「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 倭(大和)王朝は筑豊にあった

※ 倭(大和)王朝は筑豊にあった
 (平成二九年一一月八日(水)、日本漆喰協会平成29年度総会、於:ホテル メルパルク熊本)より

■ 本物の仁徳天皇が国見に登った天香山は、香春三ノ岳

(『古事記』仁徳記)
 是に天皇、高山(かぐやま)に登りて、四方の國を見
たまひて詔りたまひしく、「國の中に烟發
たず
國皆貧窮す。故、今より三年に至る
まで、悉に人民の課役(えつき)(ゆる)せ。」とのりた
まひき。
 是を以ちて大殿破れ壊れて、悉に雨漏れ
ども、(かつ)て脩理すること勿く、(はこ)を以ちて
其の漏る雨を受けて、漏らざる處に遷り避
けましき。後に國の中を見たまへば、國に
烟滿てり

 故、人民富めりと爲ほして、今はと課役
を科せたまひき。是を以ちて百姓榮えて、
役使(えだち)に苦しまざりき。
 故、其の御世を稱へて、聖帝の世と謂ふ
なり。
仁徳天皇(宇治天皇)

 『古事記』仁徳記にある高山は、「かぐやま」と読む。「かぐやま」には、色んな表記がある。

 ここに書かれている「聖帝の世」が、仁徳という「諡」の由縁である。人民の竈から炊事の煙が上がらない。だから、三年間税を免除せよ。とおっしゃって、三年間じっと貧乏ぐらいに耐えた。
 したがって、宮殿が雨漏れする。江戸時代の貧乏長屋のような話である。それで、皇后と一緒に箱で雨を受けて、自分たちは雨漏れしていない所を転々とした。
 それから三年後に香山に登って国見をなさったら煙が盛んに立っていた。

 

※ 詠み人は持統天皇でなく、宇治天皇の皇后
 髪長姫と推測。
【新解釈】
 春が過ぎて夏が来たらしい。香具山の周囲には
濃い緑が繁っているが、それとは対照的に香具山
だけは夏の強い日差しを受けて、真っ白に輝いて
いる。それはあたかも造化の神がそこだけに「
白のつやのある白妙の衣
を乾してある」かのよう
に眼に鮮やかに映ることよ。
 その香具山を、天皇が民の暮らしが豊かになっ
たかどうかを確かめる国見のためにお登りになっ
ている、そのお姿が小さいながらも見える。
 どうか、民の竈が賑わっていますように
 過ぎて 夏来たるらし 白妙の
衣乾したり 天の来山
天皇御製歌
 春過而 夏来良之 白妙能 乾有
天之香来山
(万葉集二八)
(持統天皇)
仁徳天皇(宇治天皇)

 百人一首でも有名な歌である。
 この歌は、もちろん、奈良県では成り立たない歌である。石灰岩の山、香春岳に置いて初めて成立する歌である。香春岳は紀元前から平安時代の初期の頃まで豊後の火山活動(酸性雨が降ったり)の影響を受けて草木の生えていない。つまり、石灰岩剥き出しの山であった。
 だから、500m級の連山が、万緑の中に真っ白に輝くのである。白妙の衣」は、人間の衣では無かった
 香春岳の石灰は、日本でも有数の純白の石灰岩である。古代人の表現は、ピッタリである。神が白妙の衣を掛けてあるかのように照り輝くという歌であった。雄大な歌である。
 奈良県の天香具山は、年がら年中緑である。標高は152mである。全然この歌とは、合わない。歌が証明します。そして、この歌は、持統天皇ではなく、宇治天皇の皇后、髪長姫が、二度目の国見を見送る時の歌である。

 

 淡海旗雲に入日の射すのを見た今夜は、月もさや
かに照ることであろう。
三稔(みとせ)の間ころ、百姓富寛(ゆたか)なり。頌徳(ほむるこゑ)既に滿ちて、炊烟
 亦繁し。秋津島倭の国の将来も明るい。朕の心も晴
 れやかだ。)
反 歌
 倭国には多くの山々があるけれども、耳成と畝尾の峰
と連れ立って聳える天の香山
(香春三ノ岳)に、登り立
ち国見をすると、今や(豊国の)国原は人民の炊煙が盛
んに立ちのぼる。淡海(古遠賀湾や行橋の入り江)の
(かまめ、瀬戸内地方の方言)が盛んに飛び立つ。
よい国だ、秋津島倭の国は。
【新解釈】
 天皇が天の香山に登って国見をなさった時の御製歌
(万葉集一五)
 わたつみの 旗雲に 入日射し 今夜の月夜
さやに照りこそ
反 歌
(万葉集二)
 倭には 群山有れど 取り鎧ふ 天の香具山 
登り立ち 國見を爲れば 國原は 煙立ち立つ 
海原は 鷗立ち立つ うまし國そ 『』蜻蛉嶋
倭の國は
天皇香具山に登りて望國(くにみ)せし時の御製歌
仁徳天皇(宇治天皇)

