「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ ヤマトタケルの負けた理由
 (平成30年12月15日(土)、主催:田川広域観光協会、於:福智町金田分館)より

 ヤマトタケルの負けた理由

■ 通説のヤマトタケル

● 建部大社

通説のヤマトタケル
(写真)

 当社は古来、建部大社、建部大明神などと称え、延喜式内名神大社に列し、
近江国の一之宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の
古社です。
 御祭神、日本武尊は御年僅に16才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、
遂に32才にして伊勢の能褒野において崩御されましたが、父君景行天皇は
尊の永逝をいたく歎かれ、御名代として建部を定め、その功名を伝えられま
した(日本書紀にしるされている)これが即ち建部の起源です。

 

● ヤマトタケルの征西

絵「ヤマトタケルと川上梟帥」

 

ヤマトタケルの征西
 ヤマトタケルは父・第十二代景行(けいこう)天皇の御子(みこ)
()唯命(ウスノミコト)として生まれます。
 しかし大変気性が激しい子供であったため、父
はわが子に恐れを感じました。
 まだあどけなさが残るオウスでしたが、大和か
ら遠ざけるため危険な任務として朝廷に従わない
九州・熊襲建(クマソタケル)兄弟の征伐を命じたのです。
 オウスは九州・熊襲に着くと、熊襲建兄弟は館
を新築した祝い準備で忙しくしていました。
 そして新築祝いの日、オウスは少女のように髪
を結い叔母のヤマトヒメから借りた衣装を着て女
装し熊襲の女たちに混じって宴に紛れ込みます。
 祝宴が進む中、熊襲建兄弟が酔ったのを見計ら
ったオウスは、ついに懐に忍ばせていた短剣を取
り出し兄をそして弟を殺します。
 この強くて勇気ある行動から、オウスは日本(ヤマト)(タケルノ)
(ミコト)と呼ばれるようになった
のです。
 また帰路、出雲では出雲(イズモ)(タケル)を騙して刀と木刀を
すり替えて討ちました。

 

● ヤマトタケルと草薙の剣

絵「叔母倭姫命と草薙劔を持ったヤマトタケル」

 

ヤマトタケルと草薙の剣
 西国征伐から戻ったヤマトタケルに、父・景行(けいこう)天皇は、
休む間もなく東国征伐を命じます。
 父に嫌われているのではないかと悩んだヤマトタケル
は、東国に向かう途中の伊勢神宮で叔母・ヤマトヒメを
訪ねます。
 心のうっ憤を話して嘆くヤマトタケルに叔母・ヤマト
ヒメは慰め励まします。
 そのあと、危険に会った時のために神剣・(あめの)叢雲(むらくもの)(つるぎ)
と袋に入った火打石を授けます。
 伊勢・尾張を経て到着した相模(さがみ)の国は、朝廷に服従し
ない国造(くにのみやつこ)がいました。
 ヤマトタケルの到着を知った相模国造は、ヤマトタケ
ルを騙して殺してしまおうと謀りごとをめぐらします。
 ヤマトタケルは騙されて野に誘われ、周囲から火を放
たれ逃げ場を失ってしまいました。
 だが叔母から渡された火打石で向かい火を放ち、神剣
で草をなぎ払い野火から脱出し、あわてて逃げだす相模
国造たちを斬り殺しました。
 後に火を点けて野を焼いたことからこの地を焼津(やいづ)とい
い、そして草をなぎ払った剣は「草薙(くさなぎ)(つるぎ)と呼ばれる
ようになりました。

 

● 后・オトタチバナヒメの入水

・・・ この話は、いまだに解決がつかない。今回は、外します。

絵「后・オトタチバナヒメの入水」

 

后・オトタチバナヒメの入水
 さらに東に分け入ったヤマトタケルは浦賀から房総へ
渡ろうとしたが、海の神の機嫌が悪く波が荒れ、船は波
に翻弄されて沈みそうになりました。
 ヤマトタケルに従ってきた妻のオトタチバナヒメは言
いました。
 「あの相模国で野が燃えた時、燃え盛る炎の中で、
あなたは私の身を守ってくださいました。
 あなたのお役にたてるのであれば死んでも悔いはあり
ません」そして、オトタチバナヒメは海の神をなだめる
ため、自ら荒波に身を投じたのです。
 すると、荒れ狂っていた海は鎮まりヤマトタケル一行
は無事に対岸に着くことができました。
 七日後、オトタチバナヒメが身に付けていた櫛だけが
海辺に流れ着き、それを見つけたヤマトタケルは泣き
ながら櫛を埋めて墓を作ったのです。
 やがて東征を終えたヤマトタケルは、大和へ戻ろうと
足柄(あしがら)山の頂上に着いたとき、海を望み、犠牲となったオ
トタチバナヒメを偲んで悲嘆にくれ、「わが妻よ」と呼
びかけました。
 それから、このあたりを「吾妻(あずま)」といいます。

 

● ヤマトタケルと伊吹山の神

絵「大きな白猪と泉に足を浸すヤマトタケル」

 

ヤマトタケルと伊吹山の神
 ヤマトタケルは東国征伐を終えて尾張に戻っていま
した。
 結婚の約束をしていたミヤズヒメと結婚をします。
 喜びも束の間、伊吹(いぶき)の山に悪い神がいると聞き、今
までの勝利の連続からおごりの心があったのでしょう
か「素手でやっつけてやる」といい、神剣・草薙の剣
をミヤズヒメに預け伊吹の山に征伐
に向かいました。
 伊吹の山にやってくると、途中、牛ほどの大きな白
い猪
に出会いました。
 「これは山の神の家来だな。帰り道で相手になって
やろう」と大きな声で威嚇してやり過ごしました。
 すると突然、激しく(ひょう)が降り出し行く手をはばまれ
ます。
 実は白い猪は山の神の家来ではなく山の神そのもの
であり、ヤマトタケルが威嚇したため怒りを買ったの
です。
 (ひょう)に打たれて体力を激しく消耗したヤマトタケルは、
養老の地の野原を通るときには「今は歩くこともまま
ならなず、足がたぎたぎと(きし)む」と嘆きます。
 後にこの野原は多芸野(たぎの)と言われるようになりました。

 

● ヤマトタケルと白鳥伝説

絵「ヤマトタケルと白鳥伝説」

 

ヤマトタケルと白鳥伝説
 さらに歩き続けたヤマトタケルは疲れて杖をついて歩
いたのでそこを「杖つき坂」といい、またある村に着く
と疲れた足が「三重(みえ)に曲がり固い餅のようだ」と嘆いた
事から「三重(みえ)」というようになりました。
 ヤマトタケルはどんどん体調が悪くなり、大和への望
郷の思いが募っていきます。
 そしてヤマトタケルは国しのびの歌を詠みます。
 「大和(やまと)は 国のまほろば たたなづく青垣(あおがき) 山隠(やまごも)れる 
  やまとしうるはし
」。
 ついに愛した妻を懐かしみながら、力尽き倒れてしま
いました。
 死の知らせを聞いた妻や子供たちは、伊勢の野褒野(のぼの)
(=三重県鈴鹿郡)に駆け付けました。
 するとその御陵(墓)から白い大きな鳥が天空高く飛
び立っていきました。
 ヤマトタケルは白鳥となって恋しい国へ帰って行った
のです。
 その白鳥が飛んで留まった河内(かわち)の国の志紀(しき)に御陵を作
り、「白鳥(しらとり)御陵(みささぎ)」と呼ぶようになりました。