「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 倭歌が明かす豊国の古代史

※ 倭歌が明かす豊国の古代史
 (平成三一年四月二七日(土)、主催 中津地方文化財協議会、於:サンリブ中津2F 研修室)より

■ 末盧國が宗像ならば、邪馬台国は田川にある

● 卑弥呼の国は、倭=邪馬台(やまと)国である

卑弥呼即位から遣魏使
二〇〇(一九六~二二〇 建安年間)
  卑弥呼共立か。
(魏志韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀)
二三〇 「将軍衛温・諸葛直を遣はし、
  甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州
  (推定狗奴国)および亶州(推定
  東鯷国)を求む」
(三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
二三八 景初二年六月、邪馬臺國の女王
  (にして神武の後継者たる)卑弥呼、
  魏の帯方郡に大夫難升米等を遣はす。
(魏志)
二四〇 魏使邪馬台国に至る
  正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯
  儁等奉詔書印綬

 西暦200年、神武天皇即位から80年後に、卑弥呼が共立される。そして、卑弥呼は、西暦238年に魏の帯方郡に遣いを出す。

 西暦240年に魏の遣いが、倭(やまと)国にやって来る。『魏志倭人伝』の原文は、「詣國」と書かれているから「やまとの国」である。「邪馬台(やまたい)国」ではない。

 

● 卑弥呼の邪馬台(やまと)国は、田川にあった

帯方郡から倭・女王國に
分軄命官統女王而列部
 魏略曰、從帶方、循海岸水行、
暦韓國、到拘耶韓國、七十餘里、始度
一海、千餘里至對馬國。 其大官曰卑
拘、副曰卑奴。無良田、南北市糴。
南渡海、至一支國、置官至對同。方可
三百里。又渡海、千餘里至末盧國
善捕魚
能浮沒水取之。東南五百里、
伊都國、戸万餘、置曰爾支、副曰洩
溪觚柄渠觚。其國王皆統屬王女也。
文身點面猶稱太伯之苗
 魏略曰…自帶方至女國万二千餘里

 『魏略』に帯方郡から倭の女王国に至るルートが書かれている。對馬國、一支國、末盧國、伊都國。私は、伊都國は、「いつ國」と読んでいる。そこの長官が、爾支(にき)という。

 『魏略』という本から楽浪郡から一万二千里というのが、帯方郡から一万二千餘里という誤解が生まれる。帯方郡からだと楽浪郡より千三百里くらい短くなる。

 

地図「魏使のルート(陸行)」
「魏使のルート(水行)」
写真「宗像市釣川」
伊都国(小竹町)へ 東南陸行五百里

 

 私が考えているルート図であるが、拘耶韓國から對馬國まで、一千里。次に對馬國から一支國まで一千里。さらに一支國から末盧國まで一千里であり、67.5km行かなければいけない。
 しかし、通説では一支國から南の肥前の松浦へ行く。ここが九州王朝論でも言われた末盧國であるが、ここだと一支國から四百里少ししかない。
 一支國から一千里は、東の方角に行った宗像が末盧國であると言ったのである。

 卑弥呼が戦争していた国は、狗奴国であり火国である。肥前と肥後に分かれる前は、火国である。肥前の松浦は、卑弥呼の敵国である。そこへ行けば、捕まって殺される。
 通説の学者たちは、その事も解らない? 魏使が敵国の松浦に行く訳がない。

 三郡山地より東側が、豊国であるから末盧國が宗像に上陸し、『魏志倭人伝』に書かれている通りに陸路を伊都国・奴国・不弥国・邪馬台国と行ける。だから、邪馬台国は、田川だといっている。

 

邪馬台国の周辺国
地図「邪馬台国の周辺21ヶ国」

 邪馬台国の周りに21か国の衛星国がある。魏志倭人伝に書かれている。その中の邪馬國とある。最初からこれは、中津市の山国(邪馬(やま)国)だと疑っていない。これだけハッキリとした邪馬国が他にありますか?
 奈良県の何処かに邪馬国という地名がありますか? 中津市だけである。したがって、中津市に邪馬国にあるのであれば、邪馬壹國は英彦山を挟んで北側の田川だというのが、福永説である。

 また、この躬臣國とあるのは、「くじゅ」で、たぶん玖珠であろう。

 

● 卑弥呼の都と墓は、田川にある

卑弥呼の都と墓 (田川郡)
女王国
吉野ヶ里以上の環濠集落
香春から遠くない位置
卑弥呼の墓
『魏志倭人伝』「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」
直径百余歩=一四〇m~一五〇m
※ 神武の橿原宮(香春町高野)と畝傍
 東北陵(おほきんさん)のように
 かなり近い。
※ 田川郡内に発見されれば、福永説が
 確定する。

 卑弥呼は、火国=狗奴国との戦いに敗れたというのが私の説である。それで卑弥呼は亡くなり大きな墓を造り、殉葬した。
 先ほどの里から考えると徑百餘歩というのは、140m~150mの直径の円部を持つお墓であることが解る。

 

Google Earth「赤村大原」
横枕・大原地区の遺跡群
発見                
一部分の調査
 ・盛土した部分だけ遺跡
 ・工事中数々の土器盗難
 ・弥生時代の大きな集落
『郷土 我鹿
  文化財を訪ねて』 より
「横枕遺跡」
邪馬台国時代の環濠集落

 卑弥呼の都の候補地が、田川郡赤村の大原である。

 

謎の巨大前方後円型地形
Google Earth「赤村内田」

 昨年の3月21日に発表した卑弥呼の墓ではなかろうかという赤村内田にある前方後円墳型地形である。

 

大阪大仙陵古墳と赤村内田古墳型地形との比較

・墳丘長480m

「堺市の大仙古墳」

・墳丘長460m

「赤村内田の前方後円型地形」

 まだ発掘をしていないので古墳だと認められていないが、古墳であると認められれば、全長が460mあり、大阪府堺市に大仙古墳に次ぐ日本で2番目に大きな前方後円墳が、ここ田川に存在する事になる。

 

謎の巨大前方後円型地形
写真「赤村内田の前方後円型地形から出土した土器片」

 堀の跡も見えるし、造出しに当たる所からは、土器片も出土している。