「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 倭(大和)王朝は筑豊にあった
(平成二九年一一月八日(水)、日本漆喰協会平成29年度総会、於:ホテル メルパルク熊本)より
■ 神武第二次東征と筑豊に残された伝承
常識とは随分違うが、西暦118年に第二次東征を開始する。菟狹に至り、一柱騰宮に書かれている場所を宇佐市安心院の 妻垣神社 に発見した。
狹野嶽というのが、豊前にある 求菩提山 である。「頭八咫烏」の「頭」は、英彦山の大天狗(豊前坊)で、「八咫烏」は求 菩提山八天狗一族である。神武天皇は、その彼らと同盟を結ぶ。
その間に豊前の南の地、吉野の国樔(現在の玖珠)の部族たちを手を結んだ後に田川・筑豊の土地へ攻め込んだのが、神武東征の本質だと分析した。
日本書紀を要約した内容である。「中洲」という言葉が書かれている。豊葦原中国であり、豊秋津島である。「豊」の字が付いている。これは、元々は豊前・豊後国であり豊国である。
したがって、神武東征というのは明らかに豊国への侵略である。
日本書紀・神武紀の大半は、天香山を攻略する話である。天香山が香春三ノ岳である限り、神武天皇は香春の地を攻めたのある。
敵の名前が、「赤銅の八十梟帥」とあり、赤銅(銅)である。奈良県の天香久山(天香具山)からは、銅は採れない。香春三ノ岳である。
大天狗は、彦山と求菩提山に祭られている。この烏天狗と呼ばれるのが、「頭八咫烏」である。今でこそデフォルメされているが、元々は人間である。
彼らの祭る神が、頭は鷲、体は人間、背中に翼があるというインドやインドシナによくみられるガルーダという神である。
そのガルーダの神を祭る一族が、豊前の土地にいたらしい。英彦山に大天狗が住んでいた。皆さん、天狗といえば、赤ら顔で鼻が高い顔を思い浮かべる。インド・アーリア系の人々の顔のデフォルメである。
豊国・備前の地にインド・アーリア系の人々がいた。私に言わせると天狗は、実在である。
神武天皇が、筑豊のあちらこちらを攻めて行ったという記録が、嘉麻市にある 射手引神社 の社伝の中に残されている。その神武天皇の東征コースである。
「G:烏尾峠」は、田川郡にある。この現地伝承では、八咫烏のカラスに同じだと言っている。
神武天皇の東征コースの「O:立岩」は、 立岩神社 である。その立岩神社に写真にある大きな石がある。この石は、何を意味する石か最初は解らなかった。
この石は、神武天皇が倒した敵。前の王者残した 舟石 = 天磐船
だったらしい。神武天皇は、敵のモニュメントである天磐船に兵士たちを登らせて、たぶん船体の部分を真っ二つに折らせたらしい。
神武天皇が本当にこの立岩神社(立岩)に来た名残だと思う。
右側の写真は、佐賀県鳥栖市にある舟石権現で大きな石である。これは明らかに帆掛け船を形である。
神武天皇は、筑紫の寶滿山(竈門山)を出発して、東の方、豊国を攻め滅ぼした。その東征に成功した後に陸路を凱旋して、寶滿山に戻り、御母君(玉依姫)の靈位を祭ると書かれている。
「j:蚊田の里」というのは、現在、 宇美八幡宮 がある場所である。後、4世紀の神功皇后が応神天皇を出産した場所と同じ所である。
西暦120年代に神武天皇の后の一人が、蚊田皇子を生み奉ったいう日本史には表れない事績が、筑豊の伝承に残されている。
もう一つが、求菩提山縁起である。赤線を引いている部分に
「神武天皇鋒端を揺し、 中国を平らげ、威奴の邪神を撥はしめ、九州を政めたもう。」
と書かれている。
現地伝承では、神武天皇は九州を出ていないと書かれている。
西暦121年に神武天皇は、即位された。神武天皇が倒した前の国が、倭奴(いぬ)国である。志賀島から出たとされる金印の国、漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)と読むのは、嘘である。
私は、邪馬台(やまと)国、九州説である。神武天皇が創始した国である。「台(臺)」という字は、平安時代まで古典では、「と」と読む。したがって、邪馬台国は、最初から「やまと国」と書いてあった。
神武天皇が即位した都は、畝尾山の東南と日本書紀に書かれている。香春一ノ岳の東南の位置に見事に鎌倉市の鶴岡八幡宮よりも50年も早くに創建された 鶴岡八幡宮 がある。
この地が、神武天皇が即位された本物の橿原宮跡だろうと推測している。写真にあるようにこの神社に生えている木は、カシ(樫、橿)の木である。宮司さんが、「樫葉の山」と題する小冊子を出されている。だから、本当だったら、「橿原宮」ではなく「橿山宮」だったかも知れないがそれは定かではありません。
神武天皇は、西暦137年の秋9月に畝傍山東北陵に葬りまつるとハッキリと日本書紀に書かれている。香春一ノ岳が本物の畝尾山であるならば、その東北の位置に見事に「 おほきんさん 」という考古学的に弥生時代の円墳がある。
その「おほきん」を漢字で書けば、「大王」である。古代には、天皇とは言っていない。大王(おおきみ)である。地元の人が、「おほきんさん」と言っているからには、これが本物の神武天皇陵、畝傍山東北陵だと考えている。