「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 倭歌が明かす豊国の古代史

※ 倭歌が明かす豊国の古代史
 (平成三一年四月二七日(土)、主催 中津地方文化財協議会、於:サンリブ中津2F 研修室)より

■ 日本武尊が、景行の豊国北伐の防衛に立ちあがった

● 日本武尊は、『魏志倭人伝』にある伊都(いつ)国の長官である

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
景行天皇
 265年ごろ、「東に行き、反乱者を討
伐するため」、剣岳を発した日本武尊が、
途中、伊勢神宮(天照宮)を拝む。
 伯母の倭姫命から草薙剣(三種の神器)
を受け取った。
 熊襲国に到った日本武尊は、川上梟帥
夜宴に女装して紛れ込み、川上梟帥を刺殺
する。
 高羽の川上の土折・猪折を指すようだ。
 そうであるなら、土折猪折は初めに景行
に帰順し、後に日本武尊に誅殺されたのか
もしれない。
 こうして「熊襲の酋長ら」を倒して日本
武尊は熊襲国を平定する。
 実は、田川の失地を回復した。

 景行天皇の(=卑弥弓呼)の豊国北伐への防衛に立ちあがったのが、実は日本武尊ではなかろうかといった訳である。

 

 剣岳城

「絵」

Ⓒ鞍手町教育委員会

「写真」

天照宮(磯光)

 日本武尊の出身地を考えると、魏志倭人伝で紹介した伊都(いつ)国の長官である。画像は、鞍手町の剣岳という所にある中世のお城であるが、魏志倭人伝の卑弥呼の死後にそこの山に住んでいた伊都国王が、日本武尊ではないかと言うわけである。

 卑弥弓呼(=景行)が攻めて来た時に立ちあがったのが、伊都国の長官だった。その日本武尊は、天照宮まで出かけて行き、天叢雲劒を戴く訳である。

 日本書紀の景行が、高羽(田川)の川上で熊襲征伐した話は、女装した日本武尊が川上梟帥を退治した話へとつながっていく。

 田川の現地伝承は変である。日本書紀では景行が、高羽(田川)の川上梟帥を退治したとなっているが、現地伝承では、日本武尊が川上梟帥を退治したことになっている。

 何故、主語が入れ替わるのかを一生懸命調べたら、やはり、現地伝承の通り日本武尊の方が正しいと解った。

 

● 日本武尊と景行天皇の最後の決戦の地は、北九州市の足立山である

絵「ヤマトタケルと熊襲建、川上梟帥」

Ⓒ建部大社

絵「叔母倭姫命と草薙劔を振るうヤマトタケル」

Ⓒ建部大社

 日本武尊は、北九州市小倉南区にある帝踏石の所まで出かけていき、卑弥弓呼(=景行)軍と戦った。また、常識外の事を言います。景行と日本武尊は、親子では無い。戦った敵同士である。

 何故か知りませんが、火国の景行が天皇であって、日本武尊に天皇の称号が無いというまた、滅茶苦茶な謎に陥る。

 その戦いの時に日本武尊は、火攻めに遭い佩いていた天叢雲劒で草を薙ぎ払ったから草薙劔という名前に変わった。
 ここ帝踏石の近くの平尾台では、春に野焼きをする。その名残だと思う。

 

倭建命天皇の倭国防衛戦
 其の國より科野(しなの)の國に越え、乃ち科野の
坂の神を言向けて、尾張の國に還り來て、
先の日に期りし美夜受比賣(みやずひめ)の許に入り坐し
き。
 是に(おお)御食(みけ)を獻りし時に、其の美夜受比
賣、大御酒盞(おおみさかづき)を捧げて以ちて獻りき。
 爾くして美夜受比賣、其の意須比(おすひ)(すそ)
月經(さわり)著きたり。
故、其の月經を見て御歌に曰く、
 ひさかたの 天の香具山 とかまに
 さ渡る(くひ) 弱細(ひはぼそ) 手弱腕(たわやがいな)
 ()かむとは 吾はすれど さ寝むとは
 吾は思へど 汝が()せる 意須比の(すそ)
 月たちにけり

