「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 倭歌が明かす豊国の古代史

※ 倭歌が明かす豊国の古代史
 (平成三一年四月二七日(土)、主催 中津地方文化財協議会、於:サンリブ中津2F 研修室)より

■ 神武第二次東征は、菟狹へ迂回し「日を背にして戦う」

● 神武東征の道案内をした頭八咫烏は、豊前坊と求菩提山八天狗である

神武天皇の第二次東征
一一八 春二月、第二次東征開始。
 「日を背にして戦う神策」を実行に移す。
  速吸門(速吸日女神社)に至り、珍彦
  を道案内とする。菟狹(安心院妻垣神
  社
)に至り、一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)に入る。
(日本書紀要約)
 数ヶ月、狹野
嶽(求菩提山)
に通い、「 頭 
大天狗(豊前
坊)及び「 八咫
烏 
」(求菩提山
八天狗)一族と
同盟を結ぶ。
 この間、吉野
の国樔(玖珠)

部らを巡撫。
(求菩提山縁起)
写真「妻垣神社(安心院)」

 神武は、第一次東征に失敗をしたので、「日を背にして戦う」策を採らないといけないという事で大迂回をする。

 神武は、筑紫の宝満山から一旦、菊池・山鹿に戻り、そこから山越えをして宮崎県日向市美々津町に出る。宮崎県から速吸門(速吸日女神社)の所までやって来る。
 そこで珍彦を道案内として、更に北上し菟狹に至る。場所は、宇佐八幡宮でなく、安心院にある妻垣神社だとハッキリしている。今でもここに一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)の跡が残されている。

 そこから英彦山へ登り、そこに居た大天狗「豊前坊」と八咫烏「菩提山八天狗」一族と同盟を結ぶ。この間、吉野の国樔部らを巡撫する。
 吉野は、山国町の吉野であるから、国樔は玖珠であり、英彦山の南側の部族を手名付けて、英彦山の北側を再び狙う訳である。
 日本書紀を細かく読んでいくとそのような事になる。したがって、中津市山国町は、神武の第二次東征の足掛かりの土地である。

 私が読み解いた鞍手郡誌の中では、具体的な地名で守実が出てくる。神武は守実から英彦山に登ったと書かれている。

 

頭八咫烏

求菩提山八天狗像

「写真」

頭八咫烏のルーツ

「写真」

ガル-ダ神
(ガルダ衆→カラス)

 豊前坊と求菩提山八天狗が、神武紀に書かれている頭八咫烏である。

 

高住神社
神紋 鷹羽

「豊前坊 高住神社の神紋(鷹羽)」

豊前坊 高住神社

「豊前坊 高住神社 祭神と由緒」

 豊前坊は、高住神社に祭られている豊日別大神である。

 頭八咫烏、八天狗一族の人々が祭った神が、インドのガルーダ神であると思われる。頭が鷲、体が人、背中に翼がある神様である。このガルーダ神を祭ったのである。金ぴかであることも重要である。
 私の語源説であるが、ガルーダ神を祭る一族=ガルダ衆というのが訛って訛って、カラスとなったのではいう説である。ただの福永説で、何処からの指示はありませんが。

 

● 菟田の穿邑は、川崎町の中元寺川・甌穴群の所である

神武第二次東征の豊国北伐
一一八年 六月、「天皇獨り、皇子手研
   耳命と軍を帥ゐて進む。
   既にして皇師中洲に趣かんと欲す。」
  七月、頭八咫烏の案内で英彦山を下る。
  八月、菟田の穿邑に至る。菟田縣
   血戦に勝つ。
「写真」

川崎町天然記念物
中元寺川・甌穴

 英彦山を越えて、「日を背にして」遠賀川流域の倭奴国を倒しに行く。西暦118年6月、中洲(なかつくに)へ行こうとする。
 8月、菟田の穿邑に至る。私が今研究室を構えている川崎町の中元寺川に甌穴群という天然記念物がある。川の岩にボコボコっと穴があいている。「穿」というのは、「穴」の事である。
 何故か知らないが、穴だらけの場所があり、そこにちゃんと神武天皇を祭る神社(天降神社)がある。

 

絵「八咫烏に導かれる神武天皇」

 神武天皇の道案内をする八咫烏の絵であるが、全くの間違いである。八咫烏は、人間であり、本当にカラスが道案内をしたわけでない。

 

● 神武天皇が攻略した天香山は、銅の採れない奈良県にはない

神武第二次東征の豊国北伐
一一八
 九月、天香山(香春岳)攻略にかかる。
 十月、赤銅の八十梟帥国見丘岩石山
  に破る。
(日本書紀)
写真「香春岳」

 日本書紀の大半に、神武天皇は天香山を攻めたと書かれている。そこにいた敵の名前が、赤銅の八十梟帥であり、銅に関係する。

 したがって、神武天皇は絶対に奈良県にある土地(天香具山)を攻めてはいない。赤銅の八十梟帥というのは、銅を支配(管理)していた人物である。奈良県の出来事ではなく、豊国の出来事である。

