「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ ヤマトタケルの負けた理由
 (平成30年12月15日(土)、主催:田川広域観光協会、於:福智町金田分館)より

 ヤマトタケルの負けた理由

■ 日本武尊の3基の白鳥(しらとり)御陵(みささぎ)は、筑豊・田川にある

● 日本武尊が、三重に曲がった足で戻ってきた尾張国の一つ松は、香春の一本松である

絵「ヤマトタケルと白鳥伝説」

 

・・・ 敵の矢に足を射抜かれたかで傷ついた日本武尊は、何とか鞍手町中山の剣岳に帰ろうとする。しかし、
   途中で足が三重の如く曲がりたぎたぎしくなった。「三重(みえ)に曲がり固い餅のようだ」
とある。

    矢傷がもとでどんどん足が動かなくなっていくが、香春までは何とか戻ってきた。『古事記』に
   尾張まで戻ってきた時の歌が残っている。

   袁波理(をはり)() 多陀邇牟迦幣流(ただにむかへる) 袁都能佐岐那流(をつのさきなる) 比登都麻都(ひとつまつ) 阿勢袁(あせを) 比登都麻都(ひとつまつ)

   比登邇阿理勢婆(ひとにありせば) 多知波氣麻斯袁(たちはけましを) 岐奴岐勢麻斯袁(きぬきせましを) 比登都麻都(ひとつまつ) 阿勢袁(あせを)

    この歌の「一つ松(ひとつまつ)」であるが、一本松という地名、日田英彦山線の駅名が香春町にある。
   日本武尊は、この辺りまでは戻ってくる。

ヤマトタケルと白鳥伝説
 さらに歩き続けたヤマトタケルは疲れて杖をついて歩
いたのでそこを「杖つき坂」といい、またある村に着く
と疲れた足が「三重(みえ)に曲がり固い餅のようだ」と嘆いた
事から「三重(みえ)」というようになりました。
 ヤマトタケルはどんどん体調が悪くなり、大和への望
郷の思いが募っていきます。
 そしてヤマトタケルは国しのびの歌を詠みます。
 「大和(やまと)は 国のまほろば たたなづく青垣(あおがき)
  山隠(やまごも)れる やまとしうるはし
」。
 ついに愛した妻を懐かしみながら、力尽き倒れてしま
いました。
 死の知らせを聞いた妻や子供たちは、伊勢の野褒野(のぼの)
(=三重県鈴鹿郡)に駆け付けました。
 するとその御陵(墓)から白い大きな鳥が天空高く飛
び立っていきました。
 ヤマトタケルは白鳥となって恋しい国へ帰って行った
のです。
 その白鳥が飛んで留まった河内(かわち)の国の志紀(しき)に御陵を作
り、「白鳥(しらとり)御陵(みささぎ)」と呼ぶようになりました。

 

● 古宮八幡宮の神幸祭りのおまがり様は、日本武尊が嘆いた「三重に曲がり固い餅」に由来する

・・・ 三重のまがりについては、古宮八幡宮の神幸祭りのおまがり様が、「三重(みえ)に曲がり固い餅のと
   ようだ」と嘆いた日本武尊に由来するのではないだろうか。
      古宮八幡宮 の摂社が、白鳥神社である。

    田川の土地の伝承を大事にしているのは、『日本書紀』の記述の裏付けになっている事柄、伝承が
   余りにも多すぎる。
    おmがり様というのは、秘伝であり、香春の人たちも郷土史会のみなさんも誰一人として見たことが
   無い。祭りが終わり、長光家に戻ってきて土に埋めるのだという事は、側聞(そくぶん)している。

三重のまがり
「写真」

古宮八幡宮 摂社に白鳥神社

 

古宮八幡宮の神幸祭り
 古宮八幡宮の祭神豊比売命は、香春神社へ
下向し、例祭が終わると再び古宮八幡宮に
戻るという祭り。
 初日の午前中、唐櫃を持って長光家を経て
神事を行い、秘密のおまがり様を唐櫃に納め
て古宮に持ち帰る。
 午後から杉神輿を担いで天矢大神宮(天照
大神)まで行き神事を行い、御旅所に一泊
する。
 2日目の午後、清祀殿と宮原で神事を行い、
古宮八幡神社へ戻り、行事が終了する。
 神幸祭りには、必ず長光家でつくったおま
がり様
を迎えにいく。
 江戸時代、香春宮への行幸の時もおまがり
という龍頭の餅を献じていたと『古宮八幡
宮御鎮座伝記』に記されている。

 

● 日本武尊の白鳥の陵は、『仁徳紀』と最澄の伝承から筑豊・田川にある

・・・ 一本松より少し鞍手より所でしょうか?野褒野(のぼの)という場所は、未詳でよく解りませんが、
   そこで日本武尊は息絶えていく。そこで、一旦、陵に葬られるが、白鳥と化して倭(やまと)国へ帰って
   行ったとなっている。
    白鳥神社の三基目は、鞍手町の  古物神社 の辺りにあったことが、『仁徳天皇紀』に書かれている。

倭建命天皇の倭国防衛戦
 故、其の國より飛び翔けり行きて、
河内の國の志幾(しき)に留りき。
 故、其の地に御陵を作りて鎭め坐す
なり。
 即ち其の御陵を號けて白鳥の御陵
謂ふなり。
 然れどもまた其の地より更に天に
翔けりて以ちて飛び行きき。
※ 思國歌は、古事記では倭建命、日本書紀
 では大足彦忍代別天皇の歌となっている。
 ここに、景行天皇(卑弥弓呼)は狗奴
 (肥後)国からの侵略者
であり、倭国
 (豊前国)を防衛したのが倭建命天皇

 あったことが推測される。景行天皇の北
 伐は半ば成功したのかも知れない。
白鳥の御陵の三基目は鞍手町の古物神社
 の辺りにあったことが仁徳紀に記されて
 いる。

 

・・・ 最澄が唐から帰朝中の伝承である。
    平安時代の最澄が、日本武尊は奈良県にいなかったことを良く知っている

    この白鳥神社の横に空っぽの石棺が一つある。子供が入るような小さな石棺ではあるが、これが
   白鳥の陵の一つではないかと考えている。

倭建命天皇の倭国防衛戦
※ 白鳥神社 (田川市) 社伝
 延暦年中(七八二年~八〇六年)、伝教大師
最澄】が入唐し学行を終えて帰朝の途中、
海中の船路先に白鳥が飛び、ある夜大師の夢の
中に白鳥が現れ「自分は日本武尊である。
 汝の船路を守り、身を守護するから昔麻剥を
討つために行った
豊前国の高羽川の
川辺
に自分を齋き
祀れ」と告げたと
いいます。
 大師は帰朝後、
高羽川の川辺を
尋ねた所、白鳥が
飛来し、伊田の里
(現:田川市伊田
とその付近)の真
中の山に止まりま
した。
「写真」

白鳥神社(田川市伊田)