「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
白村江の戦いと壬申の乱
■ 壬申の乱
・・・ 天智天皇九年、倭国を改めて日本となる。この年は、三国史記 新羅本紀文武王十年で、西暦670年に
あたる。
翌年の天智天皇十年に、天智天皇は病気になった同じ内容の記事が、天武天皇摂政前紀には、天智天皇
四年と書かれている。また、天智天皇紀が十年で、天武天皇紀に、四年とあるのが、『日本書紀』である。
東宮(大海人皇子)が吉野へ行く時に見送った一人が、右大臣中臣金連である。漏刻を造った人物で
ある。
・・・ 嶋宮は、大任町島台だと思われる。島台から移ったのが、今の 安永神社 である。
・・・ 大海人軍が、初めて大勝する。
「上中下の道に当てて駐させる。将軍は中つ道へ。」、この「中つ道」は、香春町中津原の所。
『日本書紀』の「上中下の道」を通説の学者は、解らなくて奈良県桜井市を南北に通る道だ
としているが、豊国説を唱えているので、「上中下の道」といえば、田川(遠つ飛鳥)と京築
(近つ飛鳥)を結ぶ道だとかなり前から想定していた。
北と南のどちらが上で、どいらが下かが解らなかった。田川の地に研究所を構えるようになり
調べていたら、ある日ひょいと解った。
上赤は英彦山側、下赤は英彦山より遠い方。田川地区では、上が南側で、下が北側になる。
上田川、下田川。田川の土地だけ特別である。日本全国と全然合わない。東京に向いている訳
でもない。大宰府を向いている訳でもない。英彦山に向かって、近い方が上になる。
英彦山に向かって、「上つ道」と言へば、大坂。「中つ道」は、中津原。「下つ道」は、
たぶん味見峠辺りだと考えている。
その「上つ道」で大坂から下ってくると赤村の小柳辺りになる。
「上道に当たって、箸陵の下で戦う」この時に大海人軍が大勝ちしたとある。その箸陵が、
赤村内田の前方後円墳形地形であれば、壬申の乱の決戦の地は、赤村だった。
そこは、遠つ飛鳥の地であった。
「箸陵」が、『日本書紀』で出てくるのは、「崇神天皇紀」と「天武天皇紀」の2ヶ所だけ
である。その崇神天皇紀に登場する倭迹迹日百襲姫が卑弥呼とすれば、その箸墓が卑弥呼の墓に
なる。
天武天皇紀の壬申の乱の決戦の地が、「箸墓の下」とあり、そこは巨大前方後円墳型地形が
ある 赤村の内田(小柳) である。
だから、壬申の乱も豊国で起きている。
・・・ 「
左中津道 」の道標が残されている。この道は、仲哀峠を越えて京築の中津村(大分県の中津では
ない)に至る。
・・・ 大友皇子は、中間市の宮へ逃げようとするが、諦めて山前(小竹町)で首を括って死んだ。
『扶桑略記』には、天智天皇は、山の中に入って帰ってこなかった。靴だけ落ちていた所を
山陵とした。そこが、山科陵である。
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・・・ 「靴だけ残した」という。 宗像市の織幡神社 の境内に今も武内宿祢の沓塚がある。
しかし、武内宿祢の墓は、ちゃんと高良大社の奥宮にあるので、織幡神社の所で亡くなった訳ではない。
であれば、これは、天智天皇の沓塚となった。
この織幡神社の突端の海に入水自殺したのではないだろうか?天智天皇と天武(大海人皇子)は、
直接戦った間柄で、天智天皇は病死ではない。万葉集からも事実が浮かび上がる。
この場所は、昔から自殺の名所で、海流が複雑な為に、遺骸がなかなか上がらない。沈んだら敵には
捕らえられない。だから、后も天智天皇の遺骸には、会えなかったようである。
・・・ 148番歌に、大后が「直接には天皇にお逢いできない」(遺体を目にすることができない)と
詠われている。
153番歌に、「鯨魚取り 淡海の海を」とあり、琵琶湖で鯨は絶対に捕れない。近江大津宮の
場所も滋賀県の大津ではない。この歌は、玄界灘の歌である。
壬申の乱は、豊国で起きている。
万葉集のこの大后の歌から言えば、どう考えても天智天皇は、入水自殺をしている。
扶桑略記から言っても、靴だけ残している。今も何故か知らないが、靴をそろえて入水自殺を
する。
・・・ 近江朝の役人として、右大臣中臣連金(金連では無く、連金となっている)一人だけ斬首されている。
後は、配流と非常に穏やかな罪である。これも壬申の乱の大きな謎である。
天武天皇は、壬申の乱の後に国をまとめ上げていく為に、近江朝の家臣たちを大事にしたという事で
ある。天智天皇の一番の腹心であつた漏刻を造った右大臣中臣金連だけを処刑したとなっている。
・・・ 天武天皇は、壬申の乱で勝利した後に倭国東朝の宮、岡本宮に入る。 赤村の光明八幡神社 である。
・・・ 岡本宮の南に飛鳥浄御原宮に遷るとあり、岡本宮が光明八幡神社だとするとちょっと方角が
ずれているが、赤村大原としか解らない。ここは、卑弥呼の都(宮殿)の跡であり、天武天皇が
遷ってきた遠つ飛鳥浄御原宮の地と想定している。
・・・ 飛鳥浄御原宮は、赤村の大原である歌が、万葉集(103番歌、104番歌)に残されている。
鎌足の娘の藤原夫人の歌である。名前が、大原大刀自である。
万葉集に詠われた「大原(おおばる)」が、赤村の大原であれば、飛鳥浄御原宮は赤村大原にある。
決して、京都の大原ではない。
京築に雪が降る時は、赤村が先に降る。行橋の方が後だという。気象条件もこの萬葉集で詠われた歌と
ピッタリである。
ここには、貴船神社がある。その貴船神社の闇龗(くらおかみ)=(龍神)が、降らせた雪が砕けて、
行橋で散っていると詠っている。
・・・ 壬申の大乱は、豊国で起きた。
● 倭国本朝と倭国東朝の2つの王朝の存在を『旧唐書』が証明
・・・ 「日本國者,倭國之別種也」は、天智天皇が国号を日本を換えた国は、倭国とは別種である。
その日本国を天武天皇が奪い取る。
「日本舊小國,併倭國之地。」は、日本は、元小国で、倭国の土地と併せた。
天武以後、「其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。」は、その人、入超する者が
自ら強大で実をもって答えず、(かつての倭国・日本国の歴史事実を答えない)と言っている。
だから、中国は、これを疑うと書いている。
これが『旧唐書』に残っている。