「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 古代史フォーラム
  古代田川に天皇がいた2
 (平成30年3月21日(水)、於:福岡県立大学講堂)より

 古代田川に天皇がいた2

■ 饒速日が、素戔烏尊の国を侵略して天満倭国=倭奴国を建てた

● 本物の天照大神と考えている饒速日が、遠賀川流域に降臨してくる

・・・ 次に饒速日という天神が、降臨してくる。古事記・日本書紀では天孫降臨と書かれているが、この侵略は
   何代という100年~200年というスパーンに渡って侵略が繰り返されたようである。
    この饒速日が実は、本物の天照大神だと思われる。素戔烏尊の次の王である。饒速日は、豐葦原瑞穗國
     笠置山 に降臨した。
    

    下記の地図は、立岩式石包丁と今山の石斧の分布図である。この遠賀川流域を中心とした土地に饒速日は
   降臨してきた。

前一四 饒速日(天照大神)、
   葦原瑞穗國の笠置山に降臨
「発掘『倭人伝』」下條信行氏原図
「立岩式石包丁と今山産の石斧分布図」

 

● 弥生時代の鉄も長江下流域から入って来た

・・・ 筑豊からは、弥生時代に鉄剣、鉄鏃(鉄の矢尻)等の遺跡が沢山出ている。その鉄が何処から来たのか。
   最初に説明した「呉越同舟」の土地に関係する。鉄は、韓半島もしくは、長江下流域から(やまと)
   (= 豊国)
に入って来たようである。

弥生中期 鉄剣の時代
地図「後漢時代(朝鮮半島、西日本)」

 

・・・ 現在、岡垣町に在住している奥野正男氏の「邪馬台国発掘」という本に書かれている内容である。
    ここに楽浪郡の成立した頃に朝鮮半島の鉄器は、鍛造品に変わったと書かれている。八俣遠呂智が持って
   いた草薙劒(天叢雲劒)は、素戔烏尊の剣よりも明らかに優れて硬く柔軟で切れ味の鋭い鉄剣である。
    これは、今日の日本刀の始まりがここ筑豊にあったという事である。この時代から鍛造の鉄剣が造られた
   という事を書かれている。

    また、砂鉄製煉の伝播コースについて、江南からという事は、長江下流域から直接朝鮮南部と九州北部に
   伝播した可能性があると書かれている。
    この事は、遠賀川流域、彦山川流域の古事記・日本書紀に書かれた神々の伝承とピッタリ一致している
   訳である。
    「呉越同舟」に見られる呉の人々、越の人々の内、特に越の人々が、ここ筑豊に降臨してようである。

弥生中期 鉄剣の時代
鉄器文化の伝播
① 中国漢の鋳造鉄器が楽浪郡(前10
 8~後150頃)に影響した。
② 楽浪郡の成立あたりを境にして朝鮮
 の鉄器は鍛造品に変わっている。
砂鉄製煉の伝播コースは不明だが
 南から
直接朝鮮南部と九州北部に伝
 播した可能性がある。
(「邪馬台国発掘」奥野正男)
図「河南省南陽の熔炉復元図」

 

弥生中期 鉄剣の時代

吉野ヶ里遺跡の鉄器

鍛造の刀

「写真」
「写真」

 

● 奈良県(大和)には、弥生時代の鉄が無い

・・・ 川越哲志氏の資料『弥生時代鉄器総覧』を見れば、福岡県の数は圧倒的である。奈良県は弥生時代の
   鉄器は「0」である。
    『魏志倭人伝』に卑弥呼の時代に鉄鏃(鉄の矢尻)や鉄刀が使われていたと書かれている。弥生時代の
   奈良県のどこに鉄器があるのか?この事だけでも「邪馬台国近畿説」はおかしい! 「邪馬台国九州説」
   の方が本来は理に適っている訳である。私は、邪馬台国(倭国)=田川説を唱えている。

地図「弥生時代鉄器総覧」

図:川越哲志『弥生時代鉄器総覧』

弥生中期 鉄剣の時代

 

● 六ヶ岳の所から饒速日(天照大神)が、素戔烏尊を攻めていく

・・・ 饒速日が、素戔烏尊を倒していく。
    これは、天照大神が、宗像三女神を生むという場面と素戔嗚尊が、6人の男を生むという場面である。
   宗像三女神は、宮若市と鞍手町の境にある  六ヶ岳 に降臨したという事が、筑前國風土記六嶽神社社記
   書かれている。

    宗像三女神は、六ヶ岳に最初降臨した後に葦原中國の宇佐嶋に降りる。宇佐嶋は、六ヶ岳の西の麓に
   ある。そこから東の国東半島の方へ行ったのが、今の宇佐神宮である。
    もう一つ、宗像三女神は、この後に海北道中に行っている。これが、今の宗像大社である。

