「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 倭(大和)王朝は筑豊にあった

※ 倭(大和)王朝は筑豊にあった
 (平成二九年一一月八日(水)、日本漆喰協会平成29年度総会、於:ホテル メルパルク熊本)より

■ 神武第二次東征と筑豊に残された伝承

 数ヶ月、狹野嶽
(求菩提山)に通
い、「 頭 」大天
狗(豊前坊)及び
 八咫烏 」(求
菩提山八天狗)一
族と同盟を結ぶ。
 この間、吉野の
国樔(玖珠)
部ら
を巡撫。
(日本書紀要約)
一一八 春二月、第二次東征開始。
  「日を背にして戦う神策」を実行に移す。
   速吸門(関門海峡)に至り、珍彦を道案
  内とする。
   菟狹(安心妻垣神社)に至り、一柱騰(あしひとつあがりの)
  宮
に入る。
「写真」

 安心院妻垣神社 

神武天皇(第二次東征)

 常識とは随分違うが、西暦118年に第二次東征を開始する。菟狹に至り、一柱騰宮に書かれている場所を宇佐市安心院の  妻垣神社 に発見した。

 狹野嶽というのが、豊前にある  求菩提山 である。「頭八咫烏」の「頭」は、英彦山の大天狗(豊前坊)で、「八咫烏」は求 菩提山八天狗一族である。神武天皇は、その彼らと同盟を結ぶ。
 その間に豊前の南の地、吉野の国樔(現在の玖珠)の部族たちを手を結んだ後に田川・筑豊の土地へ攻め込んだのが、神武東征の本質だと分析した。

 

(日本書紀)
 十月、赤銅の八十梟帥を国見丘に破る。
 九月、天香山
  (香春岳)

  攻略にかかる。
 八月、菟田縣
  の血戦に勝
  つ。
 七月、頭八咫
  烏の案内で
  英彦山を下
  る。
一一八 
 六月、「天皇獨り、皇子手研耳命と軍を
  帥ゐて進む。既にして皇師中洲に趣か
  んと欲す。」
「写真」

頭八咫烏

求菩提山八天狗像

神武天皇 (第二次東征)

 日本書紀を要約した内容である。「中洲」という言葉が書かれている。豊葦原中国であり、豊秋津島である。「豊」の字が付いている。これは、元々は豊前・豊後国であり豊国である。
 したがって、神武東征というのは明らかに豊国への侵略である。

 日本書紀・神武紀の大半は、天香山を攻略する話である。天香山が香春三ノ岳である限り、神武天皇は香春の地を攻めたのある。
 敵の名前が、「赤銅の八十梟帥」とあり、赤銅(銅)である。奈良県の天香久山(天香具山)からは、銅は採れない。香春三ノ岳である。

 大天狗は、彦山と求菩提山に祭られている。この烏天狗と呼ばれるのが、「頭八咫烏」である。今でこそデフォルメされているが、元々は人間である。
 彼らの祭る神が、頭は鷲、体は人間、背中に翼があるというインドやインドシナによくみられるガルーダという神である。
 そのガルーダの神を祭る一族が、豊前の土地にいたらしい。英彦山に大天狗が住んでいた。皆さん、天狗といえば、赤ら顔で鼻が高い顔を思い浮かべる。インド・アーリア系の人々の顔のデフォルメである。
 豊国・備前の地にインド・アーリア系の人々がいた。私に言わせると天狗は、実在である。

 

神武天皇 (第二次東征)
 筑紫鎌の南端、豊前田川に接する地を山
田の庄といふ、庄の東北に山あり帝王山と
云ふ、斯く云ふ所以は、昔神武天皇東征
時、豊國宇佐島より柯柯小野に出でて天祖
吾勝尊(天忍穂耳尊)
を兄弟山の中峰に祭
りて後、西方に國を覓め給はんとし給ふ時 

 (中略)

