「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 都怒我阿羅斯等は、穴戸から気比へ/丹波の残る伝承

※ 倭国大乱と卑弥呼
 (平成三〇年七月八日(日)、主催:田川広域観光協会、於:福岡県立大学大講義室)より

■ 浦島太郎(浦嶋子)の伝説は、卑弥呼の時代の歴史事実を反映している

 そして二人は
海中に入って(とこ)
莱山(よのくに)
へ赴き、遍
歴して仙人たち
仙衆(ひじり))に会っ
てまわった。
 するとこの大亀はたちまち女人に化
け、浦嶋子は女人亀に感じるところあ
ってこれを妻としてしまう。
 雄略天皇22年(478年)秋7月、
丹波国餘社郡(現・京都府与謝郡)の
住人である浦嶋子は舟に乗って釣りに
出たが、捕らえたのは大亀だった。
丹波に帰った浦島太郎
「写真」

 丹波の地に帰ったという人物に浦島太郎がいる。この『雄略紀』にある浦嶋子が、蓬莱山(とこよのくに)に行き、
乙姫と会って、3年経ったら帰ってくる。実際は、何年経っていたのか?

 約束を忘れて箱を開けると、何か美し
い姿が雲をともない天上に飛び去って行
った。そこで島子は女性と再開できなく
なったことを悟る。
 郷里を訪ねると家族の消息は得られず、
水江の浦の島子という人が300年前に
失踪
したと伝わる、と教えられる。
 三年がたち、島子に里心がつくと、女
性は悲しむが、彼女との再会を望むなら
決して開けてはならない玉匣(たまくしげ)(箱)を授
けて送りだす。
 「與謝郡日置里、この里に筒川村あり」
とし、その村の筒川嶼子(つつかわのしまこ)は、容姿と風流
が際立ち、別名「水江浦嶼子」といい、
日下部首(くさかべのおびと)の先祖だとしている。(中略) 
丹後国風土記の浦島太郎

 『丹後国風土記逸文』に與謝郡とあり丹後である。『雄略紀』と同様に3年が経ち、玉匣をもらって
帰ってくる。「郷里を訪ねると家族の消息は得られず、水江の浦の島子という人が300年前に失踪した
と伝わる、と教えられる。」とある。

 この話は、実話であり、おとぎ話ではない。帰って来た年が、478年で、300年経っていたという
事で、浦島太郎の子孫が帰って来たと話である。
 何処から帰って来たのか? 300年前に戻ると178年になり、倭国大乱中の時代である。その年から
卑弥呼が即位した200年前後に浦島太郎の先祖が、何処かに出かけたという話になる。

 それから300年後に子孫が、丹波国に戻ってきたから、『雄略紀』に書かれている。

 竜宮から帰
った浦島太郎
(浦嶋子)が、
ここで玉くし
げ(玉手箱)
を開けて顔じ
ゅうしわだら
けになり、悲
しみのあまり
しわをちぎっ
て投げつける
と、樹皮がし
わで凹凸にな
ったと伝えら
れています。
 銚子山古墳の前方部付近にある
榎の大木。

銚子山古墳

「銚子山古墳」
写真「榎の大木」

 銚子山古墳の前方部付近に「浦島の木」という榎の大木がある。

二三八 「司馬懿、淵を破り、その首
  を都に送る。海東平ぐ。
」 
   (三国志魏書景初二年)
二三七 「淵、遂に立ちて燕王を自称
  し、魏の北方を侵す。
」 
   (三国志魏書景初元年)
二三二 「三月、呉使を遼東に遣はす。
  七月、(公孫)淵、使者二人を
  遣はし、呉王孫権に意を通じ、
  貂馬を献ず。権、悦び淵に
  叙爵す。
」 (三国志呉書嘉禾元年)
二三〇 「将軍衛温・諸葛直を遣はし、
  甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州
  (推定狗奴国)および亶州(推定
  東鯷国)を求む

   (三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
  ※ 浦島太郎の拉致
卑弥呼の時代の拉致事件

 私は、現地の伝承を大事にしている。それが、『日本書記』ともつながる。とすると、178年の倭国
大乱から卑弥呼共立の200年頃の東鯷国(丹波の地)で、何が起きたのか?

