「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 倭歌が明かす豊国の古代史
(平成三一年四月二七日(土)、主催 中津地方文化財協議会、於:サンリブ中津2F 研修室)より
■ 神武は山鹿の日向から出て、筑紫から第一次東征した
呉の人々がやって来た菊池・山鹿の土地から神武天皇が出てくる。神武天皇の父親である彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊がこの土地の出身だと解っている。
瓊瓊杵尊は、饒速日の弟である。瓊瓊杵尊は、筑紫側(糸島方面)に上陸している。その子に海幸彦と山幸彦がいて、その二人が争い山幸彦が勝つ。
勝った山幸彦が、どうも菊池・山鹿の土地にいたのではないかと思っている。その子が、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊で、神武天皇の父親である。
● 神武天皇の最初の妃が吾平姫、父の彦波瀲を葬った場所が吾平山陵である
神武天皇の最初の后が、吾平津媛という。山鹿市に吾平山という山がある。そして、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊が亡くなった時に「日向の吾平の山の上の陵に葬りまつる。」と日本書紀・神代紀に書かれている。
ここに書かれいる「日向」は、「ひゅうが」では無く「ひむか、ひむき」である。また、陵は、吾平山陵だと書かれている。
この吾平山の上に彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の墓があると日本書紀に書かれているが、明治時代になって薩摩が、天皇家との関りが欲しいという事で吾平山陵を鹿児島県肝属郡に持って行った。
権力争いである。明治時代になって、吾平山陵の場所が動いた。したがって、ここ山鹿市の吾平山陵が本物であると思っている。
● 神武天皇の第一次東征で長髄彦軍に敗れ、筑紫へ帰還する
山鹿市に日向(ひむき)村という所がある。神武天皇は、古事記に最初に、日向から筑紫に向かったと書かれているから、熊本県から博多湾に向けて北上するのである。
後八三年、お佐賀の大室屋(吉野ヶ里遺跡)を滅ぼして、糸島まで出ていく。
107年に倭国王帥升が、後漢の安帝に奴隷一六〇人を献した年が明らかである。そして、後に卑弥呼が魏の帯方郡に遣いを送った年が238年であるという事も解っている。
神武天皇が即位した年が、辛酉年と日本書紀に書かれているので、107年と238年の間の辛酉という干支は、西暦121年と181年の2回しかない。
魏志倭人伝に卑弥呼が共立されるまでに7、80年男王がいたと書かれているので、神武天皇の即位年は、自動的に西暦121年となる訳である。日本で始めて言ったが、中々認めてもらえない。
神武東征開始は、西暦114年である。日本書紀に岡水門に至ったと書かれている場所は、遠賀川の河口付近である。
115年に遠賀湾の遡り、長髄彦軍と交戦し敗れて、博多湾住吉神社近くの草香津に帰還する。草香津は、現在、大濠公園と呼ばれている所が、海であった時に草香江といって鎌倉時代まであった。
神武は、ここに帰って来た。
兄の五瀬命が亡くなる。五瀬と名前であるが、宮崎県北部を流れる五瀬川という川がある。五瀬命の出身地に関係する川であると思われる。
五瀬命を葬った場所の竈山は、大宰府の宝満山である。神武は、ここで3年間、再軍備をする。
これが、お佐嘉の大室屋である。佐嘉は、佐賀の事である。この地を滅ぼして、筑紫まで出て行った。