「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 倭歌が明かす豊国の古代史
(平成三一年四月二七日(土)、主催 中津地方文化財協議会、於:サンリブ中津2F 研修室)より
■ 素戔嗚尊は、饒速日(天照大神)に倒され処刑された
素戔嗚尊は、天照大神に倒される。天の石屋戸事件である。その倒された場所は、ここに天香山が書かれているようにその近くである。
手力男の神に「速須佐の男の命に千座の置戸を負せ」と古事記に書かれている。この千座の置戸は、スレート状の石の事である。
板状の石を素戔嗚尊の体の上に何枚も重ねて圧殺した。戦争に敗れたので、手力男命に処刑をされたのである。
● 『古事記』の天の石屋戸事件に出てくる天の香山は、香春三ノ岳である
二
一
古事記・日本書紀に天香山からは、金が採れた。銅が採れたと書かれている。奈良県にある天香具山は、金も銅も採れない。だから、偽物である。
金と銅が採れる天香山は、田川郡香春町にある香春岳の三ノ岳である。写真の金は昭和に採れた物である。銅は、山の傍に採銅所という場所があり、奈良時代には沢山採れている。ここの銅が東大寺の大仏を造る時に使われたと記録がある。
したがって、この香春三ノ岳が本物の天香山だろうと思っている。
そうした時にもう一つ解ることは、香春岳は、三連山で頂上が畝になっている。だから、三ノ岳(天香山)の畝の尾っぽの山が、畝尾(お)山である。その尾の字の読みを「お」から「び」と変えれば、一ノ岳が畝尾(び)山となる。
この文句が、古事記の一説にある。伊邪那岐命が、伊邪那美命を亡くした時に流した涙から生まれた神が、香山の畝尾の木の本に座す名を泣澤女神とある。
このように一字一句を大切にすると、奈良県が、いかに偽物だという事が解る。奈良県の大和三山は、ポツーン、ポツーン、ポツーンと点在しており、永遠に古事記の一説にある畝尾山は出てこない。
● 天の石屋戸は、田川市夏吉の岩屋第一鍾乳洞である
素戔烏尊が処刑されたと思われる天の石屋戸が、田川市夏吉に岩屋と書き「ごうや」と呼ばれる場所に第一鍾乳洞であり、さらにその鍾乳洞を覆い隠すように素戔烏尊を祭る 須佐神社 がある。
この鍾乳洞が、天の石屋戸でこの鍾乳洞の前で、素戔烏尊は、スレート状の石を被せられて殺されたと考えている。
● 天照大神は、男神の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊である
私の言う天照大神とは、饒速日尊で産まれ故郷である現宮若市磯光にある 天照宮 という神社がある。この神社の祭神が、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊という長ったらしい名前である。
名前の頭の部分を取ると天照であり、男神である。
また、これも常識とは違う。天照大神は、女神では無かった。天照大神を女神に変えたのは、持統天皇である。それで孫の文武に位を譲ったという政治ショーが行われた。
だから、明治天皇の前に三重県にある伊勢神宮に通ったのは、持統天皇ただ一人である。江戸時代が終わるまで、持統天皇以外に歴代天皇は誰も天照の宮には、行っていないという事である。
饒速日は、紀元前一四年に 笠置山 に降臨したという伝承が残されている。したがって、素戔嗚尊と天照大神(饒速日)は、戦った訳である。
古事記・日本書紀の中でも姉弟でありながら、戦っている。実際は、完全に他人であるから、血で血を洗う戦いをしている。
戦った場所が、宮若市と鞍手町の間にある 六ヶ岳 の所である。この山に宗像三女伸が、饒速日の先駆けとして降臨している。
それで、素戔嗚尊の軍隊を蹴散らしたようである。このような伝承が、私の田舎には沢山残されている。