「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
鷹羽の神々 -倭成す大物主-
■ 大国主の国造り / 大物主 / 大年神 / 田心姫命 / 英彦山豊前坊 / 大己貴神
©わかやま観光情報
久延毘古
山田の曽冨騰
伊弉諾尊の国生みのずーっと後に大国主がやっと国造りを始める。古事記の順では、そのようになっている。
ここに多邇具久(がまがえる)いう事には、久延毘古が知っているというので、久延毘古と尋ねると「此は
神産巣日神の御子、少名毘古那神ぞ。」とある。
大国主は、少名毘古那神と一緒に国造りをする。わかやま観光情報のこの絵では、少名毘古那は、小人として
描かれている。
山田うどん食堂のロゴに描かれているのは、山田のかかし。山田のかかしが久延毘古で、少名毘古那の名を教えた。
山田のかかしは、原文に山田の曽富騰(そほど)と書いている。英彦山の神様の近くの神様です。嘉麻市は昔の
山田市で、その山田のかかしである。そこに大国主が関わってくる。そして英彦山の三柱の神の一柱、神産巣日神の
御子、少名毘古那神と一緒になって大国主が国造りをする。
※(追記) 令和元年十一月二日(土)改訂版 鷹羽の神々 ---倭成す大物主--- より
大国主と一緒に国造りをしたのが、英彦山の3柱の神の1柱である神産巣日神の御子、少名毘古那神とある。
これはおかしい。
英彦山の4番目の神の比古遲神と同世代の神産巣日神の御子、少名毘古那神が一緒になって国造りをした訳である。
久延毘古というのは、山田の曽冨騰と『古事記』は書いている。山田のソホリ(雨に打たれた人という意味)は、
山田のカカシの語源である。
山田のカカシ、久延毘古は、どこに居たかというと嘉麻市の山田しかない。久延毘古は、動きもしないのに
よく物知りだつたという。
大国主の国造りの中に「倭成す大物主」が初めて出てくる。
もう一度順序を整理する。古事記、日本書紀では伊弉諾尊と伊邪那美命が国生みをしたそのずーっと後に
大国主が国造りをするという訳の解らない話である。
先ほどの「系図の謎」で大国主の子孫は、十七世とあった。
しかし、この後に天孫降臨が起きる。正哉吾勝勝速日天押穂耳尊の子、瓊瓊杵尊。その兄が、饒速日尊。
その彼らが筑豊に侵略してくる。全然系譜が合わない。
よく取り上げる『宋史 日本国』の伊弉諾尊や正哉吾勝勝速日天押穂耳尊は、天御中主からのずーつと後である。
更にそのずーっと後の大国主。それも十七世も続く系譜を備えた大国主が伊弉諾尊の後に国造りをしている訳が
無い。この謎を追いかけてきた。
ここにまた大穴牟遅が出てくる。少名毘古那と一緒に国を造ったとある。しかし、途中で少名毘古那神が
常世に行ってしまった。通説では、これで少名毘古那の神は死んだ。それで大国主が悩んで一緒に国を造って
くれる神がいないかと思ったら、海を光らして寄ってくる神がいた。
大国主が一緒に国造りをしようとした時にこの寄ってきた神が、言った言葉が「吾をば倭の青垣の東の山の
上に伊都岐奉れ。」
その神は、「此は御諸山の上に坐す神なり」とあり、どの解説書にもこれは「大物主」とある。
大国主と一緒に国造りをしている。 → 倭成す大物主
大物主も大国主と一緒に国造りをしているのが、20年間も悩み続けた理由である。何故?
