「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 倭歌が明かす豊国の古代史

※ 倭歌が明かす豊国の古代史
 (平成三一年四月二七日(土)、主催 中津地方文化財協議会、於:サンリブ中津2F 研修室)より

■ 壬申の乱は、豊国で起き勝利した天武天皇は田川に宮を置いた

● 壬申の乱の舞台は、豊国である

白村江戦前夜 ~ 壬申の乱
地図「壬申の乱戦闘ルート」

 これが、私が想像する壬申の乱の跡である。山国町吉野から平尾台にかけての戦いである。

 

白村江戦前夜 ~ 壬申の乱
7・4 ②
東道軍
・ 軍を分けて、上中下の道に当てて、駐させる。
 将軍は中つ道へ。
・ 近江将、犬養連五十君、中道より来て村屋
 留まり、別将廬井造鯨を二百名の精兵をつけて
 派遣、将軍の軍営を衝く。
  この時、麾下の軍勢が少なく防ぐことが難し
 かったが、大井寺の奴、徳麻呂等5人の弓で
 鯨の軍は進めなかった。
・ 三輪君高市麻呂・置始連莵、上道に当たって、
 箸陵の下で戦う。近江軍に大勝。勝ちに乗って、
 鯨の軍の後ろを断ったので、鯨の軍はすべて解
 散して逃げ散った。鯨は辛うじて逃げることが
 できた。
・ 伊勢からの紀阿閉麻呂等の本隊が続々到着し
 てきた。

 

白村江戦前夜 ~ 壬申の乱
地図「壬申の乱戦闘図」

 

● 天智天皇は病死ではなく、入水自殺した

白村江戦前夜 ~ 壬申の乱
⑩ 天武天皇元年(六七二年
       六月~八月 壬申の乱
7・23②  
  秋七月庚寅朔壬子(二十三日)に、
 大友皇子、逃げて入らむ所無し。乃ち
 還りて山前に隠れて、自ら縊れぬ
 十二月三日。天皇崩。同十二月
五日。大友皇太子。即為 帝位 。
生年廿五。
 一云。天皇駕 馬。幸 山階
郷 。更無 還御 。永交 山
林 。不 知 崩所 。

 只以 履沓落處 為 其山陵 。
以往諸皇不 知 因果 。恒事 
煞害 。
※ 扶桑略記第五 天智天皇九年

 

白村江戦前夜 ~ 壬申の乱
写真「織畑神社の前の玄界灘」

天智天皇の入水場所
昔からの自殺の名所

「写真」

織幡神社境内にある武内宿祢の沓塚

「写真」

高良大社奥宮 武内宿祢の墓

 

白村江戦前夜 ~ 壬申の乱
万葉集の証言 (天智天皇の入水自殺)
 一書に曰はく、近江天皇、聖躰不豫御病急か
なる時、大后の奉獻る御歌一首 
(一四八)靑旗の 木旗の上を かよふとは
     目には見れども 直に逢はぬかも
 山科の青旗のような木幡(織幡神社)の上を御霊は
通っておられると目には見えるけれど、もはや直接には
天皇にお逢いできない
ことである。
(直に逢ふとは、相觸れる肉體のある人間として直接に
 相見る事
である。 澤瀉久孝)
 大后の御歌一首
(一五三)鯨魚取り 淡海の海を 沖放けて
     漕ぎ來る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ
     邊つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 
     夫の 思ふ鳥立つ
(鯨魚取り)淡海の海の遠く沖辺を漕いで来る船よ。沖
の櫂もひどく水を撥ねないでおくれ。岸辺の櫂もひどく
水を撥ねないでおくれ。(若草の)入水した我が夫のよ
うに思われる鳥が、驚いて飛び立つかも知れないから。

 

● 壬申の乱に勝利した天武天皇は、田川に都を置く

四、白村江戦前夜~壬申の乱
8・27  ・ 有功者たちを賞め、寵を与える。
9・8  ・ 車駕帰還の途につかれる。
9・08   伊勢の桑名に宿り給う。
9・9  ・ 鈴鹿に宿り給う。
9・10  ・ 阿閉に宿り給う。
9・11  ・ 名張に宿り給う。
9・12  ・ 倭京に到り、嶋宮に御す。
9・15  ・ 嶋宮より岡本宮に移る。
地図「通説の壬申の乱戦闘ルート」

