「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 倭歌が明かす豊国の古代史
(平成三一年四月二七日(土)、主催 中津地方文化財協議会、於:サンリブ中津2F 研修室)より
■ 饒速日の建てた国が、天満倭国 = 倭奴国である
饒速日が、紀元前一四年に降臨して建てた国が、天満倭國(てんまんわこく、あまみつやまとのくに)であり、イコール 倭奴国(いぬこく)である。
金印(漢委奴國王印)の読み方を明治時代の学者が、「かんのわのなのこくおういん」と詠んだ為にNHK等がその様に読んでいる。アホである。「いぬこく」である。
饒速日は、天物部八十氏を引き連れて遠賀湾沿岸に降臨してきて、素戔烏尊を倒した。そして、中洲皇都を建設した。
天物部八十氏は、『魏志倭人伝』の少し前に書かれた『漢書』あたりに「山島に居し、分かれて百余国を為す」とあり、山の上や島に住んだ。
これを『魏志倭人伝』の学者たちは、「山がちの島」というが、そのようには何処にも書かれていない。「山 アンド 島」である。
● 饒速日の次の天香語山命が、金印を受けた
饒速日の次が、天香語山命という。名前からして、天香山の麓に都を置いた王だろう。この人物が、紀元後五七年に漢の光武帝に遣いを出して、貰ってきたのが、「漢委奴國王印」の金印である。
したがって、「漢委奴國王印」の金印の国は、豊国にあったという事である。
後の神武東征により、この倭奴国は滅ぼされたので、金印を博多の方に持ち帰ってしまった。そして、江戸時代にひょこっと出てきた。
甚兵衛という百姓が博多の町で金印を売ろうとしていたが役人に捕まって、この金印は、博多の志賀島で見つけた事にしとけと言われ、命だけは助けてやると言われ無罪放免となったとの記録が残っている。
金印は、志賀島から出土したというのは、ウソである。志賀島からは出土していない。
● 樂浪郡から香春辺りまでの距離が、一万二千里である
漢の光武帝に遣いを出して金印を貰ってきた時の記録が、謝承後漢書に書かれている。大事なことは、樂浪郡から香春(天香山の辺り)までの距離が、一万二千里という距離である。
樂浪郡は、現在の北朝鮮の平壌である。
倭人(豊国の人々)は、何と紀元前千百年頃に成立した周という王朝に遣いを出していた。したがって、今から三千年近く前に里という単位を学んで帰って来ていたようである。
中国の文献を細かく見ていくと、1里は、67.5mとなる。その1里というのは、50歩である。
1里は、300歩では無く50歩である。孟子の中に「五十歩百歩」という諺がある。その五十歩であり、それが、1里である。
「五十歩百歩」を「一里二里」と言えば、大差の無い事で元々絶対数が小さ過ぎる。それで、孟子は、五十歩百歩と言ったが、実際の距離は同じである。梁の恵王してみれば、逃げたことにそんなに違いはないという事で「五十歩百歩」という諺が成立したと私は言っている。
だから、千里は簡単に千倍して、67.5kmとなる。本当にこの里で測ると、樂浪郡(平壌)から香春の辺りまでが、丁度、一万二千里になる。
67.5km掛ける12倍で、810kmと地図通りにぴったりである。
● 『翰苑』謝承後漢書にある神武天皇の前後の記録
西暦一〇七年に倭面上国王帥升という人物が、後漢の安帝に遣いを出している。奴隷を160人を献上したとある。
その後漢書に書かれている次の内容が、倭國大乱となり、相攻伐して、歴年主が無し。一女子が有り、名付けて卑弥呼と曰うとある。
さらに、卑弥呼が死に男王を立てたが、国中服さず。更に相誅殺す。卑弥呼の宗女、臺與、年十三を立てて王と為す、国中遂に定まる。
簡単に書かれているが、これが百数十年の間の出来事である。この間に神武天皇が邪馬台(やまと)国を建てる。