「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
倭歌が明かす豊国の古代史
※ YouTube動画「平成31年4月27日(土) 倭歌が明かす豊国の古代史 」はこちらからご覧になれます。
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● 古代の豊国は、大きな国であった
豊国は、元々は豊前・豊後を合わせた国である。豊前、豊後に分かれたのは、西暦六〇〇年代の前半だと思われる。
上の地図は、西暦六〇〇年代に豊前、豊後に分かれた後の豊前国である。今でこそ豊前は小さな国だが、古代の豊国というのは、相当に広くて遠賀川流域も入る。また、阿蘇も粗方入る。
● 神代の神々二十三世は、筑紫の東の宮に都を置いた
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二
一
二
一
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二
一
『宋史』日本國の王年代紀は、東大寺のお坊さんが、十世紀の宋の時代に皇帝に差し上げた記録が、中国側に残って日本では無くなってしました書物である。
ここに書かれている天村雲尊、伊弉諾尊、素戔烏尊、天照大神尊、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊、神武天皇の父親の彦瀲尊とか凡二十三世の神々が、筑紫の東の宮に都を置いたとある。
何処にも現在の奈良県は、書かれていない。したがって、倭王朝が奈良県に興ったとか、邪馬台国が奈良県にあったとかいうのが、妄想である。
豊国が、元々の倭王朝であるというのが、私の根幹の説である。
また、ここに書かれている神々に順番も違っている。伊弉諾尊の次が素戔烏尊で、その次が天照大神尊と書かれている。
素戔烏尊と天照大神尊は、姉弟ではありません。倒し倒された間柄である。
● 英彦山が豊前の中心の山である
英彦山の北側が、邪馬台(やまと)国。南側が、邪馬(やま)国である。現在も、山国(やまくに)川という川が流れている。
邪馬国という国名は、『魏志倭人伝』にも書かれている。
● 英彦山神宮の上宮に天村雲尊が祭られている
『古事記』、『日本書紀』、『宋史』日本國に登場する上代の神々は、全て豊国にいた。それぞれの神々を祭る神社が全てある。
しかし、奈良県には、その神々を祭る神社が殆どない。それだけでも、奈良県は倭(やまと)国では無い。豊国が、倭(やまと)国である。
弥生
早期
弥生
前期
弥生
中期
弥生
後期
弥生
終末
前400
前300
前200
前100
0
100
200
紀元前300年頃の伊弉諾尊かた紀元後300年頃の日本武尊までについての話である。
・・・ 越から最初に遠賀川流域の豊国にやって来た。そこが、日本(やまと)
である。
・・・ 素戔烏尊は、最初の八幡神を征伐して出雲王朝を建てた。
・・・ 素戔嗚尊は、男神である天照大神(饒速日)に敗れて、天の石屋戸の
前で処刑された。
・・・ 天満倭国は、金印の国「倭奴国」である。天香語山命が金印を受く。
・・・ 神武は、山鹿の日向(ひむき)より筑紫へ出る。神武は第一次東征に
失敗し、筑紫に帰還する。
・・・ 神武は、「日を背にして戦う」為に菟狹へ大迂回をする。第二次東征
に勝利し、倭奴(いぬ)国が滅び邪馬台(やまと)国が成立する。
・・・ 神武天皇の崩御後、神渟名川耳尊(後の綏靖天皇)が手研耳命を暗殺
したことが原因で倭国大乱が起こる。
・・・ 倭国大乱の後に共立された女王卑弥呼の邪馬台(やまと)国は、田川に
あった。卑弥呼の都と墓も田川郡赤村にある。
・・・ 卑弥呼の敵国、狗奴国王の卑弥弓呼は、景行天皇ではないか? 景行
天皇も火国から出て豊国北伐を行っている。
・・・ 日本武尊は魏志倭人伝にある伊都国の長官であり、景行天皇の豊国
北伐から倭国防衛に立ちあがった戦った相手同士である。
すべて、豊国に実在した人々の話である。
これは、遠賀川流域の倭(やまと)国の話である。奈良県には、これだけの伝承は絶対にありません。一つもありません。
日本武尊もこちらの話である。
前半の部分は、これで終了ですが、中津市の皆さんにどうしても知ってもらいたい内容を話します。
● 吉野の地は、英彦山の南麓にある
壬申の乱も当然の事であるが、私の説では、近畿の奈良県で起きた事件ではなく、豊国で起きた事件である。
・・・ 壬申の乱は、豊国で起きた事件であり、天武天皇が入った
吉野宮は、山国町の若宮神社である。
・・・ 壬申の乱に勝利した天武天皇の飛鳥浄御原宮は、赤村大原の
貴船神社である。
・・・ 『懐風藻』『万葉集』『続日本後紀』の関係から吉野は、
山国町吉野だいうことになる。