「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 倭(大和)王朝は筑豊にあった

※ 倭(大和)王朝は筑豊にあった
 (平成二九年一一月八日(水)、日本漆喰協会平成29年度総会、於:ホテル メルパルク熊本)より

■ 田川に残された天智天皇の伝承

天智天皇
「沁泉の説明版(糸田町教育委員会)」

 田川郡糸田町に泌泉(たぎり)という泉がある。今は公害で水が涸れているが、ここの由緒書きには、天智天皇七年秋八月に右大臣金連公によって造営されたという記録が残されている。
 この右大臣金連は、日本書紀にも出てくる。

 

泌泉(たぎり)
Google Earth「沁泉(糸田町)」

 上空から見ると判るようにこの泌泉(たぎり)は、丸い池と四角い池である。

 

豊前誌 (金村神社の項)
 糸田村にあり今昔説に大伴金村
祭る。
 此の村水なきを憂いて砿夫をして
山を穿たしめ自ら鉾にて山を刺し賜
、それより水出ると言へり、金村
は大臣平群真鳥(へぐりのまとり)、其の子(しび)をも誅し、
仁賢天皇(四八八~四九八年)の御
世より、欽明天皇(五三九~五七二
年)の御世まで
、六御世の朝臣に仕
え奉り五御世の間大連と為られし人
なり、如何なる所以ありて此処に下
られしにかあらん、其の子狭手彦(さでひこ)
新羅国を誅へとの勅を蒙りて筑紫に
下りし事は御記に見えたり云々。

 金村神社とあるように大伴金村が関係する。大伴金村が最初に糸田町の関の山という石灰岩の山から泌泉という場所に真水を引いてきたという話が残されている。
 大伴金村は、西暦四八八年から五七二年頃の人物である。

 

たぎり(絵本)の由来
 仲江健治様
「泌泉近くの車路
 見立などの
 字名は、古代官
 道
の名残である。」
 沓形義勝氏
「小さいとき泳いだ
 たぎりの水は、き
 れいで冷たく、
 量は豊か
だった。
 溢れた水が堰を超
 えた
。」
「絵本」
「絵本」

 当地に残る伝承の絵本である。大伴金村が描かれている。

 

天智天皇
 十年春正月己亥朔庚子、大錦上
蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於
殿前、奏賀正事。癸卯、大錦上中
臣金連命宣神事。是日、以大友皇
子拜太政大臣、以蘇我赤兄臣爲左
大臣、以中臣金連爲右大臣、以蘇
我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣爲
御史大夫。御史蓋今之大納言乎。
甲辰、東宮太皇弟奉宣或本云大友
皇子宣命施行冠位法度之事、大赦
天下。法度冠位之名、具載於新律
令也。
 夏四月丁卯朔辛卯、置漏剋於新  
。始打候時動鍾鼓、始用漏剋。  
此漏剋者、天皇爲皇太子時、始親  
所製造也、云々。

 日本書紀の天智天皇十年春正月の記事に中臣金連が右大臣となったとある。その年の夏四月に漏刻を新しい台に置いたとある。我が国初の水時計が置かれたと書かれている。
 この日本書紀の記事から、糸田町泌泉の由緒にある金連公が造営されたあるように丸い池と四角い池のこの場所に天智天皇が漏刻を置いた場所ではないだろうか。

 滋賀県の近江神宮とか奈良県の飛鳥水落遺跡に漏刻があったと定説の学者たちは言っているが、嘘である。ここ糸田町泌泉には、伝承と池の跡が残っている。

 

天智天皇
「福岡県神社誌の金村神社の本文」

 福岡県神社誌の金村神社の本文である。これを口語約した。

 

天智天皇
【口語訳】
 旧記(不詳)に云うことには、糸田庄の
金村権現宮は天智天皇七年秋八月右大臣
金連公
が造営させられたものである。
 初め、金連公は天皇につき従い、筑紫の
要害を巡視された時この地に到り、権現が
夢に現れ告知をこうむり、鉾を用いて地を
探り神泉を得、灌漑に便利であった。
 よってその後友足(有職か)に仕え権現
を池のほとりに勧請し、村人に永く権現の
恩恵を享けさせた。
 社伝に云うには、金村権現は大和国葛城
下郡の式社で、大臣の氏神である。
 今年七月、激震がしきりに起こり、社殿
に到り、神体を損傷し、水口を塞ぎ、神泉
を埋めた。