 古事記の中に日本武尊の倭歌がある。美夜受比賣とのランデブーの倭歌で、天の香具山が出てくる。奈良県にある天香具山が偽物である限り、絶対にここ田川で詠まれた倭歌のハズである。
 日本武尊も当然豊国にいた人。ここでは、遠賀川流域の人である。

 

美夜受比賣(みやずひめ)の許
「写真」

古宮八幡宮 摂社に白鳥神社

 日本武尊と美夜受比賣のランデブーの場所だと思われるのが、香春町にある古宮八幡宮である。隣に白鳥神社という日本武尊を祀った神社がある。

 

倭建命天皇の倭国防衛戦
 故、爾くして御合して、其の御刀(みはかし)
那藝の劍
を以ちて、其の美夜受比賣の許
に置きて、伊服岐能山(いふきのやま)の神を取りに幸行
しき。      (伊吹山の神に敗れる)
 其より幸行して、能煩野(のぼの)に到りし時に
國を思ひて以ちて歌ひて曰く、
 (夜麻登)は 國のまほろば 
 たたなづく 青垣 山ごもれる
 しうるはし
 また歌ひて曰く、
 命の 全けむ人は 畳薦 平群(へぐり)の山の
 熊樫が葉を 髻華(うず)に挿せ その子
 此の歌は思國歌(くにしのひうた)なり。
(古事記 景行天皇記)

 日本武尊が、豊国に攻め込んできた卑弥弓呼(=景行)の軍隊と激戦を繰り返す。最後は、伊吹山の神を素手で取りに行こうという話になる。
 その時に草薙劔を美夜受比賣の許に置いて、出かけていく。それまでは、草薙劔に守られるように連戦連勝していた日本武尊が、最後の最後に伊吹の山の神を取りに行く(景行軍と戦う)時だけ草薙劔を置いて行ったと古事記、日本書紀に書かれている。日本武尊は、伊吹山で敗れる。

 

ヤマトタケルと伊吹山の神
 ヤマトタケルは東国征伐を終えて尾張に戻っていま
した。
 結婚の約束をしていたミヤズヒメと結婚をします。
 喜びも束の間、伊吹(いぶき)の山に悪い神がいると聞き、今
までの勝利の連続からおごりの心があったのでしょう
か「素手でやっつけてやる」といい、神剣・草薙の剣
をミヤズヒメに預け伊吹の山に征伐
に向かいました。
 伊吹の山にやってくると、途中、牛ほどの大きな白
い猪
に出会いました。
 「これは山の神の家来だな。帰り道で相手になって
やろう」と大きな声で威嚇してやり過ごしました。
 すると突然、激しく(ひょう)が降り出し行く手をはばまれ
ます。実は白い猪は山の神の家来ではなく山の神その
ものであり、ヤマトタケルが威嚇したため怒りを買っ
たのです。
 (ひょう)に打たれて体力を激しく消耗したヤマトタケルは、
養老の地の野原を通るときには「今は歩くこともまま
ならなず、足がたぎたぎと(きし)む」と嘆きます。後にこ
の野原は多芸野(たぎの)と言われるようになりました。

 日本武尊は、牛ほどの大きな白い猪に化けた伊吹の山の神に出会うが、やり過ごした為に敗れる。その時に激しく雹(ひょう)が降り出す。雹を降らされた訳である。その雹にうたれて体力を激しく消耗した日本武尊が、段々と身体が弱っていく。

 

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
景行天皇
 日本武尊が胆吹山に到ると、山の神
が大蛇(古事記は「牛のごとき白猪」)
に化けて道をふさいだ。
 尊は神の使いだろうと高をくくって
進んだ。山の神は雲を起こし、氷雨
降らせた。
 「峯霧り谷暗く」なり、尊は行くべ
き道を失う。
 強引に下山したが、尊は初めて「身
を痛め」た。
 つまり、景行軍に待ち伏せされ、
(鉄鏃の)矢を(あられ)のごとく降らされ
尊は初めて敗戦し、自身も深手を負っ
たようだ。
※ 敵の弾丸雨あられ
ちはやふる神=千羽矢降る

