「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
白村江の戦いと壬申の乱
■ 舒明、皇極天皇(蘇我氏の滅亡)
● 倭国東朝(豊国) 聖聴元年(六二九)、舒明天皇即位。二年(六三〇)飛鳥岡本宮に遷る
・・・ この舒明天皇が、天智天皇の父親。『日本書記』では、天武天皇の父親にもなっている。
この時代は、蘇我氏が天下を牛耳っていた。みやこ町が、蘇我氏の拠点の基盤であり、
そこで覇を唱えていた。
舒明天皇は、その蘇我氏が嫌いであったようであり、それで田川の飛鳥に戻ってくる。
その場所が、赤村岡本にある光明八幡神社(飛鳥岡本宮跡)であると思っている。
舒明天皇は、京築を離れて、田川に戻っていた天皇である。舒明天皇の子が『日本書紀』
では、天智・天武となっている。
● 倭国東朝 三年(六三一)~五年(六三三)。八年(六三六)田中宮に遷る
・・・ 三年の「義慈王が王子の豊章を質として送る」とあるのは、これは、倭国本朝での出来事で
ある。この時に百済を応援していたのは、筑紫側(倭国本朝)である。
舒明天皇は、一貫して田川側に居る。八年の「田中宮に遷る」とあるのが、田川市伊加利に
ある岩亀八幡神社だと思う。舒明天皇は、田川の地であちこちに都を遷る。
田川市史の岩亀八幡神社の由緒には「舒明天皇の時代に始まった」とある。舒明天皇の宮跡で
ある。
● 倭国東朝 十年(六三八)~十二年(六四〇)。十三年(六四一)舒明天皇百済宮に崩御
・・・ 奈良県の法起寺金堂が建てられていたのは、
上坂廃寺 であること判っているが、今となっては
何処にあったのか判らない一番知りたいのが、百済大寺である。大建築である九重塔が建てられて
いたという。
何処にあったか気が付きませんかね!!仕方が無いので、ここでは田原遺跡附近と書いている。
十三年(641年)に舒明天皇が百済宮で崩御するこの時に、東宮開別皇子(後の天智天皇)が、
16歳だったと『日本書紀』にハッキリと書かれている。
● 舒明天皇の滑谷岡陵
・・・ 舒明天皇は、滑谷岡陵に葬られたとあるので、赤村の光明八幡神社の所から北の位置にある
滑(なめら)という土地があり、ここの古墳に3基あるいずれかの古墳が、舒明天皇が眠ったお墓で
あろうと思われる。
後に改葬されており、改葬された先が大任町にある建徳寺1号墳ではないかと睨んでいるが、
まだ証拠が見つかりません。
● 皇極天皇の即位
・・・ 舒明天皇の皇后であった寶皇女が、皇極天皇として即位する。古人大兄皇子も中大兄皇子も
即位しなかった。この事は、蘇我氏が操った結果かどうかという事は、『日本書紀』には書かれて
いない。推測するしかない。
● 皇極天皇が遷った飛鳥板蓋宮は、蘇我氏の拠点の基盤としている近つ飛鳥の地
・・・ 二年に飛鳥板蓋宮に遷る。赤村が遠つ飛鳥、みやこ町・行橋市が近つ飛鳥であると思っている。
豊国には、2つの飛鳥があり、近つ飛鳥が行橋側で遠つ飛鳥が赤村側である。
この事を考えると飛鳥板蓋宮は、東九州自動車道に埋まってしまった福原長者原遺跡であると
思われる。
蝦夷・入鹿が家を建てた甘樫丘(うまかしがおか)は、馬ヶ岳であり、中世には図のような立派な城郭が
建っていた。
図の東の丸の所が蝦夷、その下にある二児神社の所が入鹿の屋敷跡ではないかと推測している。
しかし田川・京筑は、言うまでもないが調査の為の発掘は行わないので、未だに中世の城跡・神社
跡となっているが、たぶん焼けた跡が出てくる。炭素の層が出てくる。
● 福原長者原遺跡が、飛鳥板葺宮跡
・・・ 福原長者原遺跡の発掘された時から3年間毎年通いました。礎石は発掘されたが、瓦が出て
こなかった。木材も出れ来なかった。礎石だけ出てきた。3年通ってもこの遺跡からは、瓦が
出てこなかったので、板葺宮だと気付いた。
京筑の廃寺と呼ばれるお寺からは、新羅様式とか百済様式と呼ばれる瓦が、必ず出土される。
しかし、この遺跡は官衙跡であるが、瓦が出土されないので、飛鳥板葺宮跡であろうと思った。
● 福原長者原遺跡は、飛鳥板葺宮跡であり、後の藤原宮跡
・・・ この平面図の小さい内側の赤線で囲まれた範囲が、飛鳥板葺宮跡。大きい赤線で囲まれた
範囲が、後に天武天皇と持統天皇が一緒に遷った藤原宮ではないだろうか。
実際にこの遺跡を発掘した考古学の先生が、この遺跡を「藤原宮だ!」とご自身が一瞬
舞い上がったという。何故かというと奈良県にある藤原京と寸法が全く同じであった。
1センチくらいしか違わないと本人が行橋の講演で話されていた。
● 西暦645年に乙巳の変が起きる。この後、皇極天皇は皇位を譲る。『日本書紀』通り
・・・ この時に飛鳥板蓋宮の大極殿十二門に氏族の名前が付けられた。
・・・ 宮城十二門の一覧の一番古い「弘仁式」は、氏族の名前が載っている。この名前が平安時代の
「延喜式」になると綺麗に二文字の名前に変わってしまう。
・・・ 奈良県桜井市の談山神社に残された絵巻の中にある入鹿暗殺の場面であるが、様式から江戸時代で
ある。この絵巻は、中大兄皇子が入鹿を切り殺しているが、実際は、氏族の一人(正体のわからない
韓人(からひと))が、入鹿を切り殺している。
● 蝦夷と鞍作(入鹿)は墓に葬ることが許された。その双墓が三ツ塚古墳
・・・ 入鹿が暗殺され、父親の蝦夷は自ら屋敷に火を放ち自害して果てていく。何故か皇極天皇は、優しい人か
蝦夷・入鹿二人を墓に葬ることを許した。その墓を『日本書紀』は「双墓」と書いてある。この墓は、二つ
セットで並んでいるという。
馬ヶ岳が、蝦夷・入鹿親子の屋敷が建てられた甘樫丘であるとすると、お墓もその近くにあると考えれば、
旧犀川町(みやこ町)に三ツ塚古墳がある。
三ツ塚古墳の1号墳がちょっと大きく、2号墳はやや小さいが、石室の向きが全く同じで、墳丘の大きさも
大体同じである。3号墳だけ石室の向きが少し違う。
1号墳が蝦夷、2号墳が入鹿の墓であると思うが、現在は、1号墳の跡が見えるだけで、2号墳・3号墳は
既に削られて無くなっている。
・・・ 三ツ塚古墳は、石室古墳である。だから、天井も壁も大きな石で覆われていた。奈良県明日香にある
石舞台と同じくらいの大きな石室であったが、何故か壊されて残っていない。
写真の通りのわずかな石のみである。みやこ町の博物館の館報でも石材採取が目的の盗掘であったか?
と報告が出されている。