「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 倭歌が明かす豊国の古代史
(平成三一年四月二七日(土)、主催 中津地方文化財協議会、於:サンリブ中津2F 研修室)より
■ 吉野宮は、山国町吉野の若宮神社である
● 懐風藻の「吉野に遊ぶ」の場所は、山国町吉野である
『懐風藻』という日本最古の漢詩集がある。その中に「吉野に遊ぶ」という詩がある。その中の酒宴で柘枝姫(つげひめ)が、美稲(うましね)という男と情を交わしたという話がある。
この「吉野に遊ぶ」は、山国町吉野の漢詩だと思われる。
全部で八首あるが、そのもう一首ある「吉野川に遊ぶ」でも美稲(うましね)という男が出てきて「槎(いかだ)に逢ふ洲(しま)に留連す」とあり、美稲が仙女に会った。
美稲と仙女という組み合わせを覚えておいて下さい。
「美稲が仙女に逢った中洲に思いを繋ぐ」という詩を大宰大弐の紀朝臣男人という人物が読んでいる。
● 万葉集に「吉野」、「若宮年魚麿」とあり、山国町吉野に若宮神社がある
この美稲(うましね)に関して、人味稲(うましね)と字が違うが、『万葉集』にもある。字が変わっている柘枝仙媛(つみのえのやまひめ)という姫が登場する。
この倭歌が、三首ある。
この三首目の読み手にちょっと注目して下さい。右の一首は、若宮年魚麿(わかみやのあゆまろ)の作とある。
「吉野」、「若宮神社」、「若宮年魚麿」である。奈良県の吉野には、若宮神社は無い。
● 山国町吉野は、天の羽衣伝説発祥の地である
『続日本後紀』の嘉祥二年(八四九年)にある「野馬臺の歌」である。この歌の中にも吉野が出てくる。そこには、熊志祢(くましね)となっているが、次に「天女(あまつめ)の来り通ひて」と出てくる。
「毗礼(ひれ)衣 着て飛びにしと云ふ」とある。
実はここに出てくる天女、これは天の羽衣の話である。日本全国にある天の羽衣伝承の発祥の地が、ここ山国町吉野である。
私が『懐風藻』、『万葉集』、『続日本後紀』の組み合わせから考えると山国町吉野だという事になる。
ここ山国町吉野が、天女が降りてきた場所である。
日本全国にある天の羽衣伝説のひとつ「三保の松原」であるが、ここは、絶対に伝説の伝播した後の場所である。山国町吉野が、発祥の地である。
何故かというと海の水は、塩分でベトベトである。天女が降りてくるのに相応しくない。それに漁師がいっぱいいるから直ぐに見つかる。
ここ山国町吉野は、奥耶馬渓である。昔は、人が居なかったから天女が降りてくるのである。しかし、どういうわけか木こり、あるいは、山国川で漁をしていた美稲(うましね)だけが、天女を見つけた。
それで、天の羽衣を隠したから、天女は帰れなくなったので、結婚して子供ができた。その子供が、天の羽衣を見つけ出したので、天女は空へと帰って行くという話である。
その原形は、どう考えても山国町吉野の魔林峡辺りの話である。
かぐや姫の昇天、竹取物語も天の羽衣伝承のひとつの変形である。やはり天の羽衣を着て月の世界へと帰って行く。
その時には、かぐや姫はおじいさん・おばあさんとの生活をコロッと忘れて帰って行くという話である。
● 巨石がゴロゴロある若宮神社こそ「百磯城の」と詠われた吉野宮である
『萬葉集』の中に吉野の倭歌がいっぱい出てくる。これは、柿本朝臣人麿の倭歌であるが、吉野の国に宮殿がある。吉野の宮である。その倭歌に「百磯城の 大宮人は」と詠われている。
百磯城は、沢山の石の城であり、この若宮神社の方がピッタリである。写真のように沢山の石がありますね。奈良県の吉野宮の後には、全然、石の跡が無い。
柿本朝臣人麿の倭歌に詠われた吉野の宮は、絶対にこちら(山国町吉野)で詠われた倭歌である。
また、歌の中に「大宮人は 船並めて 朝川渡り 舟競ひ 夕河渡る」とあり、川に舟を並べて競争が出来たのである。奈良県の吉野川は、急流でちょっと行けば岩にぶつかり舟が壊れる。
絶対にここ山国町の吉野川である。持統天皇の時代まで、こちらの吉野である。『萬葉集』の吉野は、山国町で詠われた倭歌である。
これが、万葉集研究の私の結論である。ここ中津市は、吉野の宮と羽衣伝説の発祥の地である。