「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 倭国大乱は呉越の戦い⁉
 (令和元年10月6日(日)、久留米大学公開講座(郷土の民俗古代史 2019)より

 倭国大乱は呉越の戦い⁉

■ 邪馬台国までの道程と卑弥呼とは

● 『魏志韓伝・倭人伝』、『日本書紀 神功皇后紀』から割り出した
 卑弥呼の即位年は、西暦200年

・・・ 新羅本紀173年の記事は、干支が一巡狂っているとすれば、233年ではないだろうか。

卑弥呼即位から遣魏使
二〇〇(一九六~二二〇 建安年間)
  卑弥呼共立か。
(魏志韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀)
二三〇 「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲
  士万人を率ゐて海に浮び、夷州(推
  定狗奴国)および亶州(推定東鯷国
  を求む」
(三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
二三三 倭の女王卑弥呼、使を遣はし来聘す。
(新羅本紀一七三)
二三八 景初二年六月、邪馬臺國の女王(に
   して神武の後継者たる)卑弥呼、魏の
   方郡
に大夫難升米等を遣はす。
(魏志)
二四〇 魏使 邪馬台 国に至る
  正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁
  等奉詔書印綬 倭 

● 『後漢書』が近畿地方に「東鯷国」の存在を記録している
 倭国(邪馬台国)が、近畿にあるハズがない

・・・ 西暦220年に後漢が滅んだ後に魏・呉・蜀の三国に分かれる。日本列島には、豊国中心に倭国が、
   丹波・若狭辺り(近畿地方)に東鯷国があった。この事は、後漢書に書かれている。

    『三国志呉書』「孫権伝」の黄竜二年の記事にあるように西暦230年に呉の兵士1万人が、
   東鯷国に行った。そこで、5000人の兵士が脱走している。
    その直後にこの土地にあの有名な三角縁神獣鏡が出来た。近畿地方で作られた鏡で、卑弥呼が
   魏から貰ってきた鏡ではない。呉の職人が作った呉の鏡である。
    近畿地方(東鯷国)に女王卑弥呼がいた訳が無い。

卑弥呼の時代の東アジア
後漢時代の地図(朝鮮半島、西日本を含む)

 

・・・ 東鯷国(近畿地方)は、銅鐸文化圏である。

東鯷国とは?
「銅矛文化圏と銅鐸文化圏地図」
「銅鐸」
「銅矛」

銅矛文化圏
 (倭国)

銅鐸文化圏
(東鯷国)

 

● 三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏から貰ってきた鏡ではない
 東鯷国(近畿地方)で呉の職人が造った鏡、呉鏡である

・・・ 『後漢書』に東鯷人のことが書かれている。そこに秦の始皇帝の時代に方士の徐福が子供の
   男女数千人と東鯷国へ来たが、帰らずそこに留まった。その子孫が代々受け継がれ数万戸ある。
    その人々を兵士として連れてこいと孫権が命令して、の兵士1万人が東鯷国(丹波方面)に
   やって来たのが、西暦230年である。
    東鯷国(丹波方面)は、呉の国と違って平和そのものだったので、本国(呉)へ戻るは、嫌だと
   兵士1万人の半分の5000人が脱走した。
    そうすると三角縁神獣鏡圏が急にできた。歴史学者は何故、この呉の話をしないのでしょうか。
   『三国志』全部読めば解る。『魏志倭人伝』だけ読んではいけない。
    

後漢書 東夷伝 倭国
 會稽海外有東鯷人 分為二十餘國
又有夷洲及澶洲
「会稽郡の海外に東鯷人がいる。
 分かれて二十余国を作っている。
 また、夷洲と澶洲がある。
 こう言い伝えられている。
 秦の始皇帝は方士の徐福を派遣し、子供
 の男女数千人を率いて海に入り、蓬莱神
 仙を求めさせたが出来なかった。
 徐福は罪に問われるのをおそれ、敢えて
 帰らず、ついにこの島に止まった。
 代々受け継がれて数万戸がある。
 その人民が時おり会稽の市にやってくる。
 会稽東冶県の人で、海に入り、風に流さ
 れて澶洲に着いた者がいるが、所在地は
 あまりにも遠く、往来することはできな
 い。」

 

