「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
川崎町は古代の京だった 神武・神功・應神の軌跡
■ 倭国大乱と崇神天皇 / 卑弥呼即位から遣魏使 / 卑弥呼の都と墓
火山考古学の立場から言っても倭国大乱は、火山性ガス・火山噴火による人々の大半の死がもたらしたもので
あるというのと一致していく。
2世紀後半の噴火の特徴
崇神紀には、5年の疫病で大半の民の死や6年の淳名城入姫の
病から、火山ガスだけが噴出したように見えるが、この噴火は
マグマ噴火なので、最盛期は少し前で、西日本が気温が極小と
なる欠史八代の時代と一致する。
『西日本新聞 筑豊版』の「新説 日本書紀」で発表したものである。
年代は、干支から割り出した。
*.神明倭迹迹日百襲姫命が、卑弥呼と思われる。
最初のお祈りは、ダメでした。
崇神がやって来た。また、天日矛は香春では、都怒我阿羅斯等だと思われる。
1~3世紀の避難民の流れ
・2世紀末(193),大飢饉で倭人が千人余り、新羅に食を求めてきた
伐休尼師今十年六月(中略)倭人大饑,来求食千餘人
(新羅國本紀)
・崇神6年 百姓は流離/反乱
物部氏の一部は近畿へ。開化天皇の一族の一部は丹波方面へ。
※後に、神功皇后は丹波から出て豊国を侵略(福永説)→第2部
・半島から倭国へ。倭国に王がいなければ、乗っ取りも可能。
桓帝(146-167)から霊帝(167-189)の間,倭国は内乱状態で王が
いなかった
桓,霊閒,倭國大亂,更相攻伐,暦年無主.有一女子名曰卑弥呼,
(後略)(後漢書)
崇神は火山活動が終わったと勘違いして、王になるために筑豊に
侵入したと思われる。
新羅の王子、天日矛も恐らく王になるための倭国入りではないか。
卑弥呼の即位は、西暦200年である。この頃に崇神も都怒我阿羅斯等もやって来た。
卑弥呼は香春で即位して、赤村の辺りに都を構えたのではないか。