「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 倭国大乱と卑弥呼
 (平成三〇年七月八日(日)、主催:田川広域観光協会、於:福岡県立大学大講義室)より

 倭国大乱と卑弥呼

福永晋三
記紀万葉研究家
「神功皇后紀を読む会」主宰
於 福岡県立大学大講義室
主催 田川広域観光協会
平成三〇年七月八日(
倭国大乱と卑弥呼

 神武天皇が即位した西暦121年から卑弥呼が亡くなって、お墓に葬られた西暦248年までの
約120年間についての話である。

YouTube動画「平成30年7月8日(日)  倭国大乱と卑弥呼 」はこちらからご覧になれます。
 尚、リンク先は短篇動画6本の再生リスト一覧です。

● 神武天皇が即位した西暦121年から倭国大乱まで

「豊国 対 火国」
謝承・范曄後漢書)
一四六~一八九 
   桓・霊の間、倭国大乱。
一三九
   皇子神渟名川耳尊、手研耳命大王を弑し
   王位を奪う。
   「太歳己卯」
『魏志倭人伝』
「魏志倭人伝」部分
一二一
  「辛酉年の春正月の庚辰朔に、天皇、橿原宮
   に於いて帝位に即きたまふ」 神武即位
倭国 = 邪馬台国創始

 西暦121年、神武天皇が香春一ノ岳(畝尾山)の東南に橿原宮を建てて、そこで即位した。

 次に、魏志倭人伝にあるその国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、
ある倭国大乱もここ筑豊の地で起こっている。

 その倭国大乱の原因は、西暦139年の皇子神渟名川耳尊(後の綏靖天皇)が、手研耳命大王を弑し、
王位を奪った事が、遠因ではないだろうか。
 神武天皇は、熊本県菊池・山鹿の出身であり、その地で誕生した神武天皇の長男である手研耳命が、神武東征を
一緒に行い豊国を滅ぼして、九州一円を統一した。

 手研耳命は、本当は2代目の大王になっているハズであるが、その手研耳命が、物部の姫である后との間に
産まれた腹違いの弟に殺された。これが、倭国大乱と呼ばれる歴史の始まりではないだろうか。
 したがって、このような事が、奈良県で起きることはない。物部氏は筑豊にいた。筑紫物部と云って民俗学でも
有名な事実である。

 女王、卑弥呼の時代になっても邪馬台国の南にある狗奴国(菊池・山鹿にあった国)と戦争をしていた。
狗奴国が、菊池・山鹿の地にあった国である限りは、女王国(邪馬台国)も豊国以外にはない訳である。
 倭国大乱の一番大きな戦いは、現代風に言えば、福岡県対熊本県の戦いであった。

 『後漢書』に書いている後漢の桓帝・霊帝の間、倭国は大いに乱れた年が、146年~189年である。
神武天皇が崩御した後、2代目の手研耳命が、後の綏靖天皇に殺された数年後に倭国大乱は始まっている。
 この絶対年は、中国の史書から考えて動かない。

倭国地図

新北(熟田)津に 船乗りせむと  
 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

 これが、豊国である。この地で、神武天皇は即位した。

 神武天皇は、畝尾山の東南の地に橿原宮を建てた。畝尾山が香春一ノ岳で、その東南に鶴岡八幡神社がある。
 日本書紀に書かれているように神武天皇は、畝傍東北陵に葬られたとあり、香春一ノ岳の東北にジャスト
おほきんさん」という弥生時代の円墳がある。
 奈良県にある神武天皇陵は、偽物である。

 西日本新聞に連載した『新説 日本書紀』綏靖天皇の記事の要約(パワーポイント)を田川市糒の菅原神社
ページに載せました。

 綏靖天皇陵は、倭(やまと)の桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのうえのみささぎ)とあり、「桃花鳥田」と書いて
「つきだ」という変な読ませ方である。
 桃花鳥田丘上陵が、田川市糒(ほしい)天神山古墳の一基と思われる。

 Googleで見ると香春町宮原に大きな前方後円墳の跡が見える。

 『新説 日本書紀』崇神天皇の記事、崇神天皇が即位した西暦174年から西暦184年の要約(パワー
ポイント)を掲載したページです。

 この大三輪神社は、田川郡川崎町池尻字後藤寺原にありますが、「大石神社の第一の別宮」と書かれて
いるので、大石神社のページに掲載しました。

● 卑弥呼が共立された西暦200年から魏使が邪馬台国に来た西暦240年まで

 大物主神の妻となったという倭迹迹日百襲姫命が、卑弥呼ではないかと以前からしている。
 卑弥呼は、倭国大乱が終わってから共立されたと魏志倭人伝に書かれている。西暦200年である。

