「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 倭歌が明かす豊国の古代史

※ 倭歌が明かす豊国の古代史
 (平成三一年四月二七日(土)、主催 中津地方文化財協議会、於:サンリブ中津2F 研修室)より

■ 豊国の天智天皇が山国町に吉野宮も造った

● 壬申の乱は、豊国に起きた事件である

通説の壬申の乱戦闘図
図「壬申の乱戦闘図・壬申の乱前後の動き」

 壬申の乱も私の説では、滋賀県・奈良県で起きた事件ではなく、豊国で起きた事件である。

 

倭国地図(法興元591以後)
天物部氏が筑紫側に就く
Google Earth「福岡県Flood Maps」

 

● 天智天皇は、倭国東朝(豊国)の天皇である

斉明天皇と天智称制の謎
七年ズレのカラクリ
日本書紀の紀年
豊前国旧記の紀年
斉明元年
天智元年 称制
斉明六年 豐璋等發遣
斉明六年 須彌山・漏刻建造
斉明七年 右記の実年
天智七年(六六一)
天智七年 須彌山・漏刻建造
天智元年 皇太子称制
天智八年
天智三年 官位改訂記事
天智十年 同上記事
※天智九年 天皇崩
※天智九年 (扶桑略記)
天智十年 官位改訂記事重出
天智十年 漏刻建造記事重出
天智十年(天智七年の誤りか)
天智十年 十二月天智崩御
天智十七年?

 

 

 

 

 

 

豊君としての天智天皇
 (斉明)二年(六五六)、(中略)
飛鳥の岡本に、更に宮地を定む。(中略)
號して後岡本宮と曰ふ。
 田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。
復、嶺の上の両つの槻の樹の邊に、観を起つ。
號けて両槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。
 時に興事を好む。
① 水工をして渠穿らしむ香山の西より、
石上山に至る。二百隻を以て、石上山の石を
載みて
、流の順に控め引く。
(菟道)宮の東の山に石を累ねて垣とす。
時の人の謗りて曰はく、
①狂心の渠功夫を損し費すこと、三萬餘
 ②垣造る功夫を費し損すこと、七萬餘
 宮材爛れ、山椒埋もれたり」といふ。
 (中略)
③ 吉野宮を作る
※ すべて天智天皇の業績

 天智天皇も豊国にいた。その天智天皇が、狂心の渠や吉野宮を造っている。

 

宮原盆地 謎の地下水路について
桃坂 豊
 香春町の北部、採銅所井堀付近から瀬戸、
通称六十尺鉄橋といわれる日田彦山線の第二
金辺川橋梁近くまで約四キロに及ぶ石作りの
地下水路
が存在している事を知っている人は
地元においても少ない。
 この地下水路に関しては
① この水路は通称〝吹き出し〟と呼ばれて
 いる。
数本の水路があるらしいが、代表的な
 ものは宮原の小松氏宅にあり、水量温度
 共に季節には関係なく不変である。
③ 江戸時代に作られたらしいが、はっきり
 した築造年代は不明
である。
何の目的で作られたのか全く不明
誰が作ったのか不明
始点、終点共に不明

 狂心の渠は、香春町の宮原盆地の地下を流れている。これも間違いないと思っている。奈良県には、地下水路の跡はありません。
 全長が、4kmの地下水路であることが、判っている。

 

宮原の給水設備
  建設時の「吹き出し」
写真「地下水路」
写真「地下水路」
写真「地下水路」
桃坂氏の調査結果
「地下水路推定図」

 

● 吉野宮は、英彦山を越えた山国町にある

豊君としての天智天皇
 吉野宮(大分県下毛郡山国町吉野若宮神社
の発見
(應神天皇)十九年の冬十月の戊戌の朔に、
吉野宮に幸す。
 時に國樔人來朝せり。

 其の(くに)は、京より東南、山を隔てて、
吉野河(ほとり)に居り。
 峯(さが)しく谷深くして、道路狹く(さが)し。
 故に、京に遠からずと雖も、本より朝來
すること(まれ)なり。
 然れども此より後、 (しばしば) 參赴( まうき)て、以て
土毛を獻る。
※ 齊明(天智)二年(六五六年)是歳
「又、吉野宮を作る」

 吉野宮は、どう考えても英彦山の南麓にある。『應神紀』に始めて出てくる。『斉明紀』に書かれている吉野宮は、実際には天智天皇が西暦656年に造ったようである。

 

白村江戦前夜 ~ 壬申の乱
⑦ 天智天皇九年(六七〇年)春二月に、
 戸籍を造る。
※ 庚午年籍。唐の冊封下に入る。
⑧ 天智天皇十年(六七一年)九月に、
 天皇寝疾不予したまふ。
 冬十月の甲子の朔壬午(十九日)に、東宮
 天皇に見えて、吉野(山国町若宮八幡)
 之りて、脩行仏道せむと請したまふ。
 天皇許す。東宮即ち吉野に入りたまふ。
 大臣等侍へ送る。菟道(香春町阿曽隈社)
 に至りて還る。
※(天智天皇)四年冬十月の壬午(十九日)
 に、吉野宮に入りたまふ。時に左大臣蘇賀
 赤兄臣
右大臣中臣金連、及び大納言蘇賀
 果安臣
等送りたてまつる。菟道より還る。
 或の曰はく、「虎に翼を着けて放てり」と
 いふ。是の夕に、嶋宮(大任町島台)
 御します。癸未(二十日)に、吉野に至り
 て居します。
(天武天皇摂政前紀)

 

大海人皇子の吉野入り
天皇の御製歌(おほみうた)
 み吉野の 耳我(みみが)の峰に 時なくそ
 雪は降りける ()なくそ 雨は()
 ける その雪の 時なきが(ごと) その
 雨の 間なきが如 (くま)もおちず
 思ひつつぞ()し その山道を
「吉野の耳我の山には 時知れず雪が降
 ることだ 絶え間なく雨が降ることだ
 その雪や雨の絶え間ないように 道を
 曲がるたびに 物思いを重ねながら
 その山道を辿ってきたことだよ」
巻一(二十五)

 吉野宮に壬申の乱の時には、大海人皇子(後の天武天皇)が入った。その時の歌が、万葉集二五番歌である。

 

吉野宮(若宮神社)
「道の駅やまくに」の案内板(山国吉野)

 吉野宮の場所は、山国町吉野地区にある若宮神社である。神社の前を流れている川が、吉野川である。その川の岸辺から拝殿までずーっと石段が続いている。
 途中には、巨石がゴロゴロしている。登った最後、拝殿の手前には左右に石垣がある。

 

吉野宮(若宮神社)

境内の巨岩

「写真」

二の鳥居

「写真」

石垣(左)の前の巨岩

「写真」

石垣(左)

「写真」

 

吉野宮(若宮神社)
「和同開珎」
斉明(天智)二年
  (六五六)

銅銭の銅は、倭国東朝
(豊国)の香春三ノ岳
天香山)の銅。
 
鋳銭寺がないか?
写真「若宮神社 拝殿」
「写真」

吉野宮模型(吉野歴史資料館蔵)

 通説で言われている奈良県の吉野宮の模型は、ただの想像である。山国町吉野には、実際に若宮神社というお宮がある。
 神社の周りには、四角い石垣があり大臣たちが住んだのではないかという屋敷跡も残っている。凄い大きさの規模である。
 また、和同開珎という銅銭も天香山(=香春三ノ岳)の銅で作られているから天智天皇が豊国で作ったのであろう。