 

天智天皇
 こういうわけで、いずれの田も亀裂が
入り、稲が悉く枯れ、人民は恐れおのの
いた。
 そこでまず大神楽を奏し、その上幼児
に家々のために神慮を伺わせた所、神が
幼児に憑いて告げて言うには、
「ここより北方二町に霊石の目印有り、
その傍らに鉾有り、拾い来たりて神体と
崇むべし。」と。
 そこで鉾を探させると果たして神のお
告げどおりであった。
 それで神の教えに従って鉾を奉斎した。
 以来、神慮もたちまちに和み神泉も復
旧した。
 すべての人が感動し、喜びのあまり特
に高瀬に命じてこの始末を台板に彫り付
けさせた。
 この思いを終えるのに他は無い。

 

天智天皇
 永く石を用いて神体をお迎えした理由を知らせようと
しただけだ。
承安四甲午(一一七四年)
        七月二十五日  
 大願主大檀越  
 大神朝臣緒方右京進惟世敬白
地図「沁泉周辺の古地図」

 承安四年(一一七四年)七月に地震でご神体が壊れて、水口を塞ぎ、神泉を埋めた。お告げの「北方二町」の所に「鉾有り」通りに鉾があり、それを新しく奉ったとある。
 地図に泌泉の北に鉾本という字名の場所が残されている。

 

天智天皇
(斉明六年、六六〇)夏五月辛丑朔戊申、
高麗使人乙相賀取文等、到難波館。是月、
有司、奉勅造一百高座・一百衲袈裟、設仁
王般若之會。又、皇太子初造漏剋、使民知
。又、阿倍引田臣闕名獻夷五十餘。又、
於石上池邊作須彌山、高如廟塔、以饗肅愼
卅七人。又、舉國百姓、無故持兵往還於道
。國老言、百濟國失所之相乎。
合成写真「沁泉+慶州瞻星台」

新羅慶州の瞻星台+泌泉
 瞻星台 高さ:9.17m
 地上部の直径:5.17m

 漏刻の記事については、日本書紀はおかしな事に同じ記事であるハズが、天智十年と斉明六年にある。斉明六年、皇太子漏刻を始めて作り、民に時を知らせるとある。
 さらに続いて、高さが廟塔の如くの須彌山を造ったという記録が残されている。しかし、日本全国何処にも、本物の須彌山と漏刻の跡というのは、見つかっていない。

 上記の写真のように泌泉の丸い池には、新羅慶州にある瞻星台の建物が建っていたらしい。新羅慶州の瞻星台は、唐・新羅の連合軍と戦った白村江の戦いに近い時代に善徳女王が建てた建物である。
 泌泉の丸い池の写真に新羅慶州の瞻星台の写真を合成してみたが、不思議と違和感がない。したがって、このような、建物が建てられていたのでないだろうか。
 韓国の学者も瞻星台では無くて、須彌山ではないかと云っている。

 新羅慶州の瞻星台(高さ9.17m)の倍の大きさ、高さ20mくらいの石造りのご神体が建っていたのではないだろうか。
 これが、現地伝承から割り出した私の推測である。

 

天智天皇

 日本における時刻のはじまり 天智天皇の10年 4月25日に
始めて漏刻を新しい台に 設置して鐘鼓を鳴らして時を告げた
との「日本書紀」の記述が、日本における最古の時報の記録と
なります。 ( 太陽暦に直すと西暦671年、6月10日。)

「沁泉の漏刻」
「飛鳥水落遺跡の漏刻の絵」

 横にある四角い池の方には、丸い池のほうから水がどんどん湧き出してくるので、漏刻には、水を受けるだけで半自動的に時を刻むことが出来る。
 奈良県の飛鳥水落遺跡の絵は、役人が横にあるプールから水を汲んで漏刻の一番上の水槽に水を運んでいる。私に言わせると噴飯ものである。何故、役人が四六時中、水を汲んで運ばないけないのか?
 ここ糸田の泌泉であれば、丸い池から湧き出した水を受け止めるだけで時が測れる。

 

天智天皇
「漏刻の模型」

  