● 『魏志倭人伝』に書かれた女王国までの距離一万二千里は、帯方郡からではない
 陳寿が楽浪郡と帯方郡の位置をよく解っていなかった

・・・ 『魏略』で、帯方郡から倭に至るまでが、万二千餘里と書かれているが、違う。平壌とソウルの
   距離には、千三百里の違いがある。
    晋の陳寿が『魏志倭人伝』を書いた時に平壌(楽浪郡)とソウル(帯方郡)の位置がよく解って
   いなかったから、楽浪郡から一万二千里を帯方郡から一万二千里と書いてしまった。
    短里で考えても宇佐八幡まで行くのではないかという人も出てくるようになった。楽浪郡から
   一万二千里で田川止まりである。

    『魏略』には、對國、一國とあるが、12世紀の南宋の時代に出来た『三国志』には、
   對國、一國と誤植されている。邪馬臺(台)国とあるべき所も邪馬壹(いち)国と今(12世紀)
   の『三国志』には書かれている。
    古い時代(唐の時代)までの書物は、全て邪馬臺(台)国と書いている。徹底して中国の書物を
   見比べた結果見つけ出した。

    また『魏略』に末盧國の人は、「人善捕魚、能浮沒水取之。」と書かれている。最初に説明した
   越の人も「浮き沈みをする。入れ墨をする。水龍の害を避ける。」と書いてある。「今、倭人も亦
   文身して・・・」とあったのは、末盧國の人のことである。
    熊本(菊池・山鹿)=呉の人々は、目尻に墨をいれるが、文身しない。呉の人と越の人の大きな
   違いである。

    末盧國の人=越の人の居た場所は、宗像だと思っている。海人たち(男女とも)は、蛟龍の害を
   避ける為に文身していた人たちである。

帯方郡から倭・女王國に
分軄命官統女王而列部
 魏略曰、從帶方、循海岸水行、
暦韓國、到拘耶韓國、七十餘里、始度
一海、千餘里至對馬國。 其大官曰卑
拘、副曰卑奴。無良田、南北市糴。
南渡海、至一支國、置官至對同。方可
三百里。又渡海、千餘里至末盧國
善捕魚
能浮沒水取之。東南五百里、
伊都國、戸万餘、置曰爾支、副曰洩
溪觚柄渠觚。其國王皆統屬王女也。
文身點面猶稱太伯之苗
 魏略曰…自帶方至女國万二千餘里

 

● 神功皇后が滅ぼした「筑紫の末羅縣」が、卑弥呼の時代の末盧國である
 『古事記』仲哀天皇記の勝門比売から末盧國は、宗像以外にない

・・・ 4世紀、卑弥呼から120年後の氣長足姫尊(神功皇后)は、東鯷国(若狭方面)から出てきて、
   豊国を滅ぼし、豊国の新しい女王になった。
    神功皇后は、筑紫末羅県の勝門比売を滅ぼしたと『古事記』に書かれている。『古事記』は末羅縣
   『日本書紀』は松浦縣と『魏志倭人伝』の末盧國が書かれている。
    しかし、『魏志倭人伝』の専門の学者は、これを絶対に取り上げてくれない。筑紫末羅県は、古事記の
   仲哀天皇記に書かれている。
    この古事記の筑紫末羅県が、日本書記になった途端に、火前國松浦縣に変わる。古事記も日本書紀も
   8世紀の史官たちが作った。律令制の時代であるから筑紫と火前の違いは、分かるハズである。
    同じ土地を古事記では筑紫末羅県、日本書紀では火前國松浦縣となっている謎に誰も取り組まなかった。
   末羅県(松浦縣)が、筑紫から火前に移っただけと考えた。

    筑紫末羅県は、何処だろうと考えたら宗像しかなかった。何故かという決め手は、「勝門比売」という
   名前が古事記の仲哀記に神功皇后が石の上に立って鮎を釣ったとあり、その石の名前が、勝門比売という
   とある。
    勝門比売という名前は、日本書紀には一切出てこない。勝門比売とは、何者か?

