「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ ヤマトタケルの負けた理由
 (平成30年12月15日(土)、主催:田川広域観光協会、於:福智町金田分館)より

 ヤマトタケルの負けた理由

福永晋三
記紀万葉研究家
「神功皇后紀を読む会」主宰
於 福智町金田分館
主催 田川広域観光協会
平成三〇年一二月一五日(土)
ヤマトタケルの負けた理由

 

YouTube動画「平成30年12月15日(土)  ヤマトタケルの負けた理由 」はこちらからご覧になれます。
 尚、リンク先は、R3年6月24日(木)から公開の短篇動画5本の再生リスト一覧です。

 建部大社(近江国の一之宮)

 ヤマトタケルの征西

 ヤマトタケルと草薙の剣

 后・オトタチバナヒメの入水

 ヤマトタケルと伊吹山の神

 ヤマトタケルと白鳥伝説

 倭国は、豊国が中心である

 日本武尊は伊都国の王であり、出身は贄田(にぎた)物部である

 が採れた天香山が香春岳であり、そこからは磁鉄鉱も採れた

 呉王夫差の子孫が来た菊池川流域が狗奴国、越王勾践の子孫が倭人であり
 倭国は遠賀川流域である

 卑弥呼の名前に「」の文字が入っている狗奴国王の卑弥弓呼
 卑弥呼は負けた

 敗れた結果は「卑弥呼以死」であり、墓の直径「徑百餘歩」も
 色々な文献から解る

 赤村内田にある巨大前方後円型地形が、卑弥呼の墓ではないか

 『垂仁紀』の中に卑弥呼の墓のような人の殉葬から土物(はに)
 立てるしきたりにしたとある

 臺與(とよ)の時代になっても狗奴国王の卑弥弓呼は生きている

 景行天皇は、宮崎熊本から倭国(田川)へやって来る

 景行天皇は、狗奴国王の卑弥弓呼ではないか

 邪馬台国と狗奴国の国同士の争いに鉄鏃が使われた

 景行天皇は、宇佐から田川へ北上してきた

 景行天皇が征伐したとされる土折居折は、本当は日本武尊が征伐した

 景行天皇が行宮を建てた所が、御所ヶ谷神籠石である

 天叢雲剣は、日本武尊の時代に草薙の剣と呼ばれるようになった

 日本武尊は、鞍手町新北にいた贄田(にぎた)物部である

 弥生時代の鉄器からみれば、邪馬台国と狗奴国の争いは、福岡県熊本県で起きた

 日本武尊が、草薙の剣(天叢雲剣)を受け取った処は、伊勢神宮(天照神社)である

 草薙の剣を持っていない景行は、天皇ではない

 日本武尊、美夜受比賣は、天香山が見える所にいた

 天香山(天の香具山)は、香春三岳に他ならない

 摂社に白鳥神社のある古宮八幡宮に美夜受比賣はいた

 和気清麻呂伝説の白猪から伊吹山が、北九州市の足立山であった

 日本武尊が足を浸した「居醒泉(ゐさめがゐ)」が、清水原である

 日本武尊は、伊吹山の神(景行の軍)の鉄鏃の矢に敗れた

 日本武尊が、三重に曲がった足で戻ってきた尾張国一つ松は、香春の一本松である

 古宮八幡宮の神幸祭りのおまがり様は、日本武尊が嘆いた「三重に曲がり固い餅」に
 由来する

 日本武尊の白鳥の陵は、『仁徳紀』と最澄の伝承から筑豊・田川にある

▶  おわりに 

 日本武尊は、『魏志倭人伝』に書かれた一大率、贄田(にぎた)物部の酋長だったと思う。日本武尊が
邪馬台(倭)国を狗奴国王の卑弥弓呼(景行)から守らないといけないと、立ち上がり草薙の剣を受け
取り何とか倭国を守り抜いた。
 最終的には、伊吹山の戦いで敗れ、鞍手に帰る着くことなく、野褒野(のぼの)で亡くなって行った。
 その時に詠んだ歌が、

倭は 国の真秀 畳な付く 青垣 山隠れる 倭し愛はし

 下の写真は、鞍手町のパンフレットに使用した中山剣岳の上空から響灘までを撮影して航空写真である。
鞍手が、日本武尊の倭(やまと)である。かつて、ここには、遠賀の海が広がっていた。
 この海があった周りからは、鉄剣・鉄鏃が出土する。伊弉諾尊の時代の細形銅剣も出土する。
 この写真にある水巻町の多賀山をおのころ島と決定しました。ここは、遠賀川式土器が出土した立屋敷
遺跡がある。多賀山がある土地の地名が、頃末(ころすえ)という。

 伊弉諾尊が、天の沼矛を突きさして持ち上げると塩がこをろこをろと滴り落ちて自ら固まったから
於能碁呂島(おのころ島)という。多賀山は丁度、円錐形の山である。かつて、遠賀の海があった時は、
島であった。

 ここの遠賀川式土器は、100年間で青森県まで紀元前に到達する。稲作が、遠賀川式土器と一緒に
全国に広がっていく。

 伊弉諾尊が、『日本書紀 神武天皇紀』の中で、「日本(やまと)は浦安の国、細戈(くわしほこ)
千足(ちだ)る国、磯輪上(しわかみ)の秀真国(ほつまくに)
」という。
 古遠賀湾は、輪っかのようになっている。そのほとりの国である。伊弉諾というのは、「いさな」=
鯨捕りの神である。ここには、鯨瀬という地名もある。直方市天神橋貝塚からは、マッコウクジラの
歯の装飾品も出土している。

 伊弉諾尊から神武天皇・景行天皇・日本武尊に至る時代まで延々と銅剣が出土する。鉄剣が出土する。
銅鏡も出土する。間違いなく『古事記』『日本書紀』の古代倭(やまと)国は、全て筑豊・田川の歴史
あるというのが、私の仮説である。

 『古事記』『日本書紀』には、間違いなく銅の記録、鉄の記録があり、日本武尊の伝承を考え抜いたら、
筑豊から北九州にかけての伝承である。

 期待しているのは、伊吹山が足立山であれば、ここで鉄鏃の矢を降らされて敗れたので、熊本から
出土した鉄鏃と同じ鉄鏃が出土しないかと思っている。

 これが、「ヤマトタケルの負けた理由」である。

倭は 国の真秀 畳な付く 青垣
        山隠れる 倭し愛はし
航空写真「遠賀川下流域」

ご清聴ありがとうございました