    宗像三女神も最初は、遠賀川流域に饒速日と一緒に降りた。

一書曰、日神素戔嗚尊、隔天安河、
而相對乃立誓約曰「汝若不有奸賊之
心者、汝所生子必男矣。如生男者、
予以爲子而令治天原也。」於是、
日神、先食其十握劒化生兒、市杵嶋
姬命
。又食九握劒化生兒、湍津姬命
又食八握劒化生兒、田霧姬命
(中略・・化生熯之速日命。)
其素戔嗚尊所生之兒皆已男矣、故
日神方知素戔嗚尊元有赤心、便取其
六男以爲日神之子、使治天原。卽以
日神所生三女神者、使隆居于葦原中
國之宇佐嶋
矣、今在海北道中、號曰
道主貴、此筑紫水沼君等祭神是也。
第三
饒速日(天照大神)素戔烏尊

 

・・・ 六ヶ岳の所で、私が天照大神と思う饒速日の大軍団、筑紫物部氏がここで上陸作戦を敢行し、素戔烏尊の
   軍隊を蹴散らして、上陸して笠置山に乗り込む。
    この笠置山は、輝緑凝灰岩という石が採れる。この石が立岩式石包丁の原材料である。つまり、饒速日
   (天照大神)が欲しかったものは、豊葦原の瑞穂の国の「瑞穂」である。美味い米が食べたいと命がけで
   降臨してきた。朝鮮半島か中国か知らないが、よほど米が採れなかったのでしょうか。ここ田川・遠賀では、
   沢山の米が採れた。そこに米を求めてやって来たのではないかと考えている。

「六ヶ岳案内図」
写真「六ヶ岳」
饒速日(天照大神)素戔烏尊

 

● 饒速日が紀元前14年に建てた国が、天満倭(そらみつやまと)国=倭奴国である

・・・ 宮若市磯光の  天照神社 社記に紀元前14年と年代が書かれているが、饒速日が笠置山に降臨したとある。
   饒速日が、建てた国が『万葉集』の中の表記にある天満倭(そらみつやまと)で、日本史の教科書に載って
   いる通称漢委奴国王とされる金印を貰ってきた王の前の王が、饒速日のようである。

    天満倭国 = 倭奴国というのが、豊前の国に誕生した。これが、私の仮説である。

天満倭国 = 倭奴国成立
前一四 饒速日、豐葦原瑞穗國の笠置山に降臨。
  (瓊々杵、日向のクシフル岳に降臨。)
 天満倭国=倭奴国が成立する。
 饒速日は古遠賀湾沿岸部を領有、中洲(なかつくに)
皇都を建設。天物部八十氏が筑豊の山や島を領有
し、「山島に居し、分かれて百余国を為す」。
 瓊々杵は博多湾岸を領有し、百余国の一角を
形成する。
「写真」

笠置山

「写真」

天照宮(磯光)

 

● 古事記にある天の石屋戸、天の金山、天の香山がすべて田川・香春にある

・・・ 上陸に成功した饒速日が、前の権力者である素戔烏尊を追い詰めていく。最終的に追い詰めた先が、
   天の石屋戸である。

    通説では、女神の天照大神が、天の石屋戸に隠れて世の中が暗くなった。それで、天照大神に出てきて
   もらうために踊りを踊ったり太鼓をたたいて祈ったというのが、田川の神楽にもある。

    その天の石屋戸伝承の正体は、饒速日が素戔烏尊を追い詰めたという戦いの跡である。天の金山の鉄で
   鏡を作らせたとある。
    一説には、この時の世の中が暗くなった原因が日食だという学者がいる。これは、嘘である。この時に
   鏡を作っている。銅の鉱石を砕いて、製錬して作った鋳型に溶かした銅を流しこみ、それを磨く。鏡が
   出来るまで何日かかるんですか。日食の時間に鏡が作れますか?このようなことについて、時々変な学者が
   ヘンテコな事をいう。

    鏡を作った場所に天の金山と書かれているが、その後に、天の香山が出てくる。これも香春三ノ岳の
   事である。

    饒速日の家来である手力男の神が、速須佐の男の命に千座の置戸とあるのは、スレート状(板状)の
   重い石を担いで素戔烏尊の体の上に1枚・2枚・3枚と重ねて圧殺したという処刑の跡である。
    それで素戔烏尊の一族は、鬚と手足の爪とを切って、今の出雲国へ追放したというのが、歴史事実だろう。
   だから、島根県出雲の国にも素戔烏尊の八俣遠呂智退治の伝承が色濃く残っている訳である。
    しかし、私が調べた結果では、豊前神楽の方が、八俣遠呂智退治の演目が絶対数で多い。

