「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ ヤマトタケルの負けた理由
 (平成30年12月15日(土)、主催:田川広域観光協会、於:福智町金田分館)より

 ヤマトタケルの負けた理由

■ 卑弥呼の墓は殉葬墓であり、箸墓は卑弥呼の墓でない

● 卑弥呼の名前に「」の文字が入っている狗奴国王の卑弥弓呼に卑弥呼は負けた

二代女王 臺與(とよ)
魏 略 曰 , 女 王 之 南 , 又 有 狗 奴
, (女) 男 子 為 王 , 其 官 曰
拘 右 智 卑 狗 , 不 屬 女 王 也.
 その南、狗奴国有り。男子王たり。その
官に狗古智卑狗有り。女王に属さず。
 其の(正始)八年(247)、太守、王
頎官に到る。
 倭女王卑弥呼、狗奴国王卑弥弓呼素より
和せず。
 倭、載烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻
撃する状を説く。
 塞曹掾史、張政等を遣わし、因って詔書、
黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為(つく)
りて之を告諭す。

 

● 敗れた結果は「卑弥呼以死」であり、墓の直径「徑百餘歩」も色々な文献から解る

※ 田川郡内に発見されれば、福永説が
 確定する。
※ 神武の橿原宮(香春町高野)と畝傍
 東北陵(おほきんさん)のようにか
 なり近い。
直径百余歩=一四〇m~一五〇m
『魏志倭人伝』「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」
卑弥呼の墓
吉野ヶ里以上の環濠集落
香春から遠くない位置
女王国
卑弥呼の都と墓(田川郡)

 

● 赤村内田にある巨大前方後円型地形が、卑弥呼の墓ではないか

・・・ 平成30年3月に赤村内田にある巨大前方後円型地形が、卑弥呼の墓ではないだろうかと発表した。
   考古学の先生達から、自然地形だとけちょんけちょんにやられました。

Google Earth「赤村内田の前方後円型地形」
謎の巨大前方後円型地形

 

・・・ 1970年の写真であるが、周濠の跡が残っている。

赤村内田前方後円墳の
後円部の周濠(1970年の写真)

航空写真「赤村内田の前方後円型地形」

赤村内田前方後円墳の
前方部の周濠(1970年の写真)

航空写真「赤村内田の前方後円型地形」

 

航空写真「赤村内田の前方後円型地形」
謎の巨大前方後円型地形

 

・・・ この前方後円型の造出(つくりだし)の部分からは、土器片が出土している。祭祀(さいし)されていた。
   祭祀の跡があって、古墳でない訳がないであろうと思っている。

「赤村内田の前方後円型地形から出土した土器片」
謎の巨大前方後円型地形

 

● 『垂仁紀』の中に卑弥呼の墓のような人の殉葬から土物(はに)を立てるしきたりにしたとある

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
垂仁天皇
 239年、天皇の弟の(やまと)(ひこの)(みこと)が死んだ。
 この時、「近習の者を集め、すべて生き
たまま陵の周囲に埋めて立てた
」とある。
 日を経ても死なない者が昼夜悲しげな声
をあげて泣いた。ついに死ぬと、遺体が腐
り、犬や烏が集まって遺体を食べた。
 天皇は、これを悲しみ、以後殉葬を止め
よと言った。
 『魏志倭人伝』に卑弥呼の墓が記され、
殉葬する者奴婢(ぬひ)百余人なり」とある。

 『垂仁紀』の記事がこれに該当すること
は明らかである。

 

・・・ 野見宿祢に陶器を造る土地を与え、土部臣(はじのおみ)といったとある「はじ」の場所は、  桂川町土師 
   ある。

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
垂仁天皇
 241年、皇后日葉酢(ひばす)(ひめの)(みこと)が死んだ。
 天皇は殉葬を止めようとして群臣に相談
する。野見宿祢が良策を思いつく。
 彼は使者を派遣し、出雲国の土部(はじべ)百人を
呼び寄せた。
 自ら指揮して、粘土を取って人・馬やい
ろいろな物の形を造って、天皇に献上して
申し上げた。
 「今後、この土物(はに)を生きた人に換えて
(みささぎ)に立て、後の世のしきたりとなさいま
せ」。  
 天皇は喜び、「以後、陵墓に必ずこの土
物を立て、人を傷つけてはならない」と命
じた。野見宿祢に陶器を造る土地を与え、
土部臣(はじのおみ)といった。
※ 桂川町土師の故事

 

・・・ 後の時代になる埴輪であるが、飯塚市小正西古墳から巫女形埴輪や馬形埴輪が出土している。

写真「馬形埴輪」
写真「巫女形埴輪」

飯塚市小正西古墳(古墳時代後期)から出土した巫女形埴輪(右)と馬形埴輪
<飯塚市歴史資料館所蔵>

 

・・・ 赤村内田の前方後円型地形が、卑弥呼の墓であると言っている理由の一つは、奈良県の箸墓からは
   写真のような埴輪が出土されているから絶対に卑弥呼の墓では無い。
    卑弥呼の墓は、殉葬墓である。埴輪が立てられるようになる前の墓である。

奈良県箸墓は
   卑弥呼の墓ではない
 この時期には埴輪列はまだ存在していない
が、宮内庁職員によって宮山型特殊器台・
特殊壺
、最古の埴輪である都月型円筒埴輪
などが採集
されており、
これらが墳
丘上に置か
れていたこ
とは間違い
ない。
(ウィキペ
ディア)
写真「奈良県の箸墓から出土した埴輪」