「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 倭歌が明かす豊国の古代史

※ 倭歌が明かす豊国の古代史
 (平成三一年四月二七日(土)、主催 中津地方文化財協議会、於:サンリブ中津2F 研修室)より

■ 伊弉諾尊は、越国から豊国(遠賀川流域)にやって来た

呉越同舟(孫子)の故事
紀元前473年
 越王句踐(こうせん)、呉王夫差を滅ぼす
紀元前334年  
 楚、越を滅ぼす
地図「春秋時代」

 「呉越同舟」という諺がある。この諺が、豊国と関わっている。

 上記の地図にあるように呉国も越国も長江下流域(揚子江流域)の国である。お互いに非常に仲が悪い国で年がら年中戦争をしていた。

 

● 呉王夫差の公子忌は、菊池・山鹿にやって来た

越同舟の行き先
前四七三 越王勾践、呉王夫差を討つ
夫差の公子忌
 孝昭天皇三(前四七三)年来朝し、
 火国山門に住む。
「松野連<倭王>系図」

 紀元前473年に呉が滅びる。その滅ぼされた呉の人々が、日本にやって来た。日本に残された『松野連(倭王)系図』というのが、国立国会図書館とかにある。

 倒された呉王夫差の子である公子忌という中国側の記録には残っていない庶子の名前があり、孝昭天皇三年に来朝して火国山門に住んだという注が江戸時代に付されている。
 日本書紀紀年の孝昭天皇三年は、紀元前473年に当り、呉王夫差が滅ぼされた年とピッタリである。

 

越同舟の行き先
「アイラトビカズラ(山鹿市)」

 茂賀の浦の北端に相良観音があり、アイラ
観音という。この地は、日本でただ一つ自生
している「アイラトビカズラ」がある。
 原産地は、中国南部の長江流域である。
  

『和名類聚抄』「肥後国菊池郡」
「神来(おとど)地区の字図」

 七城地域の「弥生水田」(うてな台地の
城ノ上遺跡)から籾痕(ジャポニカ種)の
ついた弥生土器が出土している。(七城町史)
 この弥生前期に水田稲作の技術とともに
日本に伝播した籾は、長江下流域を原産地
するジャポニカ種だとされている。
  

 呉王夫差の公子忌がやって来た火国山門所は、何処かというと現在の菊池市内の  神来(おとど) である。平安時代の百科事典『和名類聚抄』の中の肥後国菊池郡に山門郷(迫間川流域)がある。

 紀元前にここ菊池市内に呉王夫差の公子忌がやって来たというおもしろい証拠のひとつが、ジャポニカ種の米であるが、もう一つが、隣の山鹿市にアイラトビカズラという蔦の植物がある。
 そのDNAを調べると、中国南部長江流域のトビカズラのDNAと同じである。つまり、人も稲(米)もトビカズラも長江流域から渡って来たという客観的な事実である。
 ただ、通説の学者たちが言わないだけである。

 

● 越の人々は、遠賀川流域にやって来た

越同舟の行き先
Google Earth「福岡県Flood Maps」

 呉を滅ぼした越もその約140年後に楚に滅ぼされる。越の人々も昔滅ぼした呉の人々と一緒に同じ船に乗って東シナ海を渡り九州へやって来た。

 ところが、菊池(火国山門)には、呉の人々が住んでいる。九州までは一緒に来たが、元々、仲が悪かったので越の人々は、何処へ行ったかというと古遠賀湾沿岸周辺の豊国に来たようである。

 

おのころ島の発見
 是に天つ神、諸の命もちて、伊邪那
岐命
、伊邪那美命、二柱の神に、「こ
の多陀用弊流国を修理め固め成せ。」
と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さ
し賜ひき。
 故、二柱の神、天の浮橋に立たして、
その沼矛を指し下ろして画きたまへば、
塩許々袁々呂々に画き鳴して引き上げ
たまふ時、その矛のより垂り落つる
塩、累なり積もりて島と成りき。これ
於能碁呂島なり。(許呂末→頃末)
 その島に天降りまして、天の御柱を
見立て、八尋殿を見立てたまひき。

 越から最初にやって来た人が、伊邪那岐命である。古事記の伝承にある於能碁呂島に降臨して、八尋殿を建てて住んだという神話があるが、これは歴史である。

 