 かれここに天照大御神見畏こみて、
天の石屋戸を開きてさし隠りましき。
 ここに高天原皆暗く、葦原の中つ国
悉に闇し。これに因りて、常夜往く
 ここに万の神の声は、さ蝿なす満ち
万の妖悉に発りき。・・・
 天の金山の(まがね)を取りて、鍛人天津麻
羅を求ぎて、伊斯許理度売の命に科せ
て、鏡を作らしめ、 ・・・ 天の香山
の真男鹿の肩を・・・
 (手力男の神)、速須佐の男の命に
千座の置戸を負せ、また鬚と手足の爪
とを切り、祓へしめて、神逐ひ逐ひき。
(古事記)
饒速日(天照大神)素戔烏尊

 

・・・ 天の金山であるが、香春町に宮原金山遺跡が見つかっている。

写真「香春岳(昭和十年)」
地図「宮原金山遺跡」

 

・・・ 九州大学の考古学の先生でしょうか。一番上の部分だけ発掘して平安時代の溶鉱炉跡だとしてお仕舞い
   です。その後、直ぐにバイパス道路が出来てしました。
    私としては、平安時代の溶鉱炉跡の下を掘って見たかった。天の石屋戸の頃の天の金山の鉄、製鉄の跡が
   その下にあったのではなかったかと考えている。

「写真」
天の金山の鉄(宮原金山遺跡)

 

・・・ 銅鏡、鏡を作ったとある。香春町の  清祀殿 である。この建物の左後ろが香春三ノ岳である。香春町に
   古事記に書いてある通りの金山という場所があり、そこから平安時代とはいえ、溶鉱炉跡が見つかり、
   この清祀殿の所では銅鏡が作られていたという事で、近くから銅の鏡が出ている。

「写真」

香春町の神鏡製造所跡「清祀殿」(左後ろは天の香山)

素戔烏尊の本貫地1

 

・・・ 天の石屋戸は、なんと天の香山(香春三ノ岳)の西側、田川夏吉  岩屋(ごうや) という場所がある。
   読み方を変えれば、「いわや(岩屋)」である。そこに第一鍾乳洞がある。ここが、古事記・日本書紀に
   いう天の石屋戸と考えている。

    饒速日(天照大神)の軍隊が、この鍾乳洞まで素戔烏尊の軍隊を追い詰めて、最後に素戔烏尊を処刑した
   場所だとした時に、この鍾乳洞の前に須佐神社が建っている。当然、祭られているのは、素戔烏尊である。
   田川の伝承は凄いでしょう。岩屋(ごうや)と素戔烏尊、ピッタリ合っている。

地図「田川市夏吉」

夏(羽)焼ノ庄

写真「岩屋第一鍾乳洞」
写真「岩屋第一鍾乳洞」

岩屋第一鍾乳洞

写真「岩屋第一鍾乳洞」
素戔烏尊の本貫地2

 

・・・ 香春町にも天照大神の社がある。

「写真」
天照大神 香春を攻略

 

● 後漢の光武帝から金印をもらったのが、当然、香春にいた天香語山命である

・・・ 紀元前14年に降臨してきた饒速日の次の2代目の王が、天香語山命という。当然、香春の地に居たで
   あろう。この王が、紀元57年に後漢の光武帝からあの有名な金印を頂いた。
    だから、この金印は、最初には香春にあったと西日本新聞に連載した「新説 日本書紀」に書いた。

天満倭国 = 倭奴国成立
後五七 倭奴国王(天孫本紀に云う
   天香語山命か)、漢光武帝に
   遣使。金印を受く。
『翰苑』「憑山負海鎮馬臺以建都」
「金印(漢委奴国王)」
「金印の印影(漢委奴国王)」

 

● 海人族(天神族)が、侵略に成功した土地に建てた天磐船のモニュメントが舟石である

・・・ 赤村の舟石、鳥栖市の  舟石権現  立岩神社 が、倭奴国の遺跡である。饒速日から手力男が領地として
   貰った土地が立岩(嘉麻地区)である。そこの長官をしたのが、手力男のようである。
    立岩遺跡の直ぐ近くの立岩神社に折られた天磐船(舟石)がある。鳥栖市の舟石権現は、帆掛け船の形の
   天磐船である。

    これらの舟石は、海人族(天神族)が田川・遠賀の土地に降臨してきて、そこで自分たちの侵略が成功した
   ことを記念して建てた天磐船のモニュメントである。

    ここでひとつハッキリいう。全国に貴船神社がかなりあるが、赤村の舟石の所にある貴船神社が最も古い
   起源の貴船神社だと推測している。天押穂耳尊の記念碑である舟石の所にある貴船神社だからである。

「写真」
「写真」
「写真」
「写真」

 赤村の舟石 

 立岩神社 

 鳥栖市の舟石権現 

立岩神社の証言

 

・・・ 立岩遺跡のこの人骨は、手力男命の子孫で、この後に神武天皇に滅ぼされた磯城彦の先祖に当りは
   しないかというのが、私の文献史学からみた考え方である。

写真「立岩遺跡の人骨」

 立岩遺跡 

手力男命の子孫にして磯城彦の先祖?

