「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
川崎町は古代の京だった 神武・神功・應神の軌跡
■ 新説日本書紀 神功皇后(豊国に戻り皇位を争う)
『日本書紀』では、神功皇后は、三韓征伐から帰還した後に 宇美八幡宮 で誉田別皇子(後の応神天皇)を出産したことに
なっている。
大海は、現在は「おおうみ」と読むが、音読みすれば「たいかい」と詠む。帝階は、「ていかい」と読むのではなく、
「たいかい」と読む。
帝を「たい」と読むのは、漢字の古い読み方で、唐の長安の西暦617年以降の都の読まれた発音ではない。漢の時代や
三国の時代の発音である。 帝階を大海(たいかい)と書き換えて、さらに後に「おおうみ」と詠ませたのであろう。
大坪もかつては、王坪と書かれていた。
『
宋史 日本国 王年代記 』に神功天皇とある。次の應神天皇の後に家来である 紀武内宿禰が書かれている。
その紀武内宿禰の別名が、藤(とう)大臣である。その藤大臣の事が久留米の 大善寺玉垂宮 や特に 高良大社 に
しっかりと残されている。
松野連系図(姫氏) は、倭王の系図である。その縢(とう)大臣(=紀武内宿禰)の後に讃・珍・済・興・武と
いう倭五王が久留米に現われている。
神功や応神は、田川にいる。家来の紀武内宿禰の子に続く五代は、久留米で倭五王として君臨している。
この大きな謎について、20年間悩み続けた結果、神功、応神、仁徳は豊国の王であり、倭五王は、筑後の王で
ある。福岡県の東西に2つの王朝があったとして、やっと自分を納得させた。
4世紀の噴火の特徴-2
香春町まで英彦山からまっすぐ北上していた狭井川が大量の
降灰で土石流が発生しやすくなった結果、英彦山からまっすぐ
北上してい狭井川が、河川争奪で赤村の所で東へ向きを変えた
のはこの時期と推定。
神功皇后は、筑豊で戦争はできたが子育てには向かないので、
被害の小さい筑豊側の久留米から北の端の宇美、そこで出産して、
応神が7歳になるまで香椎で過ごす。
それからショウケ越えで、筑豊に入り、池尻に腰を据え、即位。
その後、応神を即位させ、最後に磐余の若櫻宮に落ち着く。