「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 倭国大乱と卑弥呼
(平成三〇年七月八日(日)、主催:田川広域観光協会、於:福岡県立大学大講義室)より
● 後漢から三国時代の変わる時代、日本列島の倭国と東鯷国があった
西暦220年に後漢が滅んだ後に魏・呉・蜀の三国に分かれる。日本列島には、豊国中心に倭国が、
丹波・若狭辺り(近畿地方)に東鯷国があった。この事は、『後漢書』に書かれている。
東鯷国(近畿地方)は、銅鐸文化圏である。
東鯷国は、東の「鯷」の国と解釈している。その「鯷」の字についての考察は、嘉麻市大隈にある
鮭神社 のページに「鯷」字考 を掲載しているので、ご参照下さい。
都怒我阿羅斯等は、四天王寺ワッソのこのような兜の前にもう一本角がある兜を被ってのであろう。
だから、額に角のある人と書かれていると思われる。
穴戸にやって来た都怒我阿羅斯等は、伊都都比古と出会ったとあるが、その伊都都比古は、飯塚の天皇で
ある垂仁天皇にあてた。
卑弥呼が即位した後、神武天皇の出身地である狗奴国とは、もう緊張関係にあった。倭(邪馬台)国の南に
ある狗奴国は、強国である。
近くにある狗奴国と戦争をしている中で、遠くにある東鯷国とも戦争したのでは、とても手に負えない訳で
ある。そこで、遠くの国とは、仲良くしておく為に、都怒我阿羅斯等が、香春から東鯷国へ行ったのではない
かというのが、私の推測である。
何故、都怒我阿羅斯等は、穴戸にやって来たのか? 白石(神石)から変わった童女を追いかけて日本国に
やって来た。その童女は、豊前田川郡香春に来て、香春ノ神となった。 香春神社 のページをご参照下さい。
任那(後の新羅)からやって来た童女こそ、卑弥呼ではないだろうか?
都怒我阿羅斯等が行った敦賀の気比は、東鯷国である。
この時に卑弥呼は、近くを攻めて、遠きと交わるという策を採っていたのではないか。これが、皆さんが
知らなかった卑弥呼の政治家としての手腕である。香春から東鯷国に都怒我阿羅斯等を派遣したのである。
東鯷国(但馬国)と倭国(豊前国)とのつながりが、『垂仁紀』の末尾に 天日槍伝説 として、残され
ている。
その天日槍の5代の孫の田道間守は、豊前の干し柿(非時の香菓)を豊前より但馬(東鯷国)に持ち
帰った。
また、卑弥呼と同時代の出来事と思われるのが、『雄略紀』にある 浦島太郎伝説(浦嶋子の記事) で
あるが、『丹後国風土記』にも同じ内容の記事があるが、300年前に失踪したと伝わるとある。
つまり、300年経っていた。浦嶋子の子孫が帰ったという歴史事実を反映している。浦嶋子が、失踪
したのは、西暦200年頃になり卑弥呼と同時代の東鯷国の話である。