「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 古代史フォーラム
  古代田川に天皇がいた2
 (平成30年3月21日(水)、於:福岡県立大学講堂)より

 古代田川に天皇がいた2

■ 神武天皇、菊池・山鹿から筑紫の博多湾岸まで出る

● 神武天の父、鸕鷀草葺不合尊は、呉の人々がやって来た火国山門の人である

・・・ 鸕鷀草葺不合尊が、日本書記の神代の巻、最後の王であり、神武天皇の父親である。但し、鸕鷀草
   葺不合尊は、筑豊には居なかった。
    

神武東征前史 彦瀲尊まで
「写真」

 花房台地から菊鹿盆地を望む 

 

「神武系図」
通説による神武系図
 (延岡の可愛山陵=ニニギの陵墓
  参考地の看板から借用したもの)
神武東征前史 彦瀲尊まで

 

・・・ 神武天皇の后が吾平津媛という。山鹿市の吾平山がある。神武天皇の父、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊は、
   亡くなった後、吾平の山の上の陵に葬ったと日本書紀に書かれている。そこの  吾平山陵 がある。
         

    神武天皇の父、鸕鷀草葺不合尊は、呉の人々がやって来た火国山門の人である。
         

「写真」

 吾平山 

「久しくして彦波瀲武鸕鷀草葺不合(ひこなぎさたけうがやふきあえず)
 西洲の宮に崩ず、 因りて日向の吾平(あひら)の山の上(ほとり)
 陵に葬(はぶ)りまつる。」(神代紀)

神武東征前史 彦瀲尊まで

 

写真「吾平山陵の説明板」
神武東征前史 彦瀲尊まで

 

● 神武天皇が、西の筑紫方面から東の豊国を攻めるのが、神武東征の本質である

・・・ 鸕鷀草葺不合尊の第四子として生まれた神武天皇が、東征をする。まず、鸕鷀草葺不合尊が、後八三年
   お佐賀の大室屋を攻略する。この事が日本書紀に書かれているが、ここが  吉野ヶ里遺跡 だろうと推測している。
    お佐賀の大室屋を陥落させることで、神武天皇は、熊本県菊池・山鹿から筑紫の博多湾岸まで出ていく。

    神武天皇は、その博多湾岸・糸島辺りから饒速日の建てた豐葦原瑞穗國を西から東へ攻めるというのが、
   神武東征の本質だと言い続けた訳である。

・竈山の高千穂の宮において、三年間再軍備。
・一一五 春三月 遠賀湾を遡り、夏四月、
   長髄彦軍と交戦、五瀬命負傷し、敗戦。
   博多湾住吉神社近くの草香津に帰還。
  五月 五瀬命死去、竈山宝満山)に葬る。
・一一四年 磐余彦、冬十月 諸兄・諸皇子らと
   第一次東征を開始。
  十一月 岡水門に至り、軍備を整える。
・この頃から
   韓半島・倭奴国乱れ、以後、漢への遣使が
   途絶する。
・一〇七年 倭国王帥升、後漢の安帝に生口
   (奴隷)一六〇人を献ず。この倭国王は
   天孫本紀に云う天忍人命か。
・後八三年 お佐賀の大室屋吉野ヶ里遺跡
   陥落。鸕鷀草葺不合尊の佐賀平野攻略戦。
神武第一次東征 日向→筑紫

 

・・・ この吉野ヶ里遺跡が、お佐賀の大室屋である。佐賀県の「佐賀」である。これを滅ぼした結果が「おしゃか
   になる」という言葉の意味ではないだろうか。このような立派な宮殿が、一晩で壊滅した。おしゃかになった。
   「仏」の字でいう「お釈迦になる」ではありません。

写真「吉野ヶ里遺跡」
  お佐嘉なる 夷を一人 百な人 
人は云へども 抵抗もせず
 お佐嘉の 大室屋に 人多に 入り居りとも
人多に 来入り居りとも みつみつし 来目の
子らが 頭椎い 石椎いもち 撃ちてし止まむ
神武第一次東征 日向→筑紫