おのころ島の発見
写真「多賀山」
多賀山
地図「水巻町多賀山」

 伊邪那岐命が降臨した「おのころ島」は、現在の水巻町にある  多賀山 である。この山のある地名が、「頃末」である。『古事記』の一節「許呂末」から「頃末」という地名が残っている。
 多賀山を写真で見ると、塩がポタッと落ちて出来た島であるから円錐形の形をしている。

 

弥生前期 遠賀川式土器
「遠賀川式土器」
豊葦原
 瑞穂(水穂)国
「写真」

立屋敷遺跡  柱痕跡
掘立柱による高床式建物
推定:伊邪那岐命の八尋殿
  

 この多賀山の近くに立屋敷遺跡がある。ここは、有名なもう一つの稲作発祥地の場所でもある。遠賀川式土器が出土している。
 『古事記』に伊邪那岐命が住んたのが、八尋殿とあったようにこれは、地面から床までも高さが、八尋である。高床式の建物に住んだという事である。
 現在は、遠賀川の底にある立屋敷遺跡には、高床式建物の掘立柱の柱痕跡が出土している。

 

古遠賀湾沿岸の最古の稲作
「遠賀川系土器・遠賀川式土器」
「遠賀川式土器・遠賀川系土器の伝播地図」

 この地で始まった稲作は、紀元前3~2世紀、100年で青森県まで到達する。青森県でも遠賀川式土器が出土している。

 ここまで、話せばもう現実であろう。何処にも神話なんかはありません。神というのは、我が国では、生きている間は人間である。亡くなると神になる。
 今でも神道では我々は生きている時は、人間で亡くなれば神様になる。仏教徒になった方は、亡くなれば成仏して仏様になるが、元々の考えは、人は亡くなれば神になる訳である。
 我が国の神というのは、エホバの神とかアラーの神のように人間が造った想像の神では無く、単純にご先祖という意味である。したがって、ご先祖の歴史である。

 

● 越から最初にやってきた伊弉諾尊の国、日本(やまと)は豊国である

弥生中期 銅剣の時代
 伊弉諾尊
日本(やまと)は浦安の国細戈(くわしほこ)千足(ちだ)る国
 磯輪上(しわかみ)秀真国(ほつまくに)。」
と名付けたとある。
「写真」

 直方市天神橋貝塚
 マッコウクジラの
 歯の装飾品

「古遠賀湾図」

 伊弉諾尊が、『日本書紀』神武紀の終わり部分で、自分の国について次のように云っている。

 日本(やまと)は浦安の国である。奈良県は、海が無いのにどこに浦安があるのか。今日本で一番有名な浦安は、千葉県の浦安である。東京ディズニーランドがある所である。
 このように入り江のある所に浦安という地名がある。奈良県は、絶対に古事記・日本書紀に云う浦安の国では無いという事は、日本(やまと)国では無いという事である。

 次にある細戈(くわしほこ)の千足(ちだ)る国の細戈は、細形銅剣である。

 

弥生中期 銅剣の時代
「写真」銅戈・銅剣

遠賀町公式ホームページ

「銅剣・銅鉾・銅戈文化圏と銅鐸文化圏」

 福岡県、大分県は、銅剣・銅戈が沢山出土しているが、奈良県から出土しているのは、銅鐸である。細形銅剣は、一本も出土していないという事は、これからも日本(やまと)国では無いという証拠である。

 三番目に磯が輪っかのようになった国だ。良い国だと云うのである。古遠賀湾があった遠賀川の流域は、正しく磯が輪っかのようになっている沿岸の優れた国だから磯輪上(しわかみ)の秀真国(ほつまくに)と伊弉諾尊が云うのである。これは、日本書紀にちゃんと書かれている。

 伊弉諾尊の正体であるが、「いさな」というは、鯨の事である。直方市の天神橋貝塚からは、マッコウクジラの 歯の装飾品が出土している。
 また、多賀山のある水巻町頃末の北に鯨瀬という字名も残っている。

 『日本書紀』神武紀で伊弉諾尊が云った日本(やまと)の3つの条件が全部重なる場所は、古遠賀湾にある豊国である。絶対に奈良県は、日本(やまと)ではない。