世代が違いすぎる。
※(追記) 令和元年十一月二日(土)改訂版 鷹羽の神々 ---倭成す大物主--- より
「御諸山の上に」は、「みむろ山」ではありません。「みわ山」です。御諸山の上に坐す神は、明らかに
大物主だと言っている。ここにすでに「倭成す大物主」が表れて、『古事記』では大国主と一緒のような
書き方になっているが違う。一緒に倭の国を造っている大国主が、大物主を祀っている。
これも長い間、謎であった。
二
一
三輪山は、英彦山も可能性があるが、一番強く推すのは、香春岳である。綺麗に3輪の山である。
英彦山よりも綺麗な3輪の山である。
この香春岳と英彦山がまた綺麗に対応する。天忍穂耳命が英彦山から降りて香春二ノ岳に行こう
としたが、土地の神に嫌がらせを受けたから八人の童子かに命じて香春岳の草木を全部引き抜いて
帰って行ったとの話がある。それで石灰岩の山である香春岳は、平安時代までは真っ白な山だった。
大物主がどの山(岳)に居たかはわかりませんが、奈良県の三輪山は偽物である。
※(追記) 令和元年十一月二日(土)改訂版 鷹羽の神々 ---倭成す大物主--- より
三輪山といえば、この香春岳しかない。当然、大物主神が祀ってなければいけないが、現在、香春岳の
どこにもに祀られていない。
湏佐之男命の子、大年神が重要である。その子孫に、曽富理神が出てくる。添田の神様である。
大年神は、各地に稲穂を落とした別名、穂落としの神である。白鶴に化身とあるが、本当は、クヒ(鵠)で
あった。
「君が代」の原形は、古今和歌集の歌である。現在の政府は国家に制定する時に「いはほ」を「いわお」と
読ませて小さな石が大きな岩となって苔のむすまでと解釈したが、嘘である。「いはほ」は「石穂」である。
宮崎県高鍋町の大年神社では、海岸で洗われた丸い石を1年に1個拾ってきて積むそうである。積んで手が
届かなくなると新しい所に積み直すという事である。新年が巡ってくる度に新たに一つの石を奉納する。
さざれ石が、石穂となる石の穂積みである。
新しいさざれ石が、新珠(玉)の年という事になる。万葉集の和歌に出てくる「新珠の年」「新珠の春」の
枕詞とそれを導き出す言葉の関係になる。
実は「わがきみは 千世にやちよにさゞれいしの いはほとなりてこけのむすまで」の歌には、穂落しの
神がいる。ちゃんと書かれていませんがここにいる。
「こけのむすまで」子安神(こやすがみ)といって、子供の安産の神様。木花之佐久夜毘売とその姉の
石長苔牟須売神という姉妹神がここに暗示されている。
これは、普通の庶民がわが子が無事に産まれてきて、その子供が長生きしますようにと祈りを込めた歌
だったと思われる。
南九州では、20世紀まで新年に前の年に赤ちゃんを産んだお母さんは、赤ちゃんの代わりにご飯の中に
小さい石を混ぜて食べていたというそういう風習がある。また、若者が白髪頭で回ってお餅を配って歩くという
行事がある。つまり、お年玉である。この丸い石に大年神が宿ると年球になる。
明治の頃までは、お年玉といえば、丸いお餅だった。
なぜ、鏡餅が丸いのか。それは、この石穂の象徴である。鏡餅が飾られている間は、年神様が来ている。
これは、弥生時代に稲作が始まって人々の寿命が随分と伸びた頃の祝い事だった。
「こけのむすまで」は、1年に1個しか石を積まないから下の方に苔が生える。鏡餅の下に敷いてある
ウラジロは苔を表している。餅の上のダイダイは、子孫が代々栄えるようにと。
大年神は、五穀豊穣の神であり、大国主とか大物主とか系図から考えても深い関係にある。
※(追記) 令和元年十一月二日(土)改訂版 鷹羽の神々 ---倭成す大物主--- より
大年神は、穂落としの神で我々に稲を恵んでくださった神である。それで我々は、縄文時代から弥生時代に
なって飛躍的に長寿になったわけである。稲が伝来したことによって、栄養が豊かになってみんなが長生き
するようになった。
だから、われわれは、大年神から寿命を頂いて長生きできる。君が代の歌の中には、大年神が歌われている。
ここには、稲を思わせる葦牙と書かれている。その前に書かれている彦御山宝印の3羽の鷹を表す3柱の神は、
縄文時代の神である。 「次に」の後からが、筑豊(田川)の土地に稲作が始まった時の最初の神である。
この神が、比古遲神であるならば、大国主=大物主であるから、大国主と一緒に倭国を造った神である。
彦山縁起、正しくは、『彦山権現垂迹縁起抜書』という。
ここに権現(天忍穂耳尊)は、月神で渡来神と書かれている。地主神(大物主)が、権現に住所を譲った。
大物主の妃は、多紀理比売。3女神では無い。多紀理比売を連れて、糸田町とした許斐山に移った。
ここに、金光七年(576年)とある。金光は、失われた年号である。豊国には、金光七年という年号が
あった。
※(追記) 令和元年十一月二日(土)改訂版 鷹羽の神々 ---倭成す大物主--- より
彦山権現垂迹縁起抜書は、通称、彦山流記(ひこさんるき)という。
豊前州田川郡龍之鼻権現縁起に鷹羽郡の語源が書かれている。それが、白鳳の頃に田川郡と変わったとある。
地元の伝承は凄い。古事記や日本書紀に書かれていない事が沢山あって、古事記・日本書記が隠そうとした何かを
