「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 倭歌が明かす豊国の古代史
(平成三一年四月二七日(土)、主催 中津地方文化財協議会、於:サンリブ中津2F 研修室)より
■ 末盧國が宗像ならば、邪馬台国は田川にある
● 卑弥呼の国は、倭=邪馬台(やまと)国である
西暦200年、神武天皇即位から80年後に、卑弥呼が共立される。そして、卑弥呼は、西暦238年に魏の帯方郡に遣いを出す。
西暦240年に魏の遣いが、倭(やまと)国にやって来る。『魏志倭人伝』の原文は、「詣倭國」と書かれているから「やまとの国」である。「邪馬台(やまたい)国」ではない。
● 卑弥呼の邪馬台(やまと)国は、田川にあった
『魏略』に帯方郡から倭の女王国に至るルートが書かれている。對馬國、一支國、末盧國、伊都國。私は、伊都國は、「いつ國」と読んでいる。そこの長官が、爾支(にき)という。
『魏略』という本から楽浪郡から一万二千里というのが、帯方郡から一万二千餘里という誤解が生まれる。帯方郡からだと楽浪郡より千三百里くらい短くなる。
私が考えているルート図であるが、拘耶韓國から對馬國まで、一千里。次に對馬國から一支國まで一千里。さらに一支國から末盧國まで一千里であり、67.5km行かなければいけない。
しかし、通説では一支國から南の肥前の松浦へ行く。ここが九州王朝論でも言われた末盧國であるが、ここだと一支國から四百里少ししかない。
一支國から一千里は、東の方角に行った宗像が末盧國であると言ったのである。
卑弥呼が戦争していた国は、狗奴国であり火国である。肥前と肥後に分かれる前は、火国である。肥前の松浦は、卑弥呼の敵国である。そこへ行けば、捕まって殺される。
通説の学者たちは、その事も解らない? 魏使が敵国の松浦に行く訳がない。
三郡山地より東側が、豊国であるから末盧國が宗像に上陸し、『魏志倭人伝』に書かれている通りに陸路を伊都国・奴国・不弥国・邪馬台国と行ける。だから、邪馬台国は、田川だといっている。
邪馬台国の周りに21か国の衛星国がある。魏志倭人伝に書かれている。その中の邪馬國とある。最初からこれは、中津市の山国(邪馬(やま)国)だと疑っていない。これだけハッキリとした邪馬国が他にありますか?
奈良県の何処かに邪馬国という地名がありますか? 中津市だけである。したがって、中津市に邪馬国にあるのであれば、邪馬壹國は英彦山を挟んで北側の田川だというのが、福永説である。
また、この躬臣國とあるのは、「くじゅ」で、たぶん玖珠であろう。
● 卑弥呼の都と墓は、田川にある
卑弥呼は、火国=狗奴国との戦いに敗れたというのが私の説である。それで卑弥呼は亡くなり大きな墓を造り、殉葬した。
先ほどの里から考えると徑百餘歩というのは、140m~150mの直径の円部を持つお墓であることが解る。
卑弥呼の都の候補地が、田川郡赤村の大原である。
昨年の3月21日に発表した卑弥呼の墓ではなかろうかという赤村内田にある前方後円墳型地形である。
まだ発掘をしていないので古墳だと認められていないが、古墳であると認められれば、全長が460mあり、大阪府堺市に大仙古墳に次ぐ日本で2番目に大きな前方後円墳が、ここ田川に存在する事になる。
堀の跡も見えるし、造出しに当たる所からは、土器片も出土している。