「漏刻の絵」

 水が満杯になると一番下の段の水槽の栓を外し水を抜けば、また、翌日に時が測れる。だから、天智天皇の漏刻は、田川郡糸田町の泌泉が本物の遺跡ではないかと推測している。
 通説と違う事を言っている。天智天皇は、滋賀県にはいなかった。やはり、天智天皇は、豊前の土地にいたと言っている訳である。

 

天智天皇
(斉明六年、六六〇)「方今謹願、迎
 百濟國遣侍天朝王子豐璋、將爲國主。」
 云々。
 送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝等、其正
 發遣之時見于七年(六六一年)
b(斉明元年)皇祖母尊即天皇位。
 (斉明)七年七月丁巳崩(皇太子素服
 稱制
(天智)三年春二月己卯朔丁亥、天皇命
 大皇弟、宣増換冠位階名及氏上・
 民部・家部等事
 (この条は全体として、または部分的に天智
  天皇十年
条と重出しているらしい。〈日本
  古典文学大系頭注〉)

 

天智天皇
日本書紀の紀年
豊前国旧記の紀年
斉明元年
天智元年 称制
斉明六年 豐璋等發遣
斉明六年 須彌山・漏刻建造
斉明七年 右記の実年
天智七年(六六一)
天智七年 須彌山・漏刻建造
天智元年 皇太子称制
天智八年
天智三年 官位改訂記事
天智十年 同上記事
※天智九年 天皇崩
※天智九年 (扶桑略記)
天智十年 官位改訂記事重出
天智十年 漏刻建造記事重出
天智十年(天智七年の誤りか)
天智十年 十二月天智崩御
天智十七年?

 

 

 

 

 

 糸田町泌泉の記録から解ったことは、斉明天皇は、天智天皇の母親では無いらしい。斉明天皇は、筑紫国の天皇であり、天智天皇元年と斉明天皇元年が同じ年である。
 福岡県神社誌、金村神社にある豊前国旧記の天智天皇七年から一致する。斉明天皇元年と天智天皇元年は、イコールである。これが、私が得た結論である。
 そうすると、旧記の天智天皇七年は、日本書紀の斉明天皇七年であり、西暦六六一年になる。この年に須弥山と漏刻が造られたのであろうという事が解ってきた。

 この年を元にすれば、大宰府にある水城が造られた年は、唐・新羅連合軍が攻めて来た時の防御として白村江の戦いの後に造られたとなっているが、7年前に戻せば、白村江戦の前にすでに水城は造られていたことになる。
 糸田町泌泉に残された旧記が、証明してくれた事になる。日本書紀をよく読んでいくと7年ズレの記事がいっぱい残されている。間違いないと思われる。

 

倭河邊行宮
地図「香春町古宮周辺の字図」
「阿曾隈社(香春町古宮ヶ鼻)」

宇治宮(上権様)

 天智天皇も仁徳天皇と同じ宇治宮に入られたと日本書紀に書かれている。

 

天智天皇
天智四年(六六五 → 六六四
 等謂、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍朝散大夫
柱國郭務悰
、凡二百五十四人。七月廿八日至于
對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。
 冬十月己亥朔己酉(十一日)、大きに菟道(香春阿曽
隈社)に閲す
琴弾瀧の由来 (標石) 
 紀元千三佰拾年の頃、天智天皇御西下豊前の
国に御立寄の節 ある日此の瀧に御遊覧あらせ
られ瀧の側に御休みの時、天皇の御心を慰め奉
らんと天女が天下りて琴を弾いたので天皇の叡
感斜め
ならず
「琴弾
瀧」と
御命名
遊され
た。
(後略)
写真「琴弾瀧」

 天智四年に白村江の戦いに敗れたにも関わらず、天智天皇は菟道宮に戦勝国側の唐の朝散大夫柱國郭務悰や百濟禰軍らを迎えて閲兵したと書かれている。
 言いたくは無いが、昭和天皇が勝った側のマッカーサー元帥らの軍隊を閲兵したという事がありましたか? 日本書紀には、このような謎が平気で書かれている。

 天智天皇が、菟道宮にいたとした時に田川郡赤村の琴弾瀧に天智天皇の伝承が残されている。15、6年前に見つけた時には、何故、この場所に天智天皇の伝承が残っているのか不思議であったが、今はもう納得している。