 山上神社あり之を射手引神社と云ふ、祭
る所の神三座天照大神、手力雄命、景行天
皇なり、天皇(景行天皇)の御宇筑紫全島
五月蠅の皆湧くが如し、土蜘蛛と稱する者
多く山川の嶮を恃み、恣に黨類を集め、朝
命を奉ぜず

 (下略)
射手引神社々傳

 神武天皇が、筑豊のあちらこちらを攻めて行ったという記録が、嘉麻市にある  射手引神社 の社伝の中に残されている。その神武天皇の東征コースである。

F 一、鳥居 (同)
    前記八所神社附近の地名、靈烏が
    『伊名和』と鳴きて皇軍を導いた土地
E 一、天降八所神社 (同、頴田村)
    皇軍行路に惱む時、八神雲影に感現して
    進路を教へ給ふ
D 一、馬見山 (同、足白村)
    天孫ニニギの尊の靈跡を訪ね降臨供奉の
    臣馬見物部の裔駒主命を東道役とし給ふ
C 一、神武山 (同宮野村、熊田村)
    カムタケ山といひしが今は單に神山といふ
B 一、小野谷 (現嘉穂郡宮野村)
    迷路を質すべく高木の神を祭りたまふ
A 一、帝王越 (帝王山の山の尾をいふ)
鞍手郡誌の東征コース ①

 

N 一、勝負坂 (同)
M 一、鯰田 (飯塚市)
    沼田といふ、天皇遠賀川を渡り惱み
    大迂回を行ひ給ふた所
L 一、目尾山 (同幸袋町)
K 一、鹿毛馬 (同)
J 一、嚴島神社 (同) 
    天皇、宗像三女神を祭り給ふ
I 一、佐與 (同)
    天皇の靈跡―佐與計牟の約言
H 一、杉魂明神 (同)
    天皇の御惱を醫し奉ったところ祭神は
    天皇と駒主命と椎根津彦
G 一、烏尾峠 (同)
    靈烏を烏尾明神の出現といひ、カラスは
    八咫烏のカラスに同じ
鞍手郡誌の東征コース ②

 「G:烏尾峠」は、田川郡にある。この現地伝承では、八咫烏のカラスに同じだと言っている。

 

U 一、白旗山 (同) 
    天祖を祭られて神託を得られた靈跡
T 一、擊皷神社 (同幸袋町)
    天皇進軍を命じ給ふた故地
S 一、片島 (同二瀬村)
    加多之萬、又は堅磐と書き皇軍上陸の
    地を指す
R 一、鉾の本 (同) 
    豪族八田彦皇軍を奉迎、遠賀川を渡河
    された故名
Q 一、王渡 (同)
P 一、徒歩渡 (同)
O 一、立岩 (同) 
    天皇が天祖に祈願し給ふたところ
鞍手郡誌の東征コース ③

 

 神武天皇の東征コースの「O:立岩」は、  立岩神社 である。その立岩神社に写真にある大きな石がある。この石は、何を意味する石か最初は解らなかった。

 この石は、神武天皇が倒した敵。前の王者残した 舟石 = 天磐船 だったらしい。神武天皇は、敵のモニュメントである天磐船に兵士たちを登らせて、たぶん船体の部分を真っ二つに折らせたらしい。
 神武天皇が本当にこの立岩神社(立岩)に来た名残だと思う。

 右側の写真は、佐賀県鳥栖市にある舟石権現で大きな石である。これは明らかに帆掛け船を形である。

「写真」

 立岩神社 
(船体を折られた天磐船)

「写真」
「写真」

 鳥栖市の舟石権現 

立岩神社の証言

 

e 一、大分 (同) 
    オホギタと讀む、天皇の神靈を祭る
d 一、高田 (同大分村)
    田中熊別の奉迎地
c 一、日の原 (同)
    天皇に因む地名
b 一、姿見 (同)
a 一、潤野 (嘉穂郡鎮西村)
    天祖を祭られた所
Z 一、曩祖の杜 (飯塚市)
    曩祖を祭られた所
Y 一、神武邑 (同)
    天皇に因む地名
X 一、神武山 (同)
W 一、伊岐須 (嘉穂郡二瀬村)
    大屋彦の奉迎地
鞍手郡誌の東征コース ④

