「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 再発見 新発見 田川 川崎町は古代の京だった 神武・神功・應神の軌跡
 (令和元年十月二七日(日)、主催 豊の国古代史研究会 、於 川崎町勤労青少年ホーム )より

 川崎町は古代の京だった 神武・神功・應神の軌跡

■ 倭国大乱と崇神天皇 / 卑弥呼即位から遣魏使 / 卑弥呼の都と墓

 火山考古学の立場から言っても倭国大乱は、火山性ガス・火山噴火による人々の大半の死がもたらしたもので
あるというのと一致していく。

2世紀後半の噴火の特徴

 崇神紀には、5年の疫病大半の民の死や6年の淳名城入姫の
病から、火山ガスだけが噴出したように見えるが、この噴火は
マグマ噴火なので、最盛期は少し前で、西日本が気温が極小と
なる欠史八代の時代と一致
する。

図「気候変動」
図「噴火履歴」

 

 

 『西日本新聞 筑豊版』の「新説 日本書紀」で発表したものである。
 年代は、干支から割り出した。

 *.神明倭迹迹日百襲姫命が、卑弥呼と思われる。

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
崇神天皇
174年、祟神天皇即位。
178年、「国内に疫病が多く、民の
  大半が死亡する
。」
179年、「人民が流浪し、ある者は
  反乱した

  天皇は天照大神・倭大国魂(やまとおおくにたま)(=
  大物主神(おおものぬしのかみ)、二神を、宮殿内に共に
  祭り、(あまつかみ) (くにつかみ)に罪を請うた。」
180年春、「時に大物主神が神明(あまてらす)(やまと)
  迹迹日(ととび)百襲(ももそ)姫命(ひめのみこと)に憑いて、我を
  祭らば国は治まるであろうと告げ
  た
。神の教えのとおりに祭ったが
  霊験はなかった。」

 

 最初のお祈りは、ダメでした。
崇神がやって来た。また、天日矛は香春では、都怒我阿羅斯等だと思われる。

1~3世紀の避難民の流れ

2世紀末(193)大飢饉で倭人が千人余り、新羅に食を求めてきた
 伐休尼師今十年六月(中略)倭人大饑,来求食千餘人
                     (新羅國本紀)

崇神6年 百姓は流離/反乱
 物部氏の一部は近畿へ。開化天皇の一族の一部は丹波方面へ。
 ※後に、神功皇后は丹波から出て豊国を侵略(福永説)→第2部

・半島から倭国へ。倭国に王がいなければ、乗っ取りも可能。
 桓帝(146-167)から霊帝(167-189)の間,倭国は内乱状態で王が
 いなかった
 桓,霊閒,倭國大亂,更相攻伐,暦年無主.有一女子名曰卑弥呼,
                        (後略)(後漢書)
 崇神は火山活動が終わったと勘違いして、王になるために筑豊に
 侵入
したと思われる。
 新羅の王子、天日矛も恐らく王になるための倭国入りではないか。  

 

 

 卑弥呼の即位は、西暦200年である。この頃に崇神も都怒我阿羅斯等もやって来た。

卑弥呼即位から遣魏使
二〇〇(一九六~二二〇 建安年間)
  卑弥呼共立か。
(魏志韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀)
二三〇 「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士
  万人を率ゐて海に浮び、夷州(推定
  奴国
)および亶州(推定東鯷国)を求
  む」
(三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
二三三 倭の女王卑弥呼、使を遣はし来聘す。
(新羅本紀一七三)
二三八 景初二年六月、邪馬臺國の女王(に
  して神武の後継者たる)卑弥呼、魏の
  方郡
に大夫難升米等を遣はす。
(魏志)
二四〇 魏使邪馬台国に至る
  正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等
  奉詔書印綬詣倭國

 

 卑弥呼は香春で即位して、赤村の辺りに都を構えたのではないか。

卑弥呼の宮殿跡
横枕・大原地区の遺跡群
発見                
一部分の調査
 ・盛土した部分だけ遺跡
 ・工事中数々の土器盗難
 ・弥生時代の大きな集落
『郷土 我鹿
  文化財を訪ねて』 より
写真「遺物」
Google Earth「赤村大原」

<赤村大原>

 

卑弥呼の墓 (田川郡)
女王国
吉野ヶ里以上の環濠集落
香春から遠くない位置
卑弥呼の墓
『魏志倭人伝』「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」
直径百余歩=一四〇m~一五〇m
※ 神武の橿原宮(香春町高野)と畝傍
 東北陵(おほきんさん)のように
 かなり近い。
※ 田川郡内に発見されれば、福永説が
 確定する。

 

墓伝説と卑弥呼
 倭迹迹日百襲姫命が大物主神の妻と
なった。神は昼に現れないで夜だけ来
た。倭迹迹日姫は翌朝に神の麗しい姿
を見たいと言った。
 大神は翌朝姫の櫛箱(くしばこ)に入って居よう。
私の姿に驚いてはならないと答えた。
翌朝櫛箱を見ると麗しい小さな蛇がい
た。姫は驚き叫んだ。
 大神はたちまちに人の姿となって妻
に言った。「お前は私に恥をかかせた。
私はお前に恥をかかせてやる。」と。
神は空に上り三輪山に帰った。
 姫は仰ぎ見て後悔し、ドスンと座っ
た。すると箸に陰部をついて死んだ。
そこで大市に葬った。
 時の人はその墓を名付けて、箸墓と
いった。

 

   赤村の内田 460mもある前方後円墳がある。
   香春岳 は、本当に三輪の山である。奈良県の三輪山は、一輪しかありません。本物の三輪山は、香春岳である。

謎の巨大前方後円型地形
 この古墳の真北に大物主神の坐していた
三輪山(香春岳)がある。
Google Earth「赤村内田の前方後円型地形」