田川の伝承が補ってくれる。
豊日別国魂大神(大物主)の妻である豊日別婦=田心姫命は、第一乃郡に彦の山ある所にいたとあり、英彦山に
居たのであれば、大物主も英彦山に居た事になる。英彦山の神である。それが、比古遲神であるなら古事記 別天神
五柱の4番目の神、稲を伝えた神、大物主も英彦山の神である。
大物主が英彦山の神であることを古事記も日本書紀も徹底的に隠そうとしたようである。
糸田町に木実山に許斐神社がある。祭神は、大己貴尊=大国主命。英彦山北岳から宗像の金魚の東の許斐権現社に
移り祀られた。とあるから、英彦山→糸田→宗像と移っている。
沁泉(たぎり)の「沁」で「たぎり」と読む。田川の人しか読めません。田心姫(=多紀理比売)のことである。
田心の「心」→「必」に変わり、「田」→「氵」に変わった。だから「沁 たぎり」と読む。糸田町に間違いなく、
沁の土地に大物主と多紀理比売が祀られていたことの証だろうと考えている。
また、沁泉は、天智天皇が漏刻を作られた跡であるだろうとも言っている。
※(追記) 令和元年十一月二日(土)改訂版 鷹羽の神々 ---倭成す大物主--- より
鼠ヶ池木実山の祭神:大己貴尊=大国主命と書いているが、これも多分、大物主である。
英彦山から宗像へ移る途中にここに寄られた可能性がある。ずーっと解けなかったのが、この「泌(たぎり)」です。
「田心(たごり)」だとやっと解った。
「泌」は、「しみる」としか読めないが、この地では、「たぎり」としか読まない。木実神社に大物主神(大己貴尊)と
一緒に多紀理比売が居たからであろう。田心乃国(たぎりの国)であったからである。
推測であるが、「泌」を「たぎり」という。
この地から宗像の金魚山へ移って行った。宗像大社には本来、大物主が祀っていなければおかしい。多紀理比売だけ
では、ダメですね。夫婦であるから、大物主も祀られていなけばいけない。
宗像大社辺津宮は、女千木ではなく、いまだに男千木が使われている。今の宗像大社は、大物主神(大己貴尊)を
消していると言わざるを得ない。
大物主は、本当に英彦山から居なくなったのか?
高住(鷹巣)神社 に残っている豊日別大神が祀られているが、社伝は正式には、豊日別国魂神である。
実は高住神社の一番中心の神は、大物主である。
※(追記) 令和元年十一月二日(土)改訂版 鷹羽の神々 ---倭成す大物主--- より
高住神社の本殿は後ろの岩屋につながっている。岩屋に神がいる。その名前は、大穴牟遅である。
その山の名前は、鷹巣山という。
香春三ノ岳の麓にある古宮八幡宮も鷹巣山にある。だから、英彦山の鷹巣山と香春の鷹巣山は向き
合っている。山は英彦山、神は香春までほとんど同じ、これが田心乃国、鷹羽郡である。
社伝を抜き書きした。豊日別国魂神=大物主・・・豊前豊後の住民の守護神。
当然、五穀豊穣の神、牛馬の神と書いてある。つまり、我が国に最初に農業を伝えられた神である。
国造りをした相手である少名毘古那命もちゃんとこの神社の5番目に出てくる。禁厭(祈祷)医薬の神とある。
また、朝鮮から来たと書いている。
豊前坊天狗神として有名であり、この天狗の団扇は本来、鷹の羽である。八手(やつで)ではない。八手を
持った天狗は、位が低い。英彦山の天狗は、日本で一番暗いが高い。鷹の羽が団扇になる場合は、必ず奇数で
ある。この絵は、11枚の鷹の羽である。
※(追記) 令和元年十一月二日(土)改訂版 鷹羽の神々 ---倭成す大物主--- より
豊日別国魂神=大物主は、『古事記 別天神五柱』の4柱目の神という可能性が高い。
国造りをした少名毘古那命は、神産巣日神の御子であるから、宇摩志阿斯訶備比古遲神と兄弟か?義兄弟か?
ここに「大国主命と兄弟の誓いをなし」とあるが、大国主ではなく、大物主である。
彦山縁起に大己貴神が出てくる。大己貴神はこれ大和国大三輪の大明神なり。
平安時代の学者、大江匡房が書いた扶桑明月集で「日吉と大三輪大物主の神とはこの国の地主なり」とあり、
土地の神様である。
英彦山十二社権現曼荼羅には、2匹の猿が描かれている。「日吉」と「猿」といえば、あの中世の武将 豊臣秀吉を
思い出すでしょう。
豊臣秀吉の先祖もここの出身の可能性がある。田川の土地では位が低いから田川を攻めてきた時に英彦山を
攻めている。所領を奪おうとした。
その後の徳川家康が英彦山の所領を安堵した。これが添田の残る有名な伝承である。豊臣秀吉と徳川家康も
英彦山と関わっている。江戸時代までは、英彦山は安泰だったが、明治以降に坊が壊されて行った。廃仏毀釈で
英彦山神宮に置き換えられて衰退していった。
※(追記) 令和元年十一月二日(土)改訂版 鷹羽の神々 ---倭成す大物主--- より
「大己貴神更に田心姫命と湍津姫命を娶りて妃と為し」とある。田心姫命は、多紀理比売 である。不思議なことに
市杵島姫は、大己貴神の后ではない。
市杵島姫が単独で祀られているのが、安芸の宮島、厳島神社である。田心姫命(多紀理比売)と湍津姫命と
市杵島姫を宗像三女伸にしたのは、『古事記』『日本書紀』である。古い時代には、この三女伸はバラバラだった
はずである。