 

(以下略)
l 一、若杉山 (同篠栗町)
    いづれも天皇の靈跡地 
k 一、神武原 (同)
j 一、蚊田の里 (粕屋郡宇美町)
    荒木の女志津姫皇子蚊田皇子を生み
    奉った地
i 一、田中庄 (筑紫郡大野村)
    荒木武彦奉迎地
h 一、寶滿山 (竈門山)
    登山して御母君の靈位を祭り給ふ
g 一、牛頸 (同)
    土蜘蛛打猿打首の故地
f 一、山口 (同上穂波村)
    皇軍戰勝休養の地
鞍手郡誌の東征コース ⑤

 神武天皇は、筑紫の寶滿山(竈門山)を出発して、東の方、豊国を攻め滅ぼした。その東征に成功した後に陸路を凱旋して、寶滿山に戻り、御母君(玉依姫)の靈位を祭ると書かれている。

 「j:蚊田の里」というのは、現在、  宇美八幡宮 がある場所である。後、4世紀の神功皇后が応神天皇を出産した場所と同じ所である。
 西暦120年代に神武天皇の后の一人が、蚊田皇子を生み奉ったいう日本史には表れない事績が、筑豊の伝承に残されている。

 

求菩提山縁起
写真「求菩提山縁起」
一二一 辛酉年の春正月の庚辰朔に、天皇
   橿原宮に於いて帝位に即きたまふ。
(日本書紀)
※ 神武即位。
 倭奴(いぬ)国滅び邪馬台(やまと)国成立

 もう一つが、求菩提山縁起である。赤線を引いている部分に
 「神武天皇鋒端を揺し、 中国を平らげ、威奴の邪神を撥はしめ、九州(おさ)めたもう。」
と書かれている。
 現地伝承では、神武天皇は九州を出ていないと書かれている。

 西暦121年に神武天皇は、即位された。神武天皇が倒した前の国が、倭奴(いぬ)国である。志賀島から出たとされる金印の国、漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)と読むのは、嘘である。
 私は、邪馬台(やまと)国、九州説である。神武天皇が創始した国である。「台(臺)」という字は、平安時代まで古典では、「と」と読む。したがって、邪馬台国は、最初から「やまと国」と書いてあった。

 

香春の鶴岡八幡宮(橿原宮)

おほきんさん(畝傍東北陵)

一三七
 秋九月の乙
 卯朔丙寅に
 畝傍山東北
 陵
に葬りま
 つる。
「写真」
「写真」

 神武天皇が即位した都は、畝尾山の東南と日本書紀に書かれている。香春一ノ岳の東南の位置に見事に鎌倉市の鶴岡八幡宮よりも50年も早くに創建された  鶴岡八幡宮 がある。
 この地が、神武天皇が即位された本物の橿原宮跡だろうと推測している。写真にあるようにこの神社に生えている木は、カシ(樫、橿)の木である。宮司さんが、「樫葉の山」と題する小冊子を出されている。だから、本当だったら、「橿原宮」ではなく「橿山宮」だったかも知れないがそれは定かではありません。

 神武天皇は、西暦137年の秋9月に畝傍山東北陵に葬りまつるとハッキリと日本書紀に書かれている。香春一ノ岳が本物の畝尾山であるならば、その東北の位置に見事に「  おほきんさん 」という考古学的に弥生時代の円墳がある。
 その「おほきん」を漢字で書けば、「大王」である。古代には、天皇とは言っていない。大王(おおきみ)である。地元の人が、「おほきんさん」と言っているからには、これが本物の神武天皇陵、畝傍山東北陵だと考えている。