 宇治天皇が二度目の国見で天香山に登った時の歌である。
 『万葉集』二番歌、「海原は 鷗立ち立つ」が昔から謎の歌であったが、当然、「海原」は、広々とした海であり、「鷗」は、海辺で見られるカモメである。

 万葉集では、句末の「蜻蛉嶋 倭の國は」の部分は、「豊」の字が落ちていた。「(豊)蜻蛉嶋 倭の國は」となる。

 反歌は、万葉集一五番歌である。
 平安時代末~鎌倉初期の歌人、藤原定家が持っていた万葉集では、この歌が長歌・反歌の組み合わせであると書いている。その説をひも解いた。

 淡海というのは、かつて筑豊地方には、古遠賀湾という大きな大きな入り江が入り込んでいた。天香山に登れば、眼下のその海原に鴎が飛んでいるのが見えた。

 

Google Earth「福岡県Flood Maps」
物部の八十氏河(贄田物部・馬見物部)
物部二十五部衆「依山島居」

 かつての倭(やまと)国の地図である。天香山(香春三ノ岳)からは、海原の鴎が見えた。福岡県でないとダメである。奈良県は永遠に見えない。

 

【新解釈】
 金の野の草を刈って屋根にふいて宿って
いた、あの宇治(福岡県田川郡香春町古宮ヶ鼻)
宮室質素な造りがなつかしく思い出
される。
 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を調べる
と書いてあることには、一書に戊申の年
(宇治天皇三年=四〇八か)に(宇治天皇
が)比良(菟道河沿いの地か)の宮に行幸
されるときの大御歌といっている。(後略)
 右、山上憶良大夫の類聚歌林を検ふる
に曰はく、一書に戊申の年比良の宮に幸
すときの大御歌といへり。(後略)
(万葉集七)
 金の野の み草刈り葺き 宿れりし
宇治の京の 仮廬(かりほ)し思ほゆ
仁徳天皇(宇治天皇)

 人民が恩返しに宇治天皇に新宮殿を造ったことが日本書紀に書かれている。そして、新宮殿に移った時の歌が万葉集七番に残されている。

 万葉集にたった一ヶ所、「宇治の京」というのが残されていた。

 

宇治宮(上権様)

香春町 阿曽隈社

 「宇治の京」跡を香春岳がある香春町の中に探し出した。  阿曽隅社 という所である。これが本物の仁徳天皇(宇治天皇)の京の跡だろうと思われる。

 

通説の仁徳天皇
「絵」
「絵」

高台から炊煙を眺める仁徳天皇

大雀天皇と八田若郎女に
嫉妬する石之比売皇后

 通説の仁徳天皇の国見の絵であるが、山に登っていない。日本書紀に「居臺上而遠望之」と書かれているからである。古事記は「高山」である。書き換えられている。

 本物の仁徳天皇(宇治天皇)が高山=天香山(香春三ノ岳)に登って国見をした。

 日本書紀を読んでいくと仁徳天皇には、二つの顔がある。一つは、人民思いの天皇。もう一つは、言い方が悪いが女の尻ばかり追いかけている顔がある。これは、大鷦鷯天皇である。

 菟道稚郎子(宇治天皇)は、自殺ではなく、大鷦鷯に殺された。

 

【新解釈 二 大鷦鷯天皇の政治を風刺し
  申し上げた歌】
 大鷦鷯天皇の遠つ淡海にある難波高津の
には咲き誇っていますか、梅の花が。
 いや、決して咲きますまい。冬、木の芽
が盛り上がるように、かの宇治帝が三年間、
人民の課役を科せられずに、雨漏りのする
粗末な宇治の京の仮廬のような宮殿で過ご
され、その間に人民は富み、やがて炊煙が
盛んに立つようになった、あの聖帝の御世
を継承できますか。
 大鷦鷯天皇の御世となった今を春と讃え
て咲き誇っていますか、梅の花は。
 人民と共に富み栄えることがなければ、
梅の花は決して咲きますまい。
【新解釈 一 朝廷の御初めを祝った歌】
王仁
 難波津に 咲くや木の花 冬木成 
今は春べと 咲くや木の花
仁徳天皇(宇治天皇)

 宇治天皇に仕えた   王仁(わに) という人物が残した歌である。この歌は、国文学の世界では有名な歌で、一つには、「朝廷の御初めを祝った歌」の解釈がある。

 もう一つには、「大鷦鷯天皇の政治を風刺し申し上げた歌」の解釈がある。その風刺の解釈である。

 大鷦鷯天皇の難波高津の宮は、行橋市の  五社八幡神社 である。

 宇治天皇は、大鷦鷯天皇に殺された。殺した側の大鷦鷯天皇が仁徳天皇であると思い込まされてきた訳である。宇治天皇を殺した目的は、只一つ宇治天皇の皇后、髪長比瑪があまりにも美しかったので、奪い取る為であった。それで、腹違いの弟を殺したというトンでもないことが日本書紀に実は書かれている。