 現実的に考えると原文、氷雨とある。これは、弓矢の矢である。鉄鏃の矢を霰(あられ)のごとく降らされて、日本武尊の軍隊は敗れたのであろう。
 その時に日本武尊自身も一本の矢に足を射抜かれたであろう。
 目に見えない鉄砲の玉でも敵の弾丸雨あられという表現をする。昔の弓矢の矢もあられの如く降ってくる。氷雨と書かれているのは、その表現であった。

 伊吹の山の上に卑弥弓呼(=景行)軍が構えていて、日本武尊の軍は、後から登ったとすると引力の関係から上から矢を射った方が勝つという事である。
 ちはやふる神というのは、沢山の羽の矢が降る。その沢山の矢を降らせる神の事を千羽矢降る神という。こんなのは、当たり前であるが、どの学者も云わない。ヘンテコな解釈ばっかりする。

 怖いですよ。鉄鏃の矢が、何十本、何百本と降って自分の頭上に降ってくる。怖い神様である。

 

 足立山 (北九州市小倉北区)
写真「足立山」

 伊吹山が何処か解りました。北九州市の足立山である。

 

清水原 居醒泉(ゐさめがゐ)

「写真」
絵「大きな白猪とヤマトタケル」

Ⓒ建部大社

 足立山が、伊吹山だと何故解ったというと、白猪である。足立山の麓にある葛原八幡神社に白猪が祀っている。白猪の伝承が残されている土地であった。去年くらいに気が付いた。

 敵の矢に当って負けた日本武尊は、山を下りてきて居醒泉(ゐさめがゐ)という所で足を浸して我に返ったと古事記、日本書紀に書かれている。
 葛原八幡神社から500m登った所に今でも水が湧いている清水原がある。ここが、居醒泉の場所であろう。

 

● 日本武尊の3基目の白鳥の御陵は、鞍手町の鎧塚古墳である

ヤマトタケルと白鳥伝説
 さらに歩き続けたヤマトタケルは疲れて杖をついて
歩いたのでそこを「杖つき坂」といい、またある村に
着くと疲れた足が「三重
(みえ)
に曲がり固い餅のようだ
」と
嘆いた事から「三重
(みえ)
」というようになりました。
 ヤマトタケルはどんどん体調が悪くなり、大和への
望郷の思いが募っていきます。
 そしてヤマトタケルは国しのびの歌を詠みます。
 「大和(やまと)は 国のまほろば たたなづく青垣(あおがき)
  山隠(やまごも)れる やまとしうるはし
」。
 ついに愛した妻を懐かしみながら、力尽き倒れてし
まいました。
 死の知らせを聞いた妻や子供たちは、伊勢の野褒野(のぼの)
(=三重県鈴鹿郡)に駆け付けました。
 するとその御陵(墓)から白い大きな鳥が天空高く
飛び立っていきました。
 ヤマトタケルは白鳥となって恋しい国へ帰って行っ
たのです。
 その白鳥が飛んで留まった河内(かわち)の国の志紀(しき)に御陵を
作り、「白鳥(しらとり)御陵(みささぎ)」と呼ぶようになりました。

 日本武尊は、なんとか倭国を防衛するんですが、最後の戦いに負けて、矢傷が元で足が三重の曲がりの如くなって、動かなくなったと嘆いている。
 そして、亡くなる直前に

  大和(やまと)は 国のまほろば たたなづく青垣(あおがき) 山隠(やまごも)れる やまとしうるはし

 と詠んで力尽きていく。
 野褒野(のぼの)という場所に葬られるが、日本武尊は白鳥と化し、その陵から抜け出て恋しい倭国へ帰って行ったと古事記、日本書紀に書かれている。日本武尊の陵の事を白鳥の御陵と呼ぶようになったとある。

 

