「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
ヤマトタケルの負けた理由
■ 日本武尊の3基の白鳥の御陵は、筑豊・田川にある
● 日本武尊が、三重に曲がった足で戻ってきた尾張国の一つ松は、香春の一本松である
・・・ 敵の矢に足を射抜かれたかで傷ついた日本武尊は、何とか鞍手町中山の剣岳に帰ろうとする。しかし、
途中で足が三重の如く曲がりたぎたぎしくなった。「三重(みえ)に曲がり固い餅のようだ」とある。
矢傷がもとでどんどん足が動かなくなっていくが、香春までは何とか戻ってきた。『古事記』に
尾張まで戻ってきた時の歌が残っている。
袁波理邇 多陀邇牟迦幣流 袁都能佐岐那流 比登都麻都 阿勢袁 比登都麻都
比登邇阿理勢婆 多知波氣麻斯袁 岐奴岐勢麻斯袁 比登都麻都 阿勢袁
この歌の「一つ松(ひとつまつ)」であるが、一本松という地名、日田英彦山線の駅名が香春町にある。
日本武尊は、この辺りまでは戻ってくる。
● 古宮八幡宮の神幸祭りのおまがり様は、日本武尊が嘆いた「三重に曲がり固い餅」に由来する
・・・ 三重のまがりについては、古宮八幡宮の神幸祭りのおまがり様が、「三重(みえ)に曲がり固い餅のと
ようだ」と嘆いた日本武尊に由来するのではないだろうか。
古宮八幡宮 の摂社が、白鳥神社である。
田川の土地の伝承を大事にしているのは、『日本書紀』の記述の裏付けになっている事柄、伝承が
余りにも多すぎる。
おmがり様というのは、秘伝であり、香春の人たちも郷土史会のみなさんも誰一人として見たことが
無い。祭りが終わり、長光家に戻ってきて土に埋めるのだという事は、側聞(そくぶん)している。
● 日本武尊の白鳥の陵は、『仁徳紀』と最澄の伝承から筑豊・田川にある
・・・ 一本松より少し鞍手より所でしょうか?野褒野(のぼの)という場所は、未詳でよく解りませんが、
そこで日本武尊は息絶えていく。そこで、一旦、陵に葬られるが、白鳥と化して倭(やまと)国へ帰って
行ったとなっている。
白鳥神社の三基目は、鞍手町の 古物神社 の辺りにあったことが、『仁徳天皇紀』に書かれている。
・・・ 最澄が唐から帰朝中の伝承である。
平安時代の最澄が、日本武尊は奈良県にいなかったことを良く知っている。
この白鳥神社の横に空っぽの石棺が一つある。子供が入るような小さな石棺ではあるが、これが
白鳥の陵の一つではないかと考えている。