4C氣長足姫尊の豊国征伐
 遠賀の地で物部氏を招集し、ニギタ津
(鞍手町新北)を出航

 筑紫末羅県(宗像大社・宮地岳神社周
辺)の勝門比売を滅ぼす

 美奈宜神社や平塚川添遺跡などに拠っ
羽白熊鷲を殲滅
 筑後川を渡って三潴を攻撃、桜桃(ゆすら)沈輪(ちんりん)
を滅ぼす。
 女山(ぞやま)神籠石に拠る田油津(たぶらつ)姫を討伐。
 豊・筑・火の三国(三韓)を征伐する。
邪馬台国滅亡
 三二一年、川崎町「帝階八幡神社(現
在の大海)」にて即位。

古遠賀湾

「古遠賀湾図」

 

・・・ 勝門比売を追いかけていった。
    糸島半島に宮地嶽神社がある。ここは、宗像の宮地嶽神社から江戸時代の終わり慶応年間に
   筑紫の末羅縣の勝門比売を勧請した神社である。執念です。20年近く掛けて見つけました。
    元を正せば、勝門比売は、宗像の宮地嶽神社の祭神であったが、宗像(筑紫末羅県)の勝門比売は、
   明治時代になって入れ替えられた。祭神が誰と入れ替わったかといえば、神功皇后である。
    神功皇后は、明治時代に物凄く大事にされた神様である。明治政府が目指した富国強兵に、
   『日本書紀』の中で連戦連勝で一敗もしなかったのは、神功皇后だけであり、軍神に仕立て上げた。
     明治時代の一円札の肖像に描かれている。戦前までは、お札に描かれた女性はただ一人
   神功皇后だけである。

4C氣長足姫尊の豊国征伐
※ 神功皇后は敦賀の気比の宮を出て、邪馬台国の
 王である忍熊王(先代旧事本紀に「熊坂王」、倭
 建命の孫に当たる)を入水自殺に追い込む。
  彼の屍を探したのは「草薙の劒」を入手するた
 めであった。
※ 筑紫の末羅縣(宮地岳神社とその周辺)勝門
 比売
を討つが、彼女こそ宮地岳神社の本来の祭神
 であろうと思われる。

伊都郡前原町の宮地嶽神社

「宮地嶽神」

 

● 末盧國が宗像であれば、そこから「東南陸行五百里」の所が伊都国
 その伊都国の津があった場所が、新北津である

・・・ 120年戻り、卑弥呼の時代の末盧國は、宗像の宮地嶽神社の辺りである。そうなると伊都国も
   通説とは違ってくる。
    新北津は、古遠賀湾が入り込んで良い港になっている場所である。ここに2回目以降の魏の遣いが
   やって来たようである。
    そこから卑弥呼の都との間の取り持ちを倭人が行ったと『魏志倭人伝』に書かれている。

      新北津跡 (鞍手町新北の交差点の近く)は、昔20~30m低くて今の田圃の所に海水が入って
   いた。地質学者が、ボーリング調査を行って、地下に海水と真水が混ざった汽水の跡がいっぱいある
   と確認されているそうである。
    ボーリング調査の結果作られた地図が、古遠賀湾の地図である。

魏志倭人伝
 女王国より以北には、特に一大率
を置き諸国を検察せしむ。諸国、之
を畏れ憚る。
 常に伊都国に治し、国中に於いて
刺史の如き有り。
 王使を遣はして京都・帯方郡・諸
韓国に詣らしめ、及び郡の倭国に使
するや、
に臨
みて捜露
し、文書・
賜遺の物
を伝送し
て女王に
詣らしめ、
差錯する
を得ず。
(中略)
「鞍手町新北」

新北津跡

 

● 魏志倭人伝の「海を千里渡る」とあるように対馬国、次に一支国に至る。さらに千里海を渡る
 東にある宗像は、ピッタリ70km前後あり、そこが末盧国である

・・・ 楽浪郡からの水路のルートは、朝鮮半島の海岸に沿って狗邪韓国に至り、そこから対馬国、
   一支国に渡り、そこから南に行くのでなく、東の末盧国(宮地嶽神社のある宗像)に行かないと
   いけない。
    これが、『魏志倭人伝』に「海を千里渡る」と書かれていることが、全てピッタリと約70km
   前後である。
    壱岐島から南の唐津市呼子に行くと、五百里にも満たない。また、海流とも合わない。

水行十日
地図「朝鮮半島から福岡県、魏使のルート(水行十日)」

 

・・・ 末盧國はどこか?
    宗像高女跡の今は、いせきんぐ宗像と呼ばれる  田熊石畑遺跡 である。

末盧國はどこか(福永説)
宗像市田熊石畑遺跡(宗像高女跡)
Google Earth「いせきんぐ宗像(田熊石畑遺跡)」

 