 正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等
 奉詔書印綬  
二四〇 魏使 邪馬台 国に至る
(魏志)
二三八 景初二年六月、邪馬臺國の女王(に
  して神武の後継者たる)卑弥呼、魏の
  方郡
に大夫難升米等を遣はす。
(新羅本紀一七三)
二三三 倭の女王卑弥呼、使を遣はし来聘す。
(三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
二三〇「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士
 万人を率ゐて海に浮び、夷州(推定
 狗奴国)および亶州(推定東鯷国)を
 求む」
(魏志韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀)
二〇〇(一九六~二二〇 建安年間)
  卑弥呼共立か。
卑弥呼即位から遣魏使

 

 卑弥呼の時代は、大陸では、後漢が西暦220年滅んだ後、魏・呉・蜀の三国に分かれた時代である。

 「」の字の考察については、嘉麻市にある鮭神社のページに掲載しています。

 都怒我阿羅斯等は、崇神天皇が亡くなる直前に大加羅国(任那、後の新羅)から穴戸にやって来て、
伊都都比古(垂仁天皇)に会った後に、気比に行った。

 都怒我阿羅斯等は、気比に去るまでの3年間、香春町の  現人神社 に居た。

 何故、都怒我阿羅斯等は、任那(後の新羅)からやって来たのか? 白石(神石)から変わった童女を
追いかけてやって来た。
 卑弥呼ではないかと思われるその童女は、豊前田川郡香春に来て、  香春ノ神 となった。

 阿羅斯等と同工異曲の伝説がある天日槍の5代の孫、田道間守は、但馬国と豊前国とを往来した。

 卑弥呼と同時代に呉の兵士が、東鯷国(丹波)にやって来て、呉の会稽まで連れていかれた東鯷人の一人が、
浦島太郎である。
 謝承が後漢書に、「会稽郡の海外に東鯷人がいる」と書かれている。

● 卑弥呼の都も墓も田川の地にある

※ 田川郡内に発見されれば、福永説が
  確定する。
※ 神武の橿原宮(香春町高野)と畝傍
  東北陵(おほきんさん)のように
  かなり近い。
直径百余歩=一四〇m~一五〇m
卑弥呼の墓
吉野ヶ里以上の環濠集落
香春から遠くない位置
女王国
卑弥呼の都と墓(田川郡)

 

 川崎町の田原遺跡と赤村の横枕・大原地区の遺跡群が、卑弥呼の都の候補である。

 崇神紀にある  箸墓伝説 にある大阪から大きな石を運んで造ったのが、御所ヶ谷神籠石であり、その大阪から
反対側にあるのが、赤村の前方後円型地形で、これが卑弥呼の墓だというのが、私の説である。

 桂川町土師が、野見宿祢に陶器(埴輪)を造る為に与えられた土地、出雲国の土部(はじべ)と考えられる。
このページに「新説 日本書紀 垂仁天皇」の内容を掲載しています。

● 結論、奈良県の箸墓古墳は、卑弥呼の墓ではない

 この時期には埴輪列はまだ存在して
いないが、宮内庁職員によって宮山型
特殊器台・特殊壺
、最古の埴輪である
都月型円筒埴輪などが採集されており、
これらが
墳丘上に
置かれて
いたことは
間違いない。
(ウィキ
ペディア)
奈良県箸墓は
     卑弥呼の墓ではない

 奈良県桜井市にある箸墓古墳を卑弥呼の墓だと言っているが、偽物である。宮内庁の職員がこの古墳の
周りから円筒埴輪を出土している。
 奈良県の箸墓古墳は、この円筒埴輪が立てられていたのであろうとウィキペディアに書いている。

 卑弥呼の墓は、殉葬墓であり埴輪が立てられていない。したがって、奈良県の箸墓古墳は、卑弥呼の墓で
ない。
 邪馬台国近畿説の学者が、卑弥呼の墓だと言っているが嘘である。時代も100年程後である。それで、
今は台与の墓ではないだろうかと、コロコロ学説を変える。

● 最後、もう一つのエピソード

 香春町には、鶴我さんという宮司さんの方や一般の仕事をされている方も沢山おられる。その一人の
鶴我さんから系図(家系図)を見せて頂いた。
 その系図の一番最初が、阿羅斯等と書かれている。ビックリです。日本書紀と同じ事が書いてある。
だから、香春町の鶴我さんは、血筋が正しければ全員、都怒我阿羅斯等の子孫である。
 鶴我さんは、気比にはおられるが、奈良県にはいない。気比の鶴我さんと香春の鶴我さんは、遠い
親戚である。

 以下、説明を割愛したパワーポイントのページ

ご清聴、ありがとうございました。