「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ ヤマトタケルの負けた理由
 (平成30年12月15日(土)、主催:田川広域観光協会、於:福智町金田分館)より

 ヤマトタケルの負けた理由

■ 草薙の劒は、鉄剣の故郷筑豊の剣であり、日本武尊も鞍手にいた

天叢雲剣は、日本武尊の時代に草薙の剣と呼ばれるようになった

絵「叔母倭姫命と草薙劔を振るうヤマトタケル」

 

・・・ 草薙の剣の元の名は、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と言われていた。八俣の大蛇の尾っぽから
   出てきた剣である。
    この剣が、日本武尊の時代に草薙の剣と呼ばれるように変わった。

ヤマトタケルと草薙の剣
 西国征伐から戻ったヤマトタケルに、父・景行(けいこう)天皇は、
休む間もなく東国征伐を命じます。
 父に嫌われているのではないかと悩んだヤマトタケル
は、東国に向かう途中の伊勢神宮で叔母・ヤマトヒメを
訪ねます。
 心のうっ憤を話して嘆くヤマトタケルに叔母・ヤマト
ヒメは慰め励まします。
 そのあと、危険に会った時のために神剣・(あめの)叢雲(むらくもの)(つるぎ)
と袋に入った火打石を授けます。
 伊勢・尾張を経て到着した相模(さがみ)の国は、朝廷に服従し
ない国造(くにのみやつこ)がいました。
 ヤマトタケルの到着を知った相模国造は、ヤマトタケ
ルを騙して殺してしまおうと謀りごとをめぐらします。
 ヤマトタケルは騙されて野に誘われ、周囲から火を
放たれ逃げ場を失ってしまいました。
 だが叔母から渡された火打石で向かい火を放ち、神剣
で草をなぎ払い野火から脱出し、あわてて逃げだす相模
国造たちを斬り殺しました。
 後に火を点けて野を焼いたことからこの地を焼津(やいづ)とい
い、そして草をなぎ払った剣は「草薙(くさなぎ)(つるぎ)と呼ばれる
ようになりました。

 

● 日本武尊は、鞍手町新北にいた贄田(にぎた)物部である

・・・ 日本武尊の本貫地は、『鞍手町史』から解っている。日本武尊の子や孫たちが非常に関わってくる。
   「新北尊」とか「新北の神主」と出てくる。
    また、「御子天賀那川(かながわ)彦ノ王」とあるが、鞍手町新北にある熱田神社の宮司が金川(かながわ)
   さんである。たぶん、賀那川彦の子孫だと思われる。
    日本武尊は、鞍手の人である。だから、日本武尊は、贄田(にぎた)物部である。   中山の剣岳 に居た。

日本武尊の本貫地
 小狭田彦の孫小磐削ノ御剣王日本武尊と小狭
田彦の娘常磐津姫の間に生れた人である。
 父君の日本武尊に従って東征し、駿河の焼津で
は特に軍功があった。
 その賞として祖父景行天皇より武部ノ臣の称を
頂いたほどである。
 御剣王は帰国の後『兎角に父の尊の慕わしくて、
尺ノ岳及び新北尊の戦勝を祈り玉ひし地なりに尊
を祭り玉ひ云々』とある。」
 「御剣王の御子天ノ磐代武部ノ種日子王は父に
劣らぬ武勇の人であったが、『御子磐木那賀ノ王
嘉麻の碓井の邑主となし、御子天賀那(かな)(がわ)彦ノ王
新北の神主となし、御子津々賀御ノ王を舞岳
(尺岳)日本武尊小狭田彦御剣王合祀の神主とな
し、御子玉御木ノ王を穂波の郡司となし、御子山
戸部ノ王を聞(企救)の司となし、御弟羽羽戸部
ノ王を高羽(田川)の主とし、御弟八ツ田大戸部
ノ王を暗崎(黒崎)の村主となし玉ふ』云々とある。」
(鞍手町史)
※ 臺與の時代の豊国 対 火国の争いか

 

・・・ 剣岳の下に八剱神社がある。日本武尊、宮簀姫、素戔男尊が祀られている。だから、八俣の大蛇
   素戔男尊以来、日本武尊に至るまで鉄剣の故郷が筑豊である。
    国内で製鉄したのか、輸入したのかは、私には解りませんが。