・・・ 宗像市教育委員会による発掘調査で、弥生時代の矛が多数出土している。また、船着場跡も
   推定されている。

末盧國はどこか(福永説)
「田熊石畑遺跡(宗像高女跡)」
「発掘」
「武器類」

田熊石畑遺跡

 

● 末盧国が宗像であれば、「東南陸行五百里」の伊都国へ無理なく行ける
 不彌国が、邪馬台国の玄関であれば、田川が邪馬台国になる

・・・ 宗像が、末盧國ならば、そこから東南陸行五百里、伊都国に至るとある。ここは、新北津の近くである。
   奴國は飯塚の辺り、不彌國は糸田町の辺りである。古田武彦氏が言うように不彌國が、邪馬台国の
   玄関であるならば、田川が邪馬台国となる訳である。
    このルートであれば、『魏志倭人伝』に書かれている末盧國から東南陸行五百里、無理なく行くことが
   出来る。
    通説の呼子(末盧國)から糸島(伊都国)へは、東南では無い。このルートだと見事に東南に五百里、
   約35km位行くことが出来る。

伊都国へ  東南陸行五百里
地図「魏使のルート図(末盧国から邪馬台国)」
「宗像市釣川」

 

・・・ 不彌國の候補地は、糸田町にある  大宮神社 である。

不彌国の候補地 大宮神社(宮山
「大宮神社」

 

・・・ 大宮神社のある宮山から弥生時代の土器が出土している。また、9本の銅戈(どうか)
   出土しているが、東京の国立博物館に入ったまま、現物を私も見たことが無い。

不彌国の候補地 大宮神社(宮山
「弥生土器」

上段左から
  弥生土器(鉢)
  弥生土器(壺)
  弥生土器(長頸壺)
下段左から
  弥生土器(甑底部)
  弥生土器(高坏)
  弥生土器(壺口縁部)

<中広形銅戈>

写真:「銅戈」

出土・国:福岡県田川郡
 糸田町下糸田字宮山出土
時代:弥生時代 後期
形状:長 38.7 関幅 11.8 
 身幅 7.0 茎長 2.9 茎幅 2.9
備考:重 512g

 

神功皇后の戦略と魏使の経路
地図「福岡県」

 ① 

 ② 

 ③ 

 ④ 

 ⑤ 

 ⑥ 

 魏使 

 神功 

 穴門(豊浦宮) 
 神功・足仲彦 

 邪馬台 

 御所谷 
 忍熊 

 武庫 

 岡 
 熊鰐 

 末羅 
 勝門姫 

 熟田 

 伊都 
 五十迹手 

 不彌 

 奴 
 (橿日宮) 

 足仲彦 

 層増岐野 
 羽白熊鷹 

 松尾宮 

 

● 香春神社の祭神、辛国息長大姫大自命は韓半島から戻ってきている
 香春ノ神が比売大神であるなら、卑弥呼は意富加羅国からの出戻りの姫

・・・ 香春神社の第一座の祭神、辛国息長大姫大自命は、ハッキリ言って、卑弥呼と神功皇后をごっちゃに
   した名前である。
    日本書記の神功皇后紀という巻の一番後に魏志倭人伝の内容が割注で書かれている。日本書紀自体が、
   卑弥呼と神功皇后を同一の条に仕立て上げようとしたようである。その意図は明らかである。

    辛国息長大姫大自命は、「神代ニ唐(韓半島)ノ経営渡ラセ給ヒ崇神天皇ノ御代ニ御帰国・・・」と
   書かれている。
    香春の古い時代の神が、ひょっとして比売大神であり、宇佐八幡にも祀られている比売大神であって、
   卑弥呼であるならば、ひょっとして卑弥呼は意富加羅(おほからの)国=伽耶(かや)から豊国に戻って
   きた出戻りの姫ではないか。
    それで、大物主神を祭って何とか倭(やまと)国を治めようとしたが、上手くいかなかったから、
   大田田根子を探し出し、鎮めた。卑弥呼は、大物主神の祀り方をよく知らなかったのではないかという
   仮説を今出している。

香春ノ神は
比売語曽神社!
「比売」社
   (語曽)


  

卑弥呼?
韓地に於ける大姫命
 「白石の玉」

倭三山(香春岳)
  白石の山
「香春神社」
「香春神社 祭神」
「香春岳」