三重のまがり
「写真」

古宮八幡宮 摂社に白鳥神社

 香春町にある古宮八幡の隣は、白鳥神社である。この白鳥神社の下が、日本武尊を葬った場所ではないかと想像している。

 

古宮八幡宮の神幸祭り
 古宮八幡宮の祭神豊比売命は、香春神社へ
下向し、例祭が終わると再び古宮八幡宮に戻
るという祭り。
 初日の午前中、唐櫃を持って長光家を経て
神事を行い、秘密のおまがり様を唐櫃に納め
て古宮に持ち帰る。
 午後から杉神輿を担いで天矢大神宮(天照
大神)まで行き神事を行い、御旅所に一泊す
る。
 2日目の午後、清祀殿と宮原で神事を行い、
古宮八幡神社へ戻り、行事が終了する。
 神幸祭りには、必ず長光家でつくったおま
がり様
を迎えにいく。
 江戸時代、香春宮への行幸の時もおまがり
という龍頭の餅を献じていたと『古宮八幡
宮御鎮座伝記』に記されている。

 何故かというと、今日始まっている古宮八幡宮の神幸祭では、おまがり様という餅菓子が作られて唐櫃に入れられてから祭りが開始する。
 おまがり様である。古事記の世界と見事に繋がっている。三重の曲がり如くなった日本武尊が亡くなりここに葬られているからおまがり様である。
 このおまがり様は、毎年祭りの最後に何処か土の中に埋められる。だから、おまがり様という餅菓子は、日本武尊の形代(かたしろ)である。身代わりみたいな物である。

 毎年おまがり様が作られて、お祭りが始まり、おまがり様が埋められてお祭りが終わる。このような事が解ってきた。これが伝説である。

 

 白鳥と化す
絵「ヤマトタケルと白鳥伝説」

Ⓒ建部大社

 

倭建命天皇の倭国防衛戦
※ 白鳥神社(田川市)社伝
 延暦年中(七八二年~八〇六年)、伝教大師
最澄】が入唐し学行を終えて帰朝の途中、海
中の船路先に白鳥が飛び、ある夜大師の夢の中
に白鳥が現れ「自分は日本武尊である。
 汝の船路を守り、身を守護するから昔麻剥を
討つために行った
豊前国の高羽川の
川辺
に自分を齋き
祀れ」と告げたと
いいます。
 大師は帰朝後、
高羽川の川辺を尋
ねた所、白鳥が飛
来し、伊田の里
現:田川市伊田と
その付近)の真中
の山に止まりまし
た。
「写真」

 平安時代になっても最澄が、田川市伊田の地に白鳥神社を建てている。ここが、2基目の白鳥の御陵であろう。白鳥陵の隣に白鳥神社は、建っている。

 

倭建命天皇の倭国防衛戦
 故、其の國より飛び翔けり行きて、
河内の國の志幾(しき)に留りき。故、其の
地に御陵を作りて鎭め坐すなり。即
ち其の御陵を號けて白鳥の御陵と謂
ふなり。然れどもまた其の地より更
に天に翔けりて以ちて飛び行きき。
※ 思國歌は、古事記では倭建命、日本
 書紀では大足彦忍代別天皇の歌とな
 っている。
  ここに、景行天皇(卑弥弓呼)は
 狗奴(肥後)国からの侵略者
であり、
 倭国(豊前国)を防衛したのが倭建
 命天皇
であったことが推測される。
  景行天皇の北伐は半ば成功したの
 かも知れない。
白鳥の御陵の三基目は鞍手町の古物
 神社
の辺りにあったことが仁徳紀に
 記されている。

 

鎧塚古墳 (鞍手町)
「鎧塚古墳」

 Ⓒ鞍手町教育委員会

 3基目の白鳥の御陵をやっと見つけた。鞍手町の鎧塚古墳である。日本武尊が鎧を納めたという事になっているが、家来が鎧だけを持ち帰って埋めたのであろう。あの剣岳の近くにある。私の推測である。

 

鎧塚古墳1号墳 (鞍手町)
「写真」

推定:白鳥陵