「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 倭(大和)王朝は筑豊にあった
(平成二九年一一月八日(水)、日本漆喰協会平成29年度総会、於:ホテル メルパルク熊本)より
■ 本物の仁徳天皇が国見に登った天香山は、香春三ノ岳
『古事記』仁徳記にある高山は、「かぐやま」と読む。「かぐやま」には、色んな表記がある。
ここに書かれている「聖帝の世」が、仁徳という「諡」の由縁である。人民の竈から炊事の煙が上がらない。だから、三年間税を免除せよ。とおっしゃって、三年間じっと貧乏ぐらいに耐えた。
したがって、宮殿が雨漏れする。江戸時代の貧乏長屋のような話である。それで、皇后と一緒に箱で雨を受けて、自分たちは雨漏れしていない所を転々とした。
それから三年後に香山に登って国見をなさったら煙が盛んに立っていた。
百人一首でも有名な歌である。
この歌は、もちろん、奈良県では成り立たない歌である。石灰岩の山、香春岳に置いて初めて成立する歌である。香春岳は紀元前から平安時代の初期の頃まで豊後の火山活動(酸性雨が降ったり)の影響を受けて草木の生えていない。つまり、石灰岩剥き出しの山であった。
だから、500m級の連山が、万緑の中に真っ白に輝くのである。「白妙の衣」は、人間の衣では無かった。
香春岳の石灰は、日本でも有数の純白の石灰岩である。古代人の表現は、ピッタリである。神が白妙の衣を掛けてあるかのように照り輝くという歌であった。雄大な歌である。
奈良県の天香具山は、年がら年中緑である。標高は152mである。全然この歌とは、合わない。歌が証明します。そして、この歌は、持統天皇ではなく、宇治天皇の皇后、髪長姫が、二度目の国見を見送る時の歌である。
宇治天皇が二度目の国見で天香山に登った時の歌である。
『万葉集』二番歌、「海原は 鷗立ち立つ」が昔から謎の歌であったが、当然、「海原」は、広々とした海であり、「鷗」は、海辺で見られるカモメである。
万葉集では、句末の「蜻蛉嶋 倭の國は」の部分は、「豊」の字が落ちていた。「(豊)蜻蛉嶋 倭の國は」となる。
反歌は、万葉集一五番歌である。
平安時代末~鎌倉初期の歌人、藤原定家が持っていた万葉集では、この歌が長歌・反歌の組み合わせであると書いている。その説をひも解いた。
淡海というのは、かつて筑豊地方には、古遠賀湾という大きな大きな入り江が入り込んでいた。天香山に登れば、眼下のその海原に鴎が飛んでいるのが見えた。
かつての倭(やまと)国の地図である。天香山(香春三ノ岳)からは、海原の鴎が見えた。福岡県でないとダメである。奈良県は永遠に見えない。
人民が恩返しに宇治天皇に新宮殿を造ったことが日本書紀に書かれている。そして、新宮殿に移った時の歌が万葉集七番に残されている。
万葉集にたった一ヶ所、「宇治の京」というのが残されていた。
「宇治の京」跡を香春岳がある香春町の中に探し出した。 阿曽隅社 という所である。これが本物の仁徳天皇(宇治天皇)の京の跡だろうと思われる。
通説の仁徳天皇の国見の絵であるが、山に登っていない。日本書紀に「居臺上而遠望之」と書かれているからである。古事記は「高山」である。書き換えられている。
本物の仁徳天皇(宇治天皇)が高山=天香山(香春三ノ岳)に登って国見をした。
日本書紀を読んでいくと仁徳天皇には、二つの顔がある。一つは、人民思いの天皇。もう一つは、言い方が悪いが女の尻ばかり追いかけている顔がある。これは、大鷦鷯天皇である。
菟道稚郎子(宇治天皇)は、自殺ではなく、大鷦鷯に殺された。
宇治天皇に仕えた 王仁(わに) という人物が残した歌である。この歌は、国文学の世界では有名な歌で、一つには、「朝廷の御初めを祝った歌」の解釈がある。
もう一つには、「大鷦鷯天皇の政治を風刺し申し上げた歌」の解釈がある。その風刺の解釈である。
大鷦鷯天皇の難波高津の宮は、行橋市の 五社八幡神社 である。
宇治天皇は、大鷦鷯天皇に殺された。殺した側の大鷦鷯天皇が仁徳天皇であると思い込まされてきた訳である。宇治天皇を殺した目的は、只一つ宇治天皇の皇后、髪長比瑪があまりにも美しかったので、奪い取る為であった。それで、腹違いの弟を殺したというトンでもないことが日本書紀に実は書かれている。