 

・・・ 立岩遺跡の出土品である。鉄剣・鉄矛には、絹が巻かれていた。紀元前後の時代に鉄も鏡も稲も絹も
   作っていた。田川・遠賀の土地は、このような先進地帯である。

写真「前漢鏡」
写真「甕棺」
写真「鉄刀の柄の部分に絹」
立岩遺跡 鉄剣・鉄矛・絹

 

● 金印を貰ってきた倭奴国(田川・香春)の人々は、紀元前後にすでに周里を使っていた

・・・ 後漢に遣いを送り金印を貰ってきた田川・香春の人たちは、自分たちの力で楽浪郡(現在のピョンヤン)
   まで行って、帰ってきた。この時はまだ、中国側から人は来ていない。

    であるから、後漢書に「樂浪郡儌、去其國万二千里。」と書かれている万二千里というピョンヤンと香春の
   水行の距離を測ったのは、どう考えても田川・香春の人であり、紀元前後のこの時代に里という単位を用いて、
   距離を測っていた。

倭奴国と楽浪郡の里程
倭國
憑山負海鎭馬臺以馬臺以建都
 後漢書曰、倭在朝(鮮)東南大海
中、依山島居、凡百餘國。自武帝滅
朝鮮、使譯通漢於者州餘國、稱王、
其大倭王治邦臺
 樂浪郡儌、去其國万二千里。甚地
大較在會稽東。与朱雀・儋耳相近。
(謝承後漢書)
樂浪郡→樂浪郡    (隋書俀國傳)
「范曄後漢書」(さかい、とりで
※ 樂浪郡徼は、樂浪郡治の謂いか

 

・・・ この地図にある楽浪郡(ピョンヤン)と香春の水行の距離、一万二千里を船を使いながら測った。

楽浪式土器伝播図(倭国)
「原の辻貿易(弥生中期後半の交易活動)」

 

・・・ 里について考察したのが、中国で一番古い周の時代の里であり、50歩が1里で、67.5mである。
   したがって、1000里は67.5kmとなり、1万2000里は12倍して、810kmとなる。
    地図上で、ピョンヤンから香春までを海と川でたどれば、810kmとなる。

    それが、後の『魏志倭人伝』に帯方郡から女王国までが、一万二千里となるが、同じ里であるから
   邪馬台国・田川説を採る訳である。

倭人は周里を用いた
歩と里の概念
孝徳紀
 「五十戸とす」
  歩 (ふたあし)
   (五〇歩
  尺 (新字源)
= 一・三五㍍
= 六七・五㍍
= 二二・五cm
『史記』 管晏列伝 司馬遷
晏子 「六尺に満たず」
御者 「八尺の大男」
一・三五m
一・八m
秦  歩 (ふたあし)
  里 (三〇〇歩)
= 一・三五㍍
= 四〇五㍍
  歩 (ひとあし)
   (三〇〇歩)
= 〇・二四㍍
= 七二㍍
図「1歩=2跬(半歩、一足)」

 

・・・ 謝承後漢書の中に、倭国大乱とか、卑弥呼とか、次の臺與が出てくる。

一〇七
  倭面上国王帥升等、後漢の安帝に
  生口(奴隷)一六〇人を献ず。
卑彌娥惑翻叶群情臺與幼齒方
諧衆望
 後漢書曰安帝永初元年、有倭面上
國王師升
至。
 桓・遷之間、倭國大乱、更相攻伐、
歴年無主
 有一女子名曰卑弥呼、死更立男王、
國中不服、更相誅 殺、復立卑弥呼
宗女臺與、年 十三爲王、國中遂定。
 其國官有 伊支馬、次曰弥馬升、
次曰弥馬 獲、次曰奴佳鞮之也。
(翰苑)
(謝承後漢書)

 

一〇七
  倭王帥升等、後漢の安帝に生口
  (奴隷)一六〇人を献ず。
中元之際紫綬之榮
 漢書地志曰
夫餘樂浪海中有倿人、分爲百餘
 國、以歳時獻見。」

 後漢書
「光武中元年二、倭國奉 貢朝賀、
 使人自稱大夫。光武賜 以印綬。
 安帝初元年倿王師升等
 獻主口百六十。」
(翰苑)
※ 大夫( 代の官職)