出雲王朝の成立
 出雲王朝は、企救郡を根拠地にした素戔烏尊
が天の香山とその周辺にいた八幡神を征伐し、
建てた王朝ではないか。
 また、八俣の大蛇一族から奪った剣は八剱の
はず、八剣神社が筑豊に濃密に分布し、日本武
尊の草薙の劒とも深く関わる。

八剱神社(中山)は、
日本武尊、宮簀姫、素戔男尊
三祭神を祀る。

「写真」

 

日本武尊の本貫地
 鞍手町 八剱神社(上宮)
「写真」

 

・・・ 女媧(じょか)という人間の頭に尾っぽが蛇の神である。丁度、8匹(人)いる。
    筑豊には、弥生時代から写真のような鉄剣があった。

弥生中期 鉄剣の時代
 『草薙劒』一書に云ふ。本の名は
天叢雲劒。蓋し大蛇の居る上に、常
に雲氣有り。故以ちて名づくるか。
 八俣の大蛇は八剱を所有していたから
人間の一族であろう。長江の下流域で人
頭蛇身の女媧(じょか)という神が祭られていた

この神を祭る一族ではなかったか。
絵「女媧」
「鉄剣」

 

● 弥生時代の鉄器からみれば、邪馬台国と狗奴国の争いは、福岡県と熊本県で起きた

・・・ 川越哲志氏の『弥生時代鉄器総覧』から福岡県、熊本県の数の多さを見れば明らかである。奈良県は、
   ほとんど無しである。
    これを見れば、邪馬台国と狗奴国が奈良県と和歌山県で起きた訳がない。

弥生中期 鉄剣の時代
(図)川越哲志『弥生時代鉄器総覧』

(図)川越哲志『弥生時代鉄器総覧』

 

● 日本武尊が、草薙の剣(天叢雲剣)を受け取った処は、伊勢神宮(天照神社)である

・・・ 日本武尊が、叔母・ヤマトヒメから草薙の剣(天叢雲剣)を何処で受け取ったのか。宮若市磯光
     天照宮 であろうと思っている。
    鞍手町中山剣岳から少し南下すれば、たどり着く。

「写真」

天照宮

 

● 草薙の剣を持っていない景行は、天皇ではない

・・・ 草薙の剣は、日本武尊が持っていた(佩いていた)。ところが、『播磨國風土記』にある大帯日子命
   (景行天皇)の佩いていた剣は、八咫の劒である。そして、八咫の勾玉麻布都の鏡が、三種の神器で
   ある。
    景行天皇は、草薙の剣を持っていない。だから、景行は、天皇では無い。草薙の剣を持っている日本
   武尊が、本物の豊国の天皇である。

大足彦忍代別天皇の劒
 故、日岡と號く。坐す神は、大御津歯命
のみ子、伊波都比古命なり。

 此の岡に比禮墓あり。
 褶墓と號くる所以は、昔、大帯日
子命、印南の別嬢を(つまど)ひたまひし時、
御佩刀の八咫の劒の上結に八咫の勾
、下結に麻布都の鏡を繫けて
(播磨國風土記 賀古郡)
※ 延喜式神名帳には伊佐々比古神。
※ 大帯日子命の佩く「三種の神器」
 日本武尊のそれと異なる。

 

・・・ 日本武尊が、熊襲国を平定したとあるが、実は、田川の失地を回復というのが、日本武尊の業績だと
   思われる。それが  田川市猪膝 に残された伝承である。土折・猪折は、日本武尊が滅ぼした。

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
景行天皇
 265年ごろ、「東に行き、反乱者を討伐
するため」、剣岳を発した日本武尊が、途中、
伊勢神宮(天照宮)を拝む。
 伯母の倭姫命から草薙剣(三種の神器)を
受け取った。
 熊襲国に到った日本武尊は、川上梟帥
夜宴に女装して紛れ込み、川上梟帥を刺殺
する。
 高羽の川上の土折・猪折を指すようだ。
 そうであるなら、土折猪折は初めに景行に
帰順し、後に日本武尊に誅殺されたのかも
しれない。
 こうして「熊襲の酋長ら」を倒して日本
武尊は熊襲国を平定する。
 実は、田川の失地を回復した。