「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 倭国大乱と卑弥呼

※ 倭国大乱と卑弥呼
 (平成三〇年七月八日(日)、主催:田川広域観光協会、於:福岡県立大学大講義室)より

■ 『魏略』、『魏志倭人伝』の帯方郡から女王國への記述等

 魏略曰…自帶方至女國万二千餘里
文身點面猶稱太伯之苗
 魏略曰、從帶方、循海岸水行、
暦韓國、到拘耶韓國、七十餘里、始度
一海、千餘里至對馬國。 其大官曰卑
拘、副曰卑奴。無良田、南北市糴。
南渡海、至一支國、置官至對同。方可
三百里。又渡海、千餘里至末盧國人善
捕魚
能浮沒水取之。東南五百里、至
伊都國、戸万餘、置曰爾支、副曰洩溪觚
柄渠觚。其國王皆統屬王女也。
分軄命官統女王而列部
帯方郡から倭・女王國に

 

新北

 女王国より以北には、特に一大率を置き
諸国を検察せしむ。
 諸国、之を畏れ憚る。
 常に伊都国に治し、国中に於いて刺史の
如き有り。
 王使を遣はして京都・帯方郡・諸韓国に
詣らしめ、及び郡の倭国に使するや、皆
に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送し
て女王に詣らしめ、差錯するを得ず。
(中略)
魏志倭人伝

 

新北津跡

 

 倭人は、帯方の東南、大海の中に在り。
山島に依りて国邑を為す。旧百余国。漢
の時朝見する者有り。
 今、使訳通ずる所三十国なり。
 郡より倭に至るには、海岸に循したが
ひて水行し、韓国を歴へて、乍たちまち
南し乍ち東す。
 其の北岸狗邪韓国に至るには七千余里
なり。
 始めて一海を度る千余里、対海(対馬
国に至る。
 其の大官を卑狗と曰ひ、副を卑奴母離
と曰ふ。
 居る所は絶島、方四百余里可ばかり。
土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿の
径こみちの如し。千余戸有り。良田無く、
海物を食ひて自活す。
 船に乗り南北に市糴してきす。
魏志倭人伝

 

 又、南一海を渡る千余里、名づけて
澣海と曰ふ。一大(一支)国に至る。
 官を亦卑狗と曰ひ、副を卑奴母離と
曰ふ。方三百里可り。竹木叢林多く、
三千許りの家有り。差やや田地有り、
田を耕すも猶食ふに足らず。亦南北に
市糴す。

 又、一海を渡る千余里末盧国
至る。四千余戸有り。山海に浜そひて
居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。
魚鰒を捕ふを好み水深浅と無く皆沈
没して之を取る。
魏志倭人伝

 

 槐 志 曰、景 初 三 年、倿 女 王 遣
大 夫 難 升 米 利 等、獻 男 生 口 四 人、
女 生 六 人、 斑 布 二 疋 二 尺。詔 以
新 魏 倭 王假 金 印 紫 綬
 正 始 四 年、倭 王 復 遣 大 夫 伊 聲
耆 振 邪 拘 等 八 人、上 獻 生 口 也。
景初之辰恭文錦之獻
帯方郡から倭・女王國に

 

水行十日