 

神武天皇の第二次東征
一一八十一月 立岩丘陵(飯塚市)に籠る磯
   城彦を攻めようとして、神武は川と海
   の混ざる広大な沼を徒歩で渡り、片島
   (飯塚市)に上陸、遂に「熊野の神邑
   を攻撃し、磯城彦を滅ぼす。
   「天磐盾(立岩神社)に登り」、東征
   成就を天祖に祈願する。
  十二月、長髄彦との最後の決戦に臨む。
   「十有二月の癸巳の朔丙申に、皇師遂
   に長髓彦を撃つ。」苦戦を強いられた
   ようだが、辛勝し、終に長髓彦を殺す。
倭奴国滅亡
 長髄彦は年代が合わず、滅ぼされたのは、天忍
人命・天忍男命のようである。饒速日の別の末裔
は神武に帰順したようでもある。
一一九 春二月、「諸將に命じて士卒を(えら)ぶ」
   倭奴国の残存勢力を掃討する。

 

写真「立岩遺跡の人骨」

 立岩丘陵にある立岩遺跡の人骨の先祖は、なんと手力男命である。天照大神の家来の子孫であり、磯城彦の先祖に当たる人物である。
 この人骨の腕輪は、ゴホウラ(護法螺)である。この貝は、沖縄島の南でしか採れないという事は、紀元前の昔から、ここ豊国の人々は沖縄方面との交流があったという事である。

 

● 神武天皇が立岩神社にきた証拠が、壊された天磐船である

十一月、彦山川水系を
 南下し、嘉麻川水系
 に入る。
「十有一月の癸亥の朔
 己巳に皇師(みいくさ)大きに(こぞ)
 りて、磯城彦を攻め
 むとす。」
「写真」

 立岩神社 

「写真」
「写真」

 鳥栖市の舟石権現 

立岩神社の証言

 立岩神社にある石は、たぶん天磐船である。鳥栖市にある舟石が、神話に出てくる天磐船である。立岩神社では、天磐船の帆の部分の石が落とされ、船体の石が真っ二つに折られている。
 これは、神武天皇が兵士に命じて壊させた跡だと考えている。壊されたという事が証明できたら、神武天皇は実在の人物である。私は、神を含めて、誰一人として架空だとは考えていない。全て、人間の歴史である。

 

● 八咫の鏡の正体は、八咫烏が持っていた鏡である

「神武第二次東征(鳥見野の決戦・金色に輝く鳶)」
鳥見野(直方市頓野)の決戦
      八咫の鏡の謂れ
絵「鳥美野の戦い(金色に輝く鳶)」
十有二月癸巳朔丙申、皇師
遂擊長髄彥、連戰不能取勝。
時忽然天陰而雨氷、乃有
色靈鵄
、飛來止于皇弓之弭、
其鵄光曄煜、狀如流電。由
是、長髄彥軍卒皆迷眩、不
復力戰。長髄、是邑之本號
焉、因亦以爲人名。及皇軍
之得鵄瑞也、時人仍號鵄邑、
今云鳥見是訛也。

 鳥見野の決戦の時に、金色に輝く鳶が飛んできたとの伝承がある。これは、上記に挙げた金ぴかのガルーダ神の事であろう。
 三種の神器のもう一つを明かそう。八咫鏡というのは、八咫烏一族が持っていた鏡である。八咫烏というのは、熊野権現に仕えた太陽の神である。この鏡を何枚も持ってきて、太陽の光を利用して敵の眼を眩ませて、攻撃した。
 だから、八咫鏡は重要な鏡であるとこの講演会で初めて言った。これが、八咫鏡の起源だという福永説である。

 

● 神武第二次東征で倭奴(いぬ)国が滅亡し、邪馬台(やまと)国が成立する

※ 神武即位。
  倭奴(いぬ)倭奴国滅び邪馬台(やまと)国成立。
(日本書紀)
一二一 辛酉年の春正月の庚辰朔に、天皇
    橿原宮に於いて帝位に即きたまふ。
「求菩提山縁起」
 求菩提山縁起 

 八咫烏一族がいた求菩提山の縁起には「神武天皇が鉾を揺らし中国(なかつくに)を平らげ、威奴(いぬ)の邪心を追い払い九州を治めなさった」と書かれている。
 ここに書かれている九州は、奈良県のことでしょうか? 神武天皇は、九州を出ていない。地元の伝承を大事にしましょう。
 この求菩提山縁起によれば、八天狗一族は継体天皇の時に鬼に貶められ、退治された。その退治された場所が、威奴岳である。この威奴岳の威奴を今は、犬と書き、犬ヶ岳の事である。

 だから、倭奴国の倭奴も「いぬ」と読むに決まっている。誰が「わのな」と読んだのか? アホですかという感じである。現地の伝承を知らない人達が勝手に言っていることである。

 したがって、倭奴(いぬ)国滅び邪馬台(やまと)国成立である。この邪馬台も古典では、「やまと」と書いている。「やまたい」では、ない。