「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 倭歌が明かす豊国の古代史
(平成三一年四月二七日(土)、主催 中津地方文化財協議会、於:サンリブ中津2F 研修室)より
■ 神武崩御の後、倭国大乱を経て卑弥呼が登場する
● 倭国大乱は、「豊国 対 火国」の争いである
神武天皇は、西暦121年(辛酉年)に即位する。その神武天皇のことが、『魏志倭人伝』に書かれている。
「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼」とあり、卑弥呼即位の前、男王が七八十年いて倭国大乱の後に卑弥呼が登場するということは、神武天皇から卑弥呼まで豊国において、つながっている。
何故、倭国大乱が起こったかというと、神武天皇の最初の后吾平津媛と間に誕生した手研耳命が、神武天皇の次の大王になるが、三年で香春の物部氏の媛との間に産まれた神渟名川耳尊(後の綏靖天皇)に暗殺された。
菊池出身の皇子が、香春の地の皇子に殺されたから倭国大乱が起こったので、「豊国 対 火国」であると言った。
これが、倭国大乱の原因であろう。
卑弥呼は、狗奴国との戦争に敗れて責任をとらされて自殺同様に死んでいくと私は言っている。
田川郡香春町にある「おほきんさん」が、神武天皇の陵であると言っている。『日本書紀』には、「葬畝傍山東北陵」と書かれている。
本物も畝傍(尾)山が、香春一ノ岳であれば、丁度その東北の位置に「おほきんさん(=大王さん)」という弥生時代の円墳が存在する。
香春町に倭国大乱の時代に当たる古い時代の前方後円墳の跡がある。「Google Earth」で見ることが出来る。ちゃんと堀の跡も残っている。ここの近くから後漢式鏡が出土している。
邪馬台国近畿説の学者たちが、奈良で一番古い古墳だと言っているのが、ホケノ山古墳である。この古墳は、3世紀中葉といわれているから西暦200年代である。
しかし、後漢式鏡が出土した宮原遺跡は、弥生中期から後期で時代を調べるとホケノ山古墳より100年以上古い。
だから、中津市にある前方後円墳も一部は、同じくらい古いのではないだろうかと私は考えている。
● 卑弥呼は、『崇神紀』に出てくる倭迹迹日百襲姫命ではないか
卑弥呼は大物主神に仕えたといわれている。『日本書記 崇神紀』に書かれている「この神酒(みき)は わが神酒ならず 倭(やまと)成す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久 幾久」のこの倭歌が、ひょっとすると卑弥呼の詠んだ歌ではないだろうかという可能性を今検討している。
『日本書紀』の中で、神明倭迹迹日百襲姫命が大物主の妻となったと書かれている。