 資料のタイトルに「卑弥呼の時代の拉致事件」としたように、『三国志』呉書の230年の記事は、魏と
戦争をしていた呉は、魏より小国であり、兵士の数が足りない。
 それで、孫権は、秦の始皇帝の時代に徐福が男女数千人を連れて流れ着いて、そこに彼らの子孫が数万人
いるらしいので、出かけて行って、兵士になりそうな若者を連れてこいという命令を出した。

 この時に呉の兵士たちは、東鯷国(丹波)まで来て、そこで五千人の兵士が脱走するが、残った五千人の
兵士たちが、この地で若者を集めた。この時の若者の一人が浦島太郎ではなかったと思われる。
 この若者たちは、何処へ連れていかれたのか? 呉の国へ連れていかれた。

 当時の朝鮮半島の情勢は、年表にある通りである。この年表の238年(景初二年)は、卑弥呼が帯方郡に
遣いを送った年である。この朝鮮半島の出来事とつながっている。
 浦島太郎の話は、呉の兵士たちが東鯷国(丹波)にやって来て、若者を拉致し戸た事件で、卑弥呼と同時代
に起こった出来事らしい。

 呉に連れていかれて若者は、中国語が話せない。何しろ徐福は、始皇帝の時代だから年数が経っていて、
中国語はもう忘れているでしょうね。言葉が話せない人は、兵士には成れない。結局、彼らは奴隷にされた
のであろう。
 連れていかれた彼らは、自力では帰って来れない。止む無く土地の人と結婚して、何代か経って漸く何とか
身を立てて、船を手に入れた4代か5代後の子孫が、故郷に帰って来た。

 先祖の場所を訪ねると、300年前に浦の島子という人が失踪していると教えられたという事である。
 だから、おとぎ話の中にも歴史事実がちゃんと書いている。これを私は、20数年かけて抜き出した。

版本「『三国志 呉書』 周瑜魯肅呂蒙傳」
陳寿(二三三~二九七)
『三国志』斐松之(三七二~四五一)
版本『三国志 呉書』「呉主権謝夫人伝」
陳寿の見ていた後漢書
浦島太郎を見た呉の人

 浦島太郎に会った人が、呉の国に居る。『三国志』呉書の「呉主権謝夫人伝」の中にある謝夫人は、
会稽という呉の国の都市の出身である。その謝夫人には、謝承という弟がおり、『後漢書』を書いたと
陳寿の『三国志』呉書に書かれている。

 呉の会稽まで、浦島太郎以下、何十名かの東鯷国の若者が連れてこられた。その東鯷人の彼らに会った
のは、『後漢書』を書いた謝承という人が、少年時代だったであろう。ビックリですね。
 浦島太郎に謝承は会っている可能性がある。

「会稽郡の海外に東鯷人がいる。分かれて
 二十余国を作っている。また、夷洲と
 澶洲がある。
 こう言い伝えられている。
 秦の始皇帝は方士の徐福を派遣し、子供
 の男女数千人を率いて海に入り、蓬莱神
 仙を求めさせたが出来なかった。
 徐福は罪に問われるのをおそれ、敢えて
 帰らず、ついにこの島に止まった。
 代々受け継がれて数万戸がある。その人
 民が時おり会稽の市にやってくる。
 会稽東冶県の人で、海に入り、風に流さ
 れて澶洲に着いた者がいるが、所在地は
 あまりにも遠く、往来することはできな
 い。」
會稽海外有東鯷人 分為二十餘國
又有夷洲及澶洲
後漢書 東夷伝 倭国

 だから、謝承は、『後漢書』の中で「會稽郡の海外に東鯷人がいる。分かれて二十餘國を為す。また、
夷洲と澶洲がある。」とあり、澶洲は、丹波である。

 「しゃけ:鯷」とまた、つながる。「その人民が時おり会稽の市にやってくる。」とあり、東鯷人は、
鮭皮の靴とか、鮭皮の帽子とかを物々交換していた。

 だから、竜宮城というのは、呉の国の御殿の事である。だから、「Under the Sea」ではなく、
「Over the Sea」で ある。無酸素では、海に潜れない。