑豊にあった

 

福永晋三
記紀万葉研究家
「神功皇后紀を読む会」主宰
於 ホテル メルパルク熊本
日本漆喰協会 平成29年度総会
平成二九年一一月八日(水)
倭(大和)王朝は筑豊にあった

 

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出典 小学館デジタル大辞泉
 消石灰に麻糸などの繊維質、フ
ノリ・ツノマタなど膠着(こうちゃく)剤を加え
て水で練ったもの。
 砂や粘土を加えることもある。
 壁の上塗りや石・煉瓦(れんが)の接合に
用いる。
《「石灰」の唐音(shíhuī)から。
漆喰」は当て字》
しっ‐くい【漆喰】
はじめに

 

■ 本物の倭三山は、香春岳である

 奈良県にある天香久山(天香具山)、耳成山、畝傍山は、良くてコピー、悪くてイミテーションである。本物の
(やまと)三山は、田川郡香春町にある香春岳である。

 理由は、古事記・日本書紀・先代旧事本紀等の中に、天香山からは銅が採れた。金が採れたと書かれている。その
銅から鏡を作った。金から日矛を作ったと確かに書かれている。

 奈良県にある天香久山(天香具山)からは、金属は何も採れません。砂鉄も採れるかどうかである。これに対して、下の写真の左端にある香春三山の三ノ岳からは、昭和年間の後半になっても旧鉱山から自然金が出ている。
 また、三ノ岳は、昔から銅が採れることは有名である。

 この香春三ノ岳は、本当に金と銅が採れる山である。神話に書かれている天香山は、この香春三ノ岳だという事になる。

 香春三ノ岳が、天香山であることが確認できた時に香春三山は、500m級の山が連山になっていて畝で連なっているから、次の古事記の一節

 座 香山畝尾木本 名泣澤女神

とあるように、三ノ岳(天香山)を起点にすると「畝尾」と古事記に書かれている。畝(お)山である。「尾」と
いう字を音読みすれば、「び」であるから(び)となる。
 したがって、香春岳が、本物の倭三山だと言い切った。

写真「香春岳(昭和十年)」







昭和十年の香春岳(倭三山)

石灰岩の連山 香春岳

 

■ 古事記・日本書紀にある神武東征は、造作である

 香春三ノ岳が本物の天香山であり、香春一ノ岳が本物の畝尾山であれば、古事記・日本書紀の内容がガラッと変わってくる。

 最初に紹介する神武天皇については、古事記・日本書紀には、奈良県(大和)に東征したと書かれている。瀬戸内海を渡ったことになっているが、これが作為であった。造作である。

 神武天皇は、瀬戸内海を渡っていない。また、神武天皇が何処に都を置いたという事も古事記・日本書紀に書かれている。

 神武天皇の東征には、分析の結果、第一東征と第二次東征がある。

 西暦118年に第二次東征を開始する。筑紫の宝満山から東の方、豊前を攻め、東征に成功した後、陸路で宝満山へ凱旋する。

 神武天皇が行った筑豊のあちこちの地名が、射手引神社社伝に残されている。

 神武天皇は、西暦121年に橿原宮で即位し、西暦137年に畝傍山東北陵に葬りまつられたと日本書紀に書かれている。 香春一ノ岳が本物の畝尾山であれは、日本書紀の記述にピッタリの位置に橿原宮と畝傍東北陵が香春町にある。

 神武天皇が、初代の邪馬台国の天皇で、そこから数えて、7代くらい後、倭国大乱の後に女王・卑弥呼が共立されている。
 魏志倭人伝に

 其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼

とあるように、卑弥呼の前に男王が、7、80年いたと書かれている。
 神武天皇の即位が、西暦121年であり、80年足すと201年になるが、日本書紀や魏志倭人伝などを総合すると卑弥呼の即位年は、ピッタリ西暦200年となる。

 神武天皇も卑弥呼も倭三山、香春岳の見える所にいた。

 

■ 本物の仁徳天皇は、大鷦鷯天皇ではなく、宇治天皇?

 仁徳天皇は、日本書紀では、大鷦鷯天皇になっている。
 皇位を譲り合った皇子に皇太子の菟道稚郎子という人物がいる。その菟道稚郎子は、即位しないまま腹違いの兄である大鷦鷯皇子に位を譲って自殺したと書かれている。

 ところが、播磨國風土記に一ヶ所、日本の古典の中に唯一ヶ所、宇治天皇という呼称が出てくる。その宇治天皇が、本物の仁徳天皇らしい。

 かつての倭(やまと)国は、筑豊であり、天香山が香春三ノ岳であれば、山頂に登れば眼下に海原が見れ、鴎が飛んでいるのが見えた。福岡県でないとダメである。奈良県は永遠に見えない。

 

■ 何故、天智天皇の伝承が田川の地に残されているのか

 田川郡糸田町にある泌泉という泉は、天智天皇七年秋八月に右大臣金連公によって、造営されたと伝承が残されている。

 また、田川郡赤村の琴弾瀧にも天智天皇の伝承が残されている。つまり、天智天皇は、豊前の地にいたと言っている訳である。

 

■ 斉明紀二年の記事は、すべて天智天皇の業績である

 日本書紀の斉明天皇二年は天智天皇二年であり、西暦六五六年である。この年に①狂心の渠、②垣造る、③吉野宮を作るとあるすべてが、天智天皇の業績である。
 日本書紀では、渠らしむとあるが「狂心の渠」といって貶められている。その記事に香山が出てくる。

 

 

 石灰岩の連山であり、金・銀・銅
・鉄を産する香春岳
本物の倭三山
(天香山・耳成山・畝尾山)であれ
ば、三人の天皇の業績を並べるだけ
でも、「古代大和王朝が筑豊にあっ
た」
ことは明らかである。
 香春三ノ岳に金も銅も出ないので
あれば私の仮説はただの妄想にしか
過ぎない。
 香春岳の石灰が純白でなければ、
白妙の衣」の真の意味も分からな
かった。
 石灰に酸性の水を中和する働き
なければ、宮原盆地の石造りの地下
水路が「狂心の渠」であることも永
遠に分からなかっただろう。
おわりに

 火山性ガス(酸性ガス)によって、地表の水は全部腐ってしまった。その時に人民が命をつなぐ地下水路の水は、石灰を通すことによって、酸性を中和したわけである。
 天智天皇の知恵、古代人の知恵恐るべしである。したがって、「狂心の渠」が香春岳の東側にあったとしてもおかしくない。奈良県では、火山性の被害は何もない。酸性雨など降らない。

 神武天皇が目指した天香山が銅が採れる香春三ノ岳であり、仁徳天皇(白妙の衣)、天智天皇(狂心の渠)は、香春岳の石灰を抜きにしては、勝たれない歴史だという事になる。
 私の言っている古事記・日本書紀の古代倭王朝(神武天皇から天智天皇まで)の舞台は、すべて豊国の話だという事になる。