 

白村江戦前夜 ~ 壬申の乱
⑪ 天武天皇元年(六七二)
 是歳、宮室を岡本宮の南に営る。
 即冬に、遷りて居します。
 是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。
※ 飛鳥浄御原宮を田川郡赤村大原
 貴船神社の地に比定。
写真「赤村大原の貴船神社」

 

白村江戦前夜 ~ 壬申の乱
万葉集の証言 (天武天皇と大原の里)
 天皇賜藤原夫人御歌一首
一〇三 吾が里に 大雪ふれり 大原
    古りにし里に ふらまくは後
 わたしの居る里(新京、後の藤原京=福原長者原遺
か)には大雪が降っている。そなたの里の大原の旧
都(飛鳥浄御原宮)
に雪が降るのはまだ後だろう。
 藤原夫人奉和歌一首
    (藤原夫人は鎌足の娘、字は大原(おおはらの)(おお)刀自(とじ)
一〇四 吾が岡の おかみに云ひて ふらしめし
    雪のくだけし
    そこに散りけむ
 わたくしの里の大原の闇龗(くらおかみ)
(龍神)
に云いつけてふらせ
ました雪の砕けましたのが、
そこのあたりに散ったのでご
ざいましょう。大原の里に先
に降りましたよ。
     (福永の新解釈)
写真「雪の赤村大原の貴船神社」

 

● 壬申の乱後に持統天皇も山国町吉野に来ている

白村江戦前夜 ~ 壬申の乱
⑫ 天武天皇八年(六八〇)
五月庚辰朔甲申、幸 于吉野宮 。
乙酉、天皇、詔 皇后及草壁皇子
尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇
子・忍壁皇子・芝基皇子
 曰「朕、 
今日與 汝等 倶盟 于庭 而千
歲之後欲 無 事、奈之何。」皇
子等共對曰、「理實灼然。」則草
壁皇子尊、先進盟曰、「天神地祗
及天皇、證也。吾兄弟長幼幷十餘
王、各出 于異腹 、然不 別  
同異 、倶隨 天皇勅 而相扶無  
忤。若自 今以後、不 如 此盟 
者、身命亡之子孫絶之。非 忘非 
失矣。」

 

白村江戦前夜 ~ 壬申の乱
五皇子、以 次相盟如 先。然後、天皇
曰、「朕男等各異腹而生、然今如 一母
同産 慈之。」則披 襟抱 其六皇子 。
因以盟曰「若違 茲盟 、忽亡 朕身 。
」皇后之盟、且如 天皇 。丙戌、車駕
還 宮。己丑、六皇子共拜 天皇於大殿
前 。

天皇、吉野宮に幸しし時の御製歌
()き人の 良しと吉く見て 好しと言
ひし 芳野吉く見よ 良き人よく見
(淑人乃 良跡吉見而 好常言師
 芳野吉見与 良人四来三
(萬葉集二七)

 天武天皇は、壬申の乱に勝利した後、田川に都を置く。そこから皇后(後の持統天皇)と腹違いの六人の皇子を一緒に吉野宮にやって来て、不戦の誓いを立てる。
 その時の持統天皇の歌が、万葉集二七番歌である。よく解らない歌である。まだ、この歌の解読に悩んでいる。
 持統天皇は、日本書紀の中で31回も吉野宮と往復する。異常な天皇(女帝)である。持統天皇は、間違いなくこの山国町吉野に来ている。

 

白村江戦前夜 ~ 壬申の乱
⑬ 天武天皇十五年(六八六)六月の戊寅(十日)
 に、天皇の病を卜ふに、草薙劒に祟れり
 即日に、尾張国の熱田社 に送り置く。
朱鳥元年(六八六)九月丙午(九日)に、天皇
 の病、遂に差えずして、正宮に崩りましぬ。
 以上をまとめると、壬申の乱は、確実に「最後
の豊国北伐」である。
 万が一、天智天皇の死が織幡神社突端の岬から
の入水自殺の結果であれば、壬申の乱は「豊君の
天智天皇」と「大海人皇子=筑紫君薩野馬」との
直接の争い
であった可能性が高い。
 勝利した天武が三種の神器の中心である草薙の
剣に祟られて病死する
様は、日書紀中最も特筆
大書本されるべきであろう。