「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 第14回古代史講座古代田川を解き明かす
  記紀はなぜ鷹羽の神々を隠したか  ‐壬申之大乱との関わり‐
 (令和元年12月8日(日)、主催 田川広域観光協会古代史研究会 、於 福岡県立大学 大講義室)より

 記紀はなぜ鷹羽の神々を隠したか  -壬申之大乱との関わり-

■ 白村江戦前夜/白村江戦/白村江戦後

● 水城は、白村江戦の前(西暦657年)に造られている

・・・ 日本書紀の天智天皇紀に漏刻を造ったという記事がある。その漏刻跡 糸田町の沁泉 という
   場所にある。そこの石板に天智天皇七年に造られたと書いてあるが、日本書紀では、斉明天皇六年と
   天智天皇十年の2ヶ所に出てくる。
    漏刻を造った年の違いが、3つある。
    これは、なぜかを考えた結果、日本書紀の天智紀・天武紀・持統紀には、大きくは七年のズレ、
   細かくは一年のズレが記事があるとわかった。

    それを整理した結果で出来事の年を表記した。日本書紀の水城が造られた天智天皇三年は、
   西暦六五七年となる。
    水城は、羅城の一部である。したがって、白村江の戦いの前に造られている。  
    戦争になることを予測して先に都(大宰府)を守る水城(羅城)を造った後に、戦かいに
   出かけた。
    その人物が、日出処天子(阿毎多利思比孤)の孫と思われる「筑紫君薩野馬」である。

日出処天子の孫「筑紫君薩野馬」
            水城を造る
① 天智三年(六六四 → 六五七
 是歳、於對馬嶋壹岐嶋筑紫國
等置。又於筑紫築大堤貯水、名曰
水城
写真「水城大堤之碑」
絵「水城」

倭国本朝が
白村江戦前に
築いた「水城

 

● 大宰府の都を守る羅城の一部が、水城である

四、白村江戦前夜~壬申の乱
ブラタモリ「大宰府の羅城」

 

● 筑紫君薩野馬が唐の捕虜となったのは、白村江戦前の西暦660年である

・・・ 筑紫君薩野馬は、白村江戦の時ではなく、唐の年号の顯慶五年(660年)の百済が最初に降伏した時に
   一緒に捕らえられた酋長五十八人」の中の一人であったようである。
    唐の年号、顯慶五年(西暦660年)に長安の都に連れていかれ監禁された。

日出処天子の孫「筑紫君薩野馬」
          唐の捕虜になる
 永徽六年,新羅訴百濟、高麗、靺鞨取北
境三十城。顯慶五年(660),乃詔左衛
大將軍蘇定方爲神丘道行軍大總管,率左衛
將軍劉伯英、右武衛將軍馮士貴、左驍衛將
軍龐孝泰發新羅兵討之,自城山濟海。百濟
守熊津口,定方縱擊,虜大敗。王師乘潮帆
以進,趨真都城一舍止。虜悉衆拒,復破
之,斬首萬餘級,拔其城。義慈挾太子隆走
北鄙,定方圍之。次子泰自立爲王,率衆固
守,義慈孫文思曰:「王、太子固在,叔乃
自王,若唐兵解去,如我父子何。」與左右
縋而出,民皆從之,泰不能止。定方令士超
堞立幟,泰開門降,定方執義慈、隆及小王
孝演、
酋長五十八人送京師,平其國五部、
三十七郡、二百城,戶七十六萬。
(新唐書・百済)

 

● 倭国東朝の天智天皇が即位した西暦661年は、筑紫君薩野馬が捕虜となった翌年である

倭国東朝 白村江戦前夜
② 天智天皇七年(六六八 → 六六一)春正月丙戌
 朔戊子(三日)に、皇太子即天皇位す。
 或本に云はく、六年の歳次丁卯の三月に位に
 即きたまふ。
 是歳、沙門道行、草薙剣を盗みて、新羅
逃げ向く。而して中路に雨風にあひて、荒迷
ひて帰る。
※ 福岡県鞍手郡鞍手町中山の八剱神社に同じ伝承
 があり、草薙の劒はこの宮に保存されていたと
 の言い伝えがある。近くの古物神社にも草薙の
 劒が降って来たとの伝承がある。
  したがって、新羅の僧(天智の間諜)が大宰
 府から盗み出し、豊国に取り返したか

 このおかげで名実ともに天智は天皇位に即いた
 か。

 

● 天智天皇は即位した西暦661年に都を近江大津宮に遷す

・・・ 天智天皇の近江大津宮は、 糸田町の大宮神社 である。
    『海東諸国紀』にある「斉明七(六六一)年辛酉、白鳳と改元・・・」の年と思われる。
    その同じ661年に「六月晦大祓」を創作したとされる中臣金連が、須弥山漏刻
     糸田町沁泉 に造った。善徳女王が造ったとされる新羅慶州の瞻星台の2倍くらいの大きさの
   物が丸い池の方に造られ、横の四角い池の所に漏刻が造られたと思われる。
    わが国で最初の水時計は、糸田町に出来た

倭国東朝 白村江戦前夜
③ 天智天皇六年(六六七 → 六六一)春三月辛酉
 朔己卯(十九日)、都を近江大津宮(糸田町大宮
 神社)
に遷す。
『海東諸国紀』
 斉明七(六六一)年辛酉、白鳳と改元し、
都を近江州に遷す。
④ 天智天皇七年(六六一)秋八月、右大臣金連
 公によって須弥山・漏刻(糸田町泌泉)が造営
 された。
写真「大宮神社」
写真「大宮神社から香春岳を望む」

 

倭国東朝 白村江戦前夜
        須弥山を築く
新羅慶州の瞻星台+泌泉
  瞻星台 高さ9.17m
  地上部の直径5.17m
韓国でも須弥山とする説がある
合成写真「沁泉+慶州瞻星台」

 

倭国東朝の天智天皇 漏刻を築く

 日本における時刻のはじまり 天智天皇の7年 4月25日に
始めて漏刻を新しい台に 設置して鐘鼓を鳴らして時を告げた
との「日本書紀」の記述が、日本における最古の時報の記録と
なります。 ( 太陽暦に直すと西暦661年、6月10日。)

写真「沁泉」
絵「漏刻」

 

● 西暦663年、白村江戦に倭国本朝が敗れる

・・・ 倭国本朝の筑紫君薩野馬は、唐の長安の都で捕虜のまま白村江戦の敗戦を知る。
    この白村江戦のおもしろい記録が、朝鮮・中国に残っている。倭軍は、1000艘の船で出かけて
    行ったが、唐軍と戦ったのは、400艘で、ことごとく沈められた。
    ところが、残りの600艘は傍観していたと 書かれている。戦わずそのまま帰ってくる。

白村江戦(倭国本朝・東朝)
⑤ 天智二年(六六三年)秋八月壬午朔
 戊申(二十七日)倭国本朝、白村江に
 敗戦。筑紫君薩野馬、唐の捕虜のまま
 敗戦を知る。
絵「白村江の戦い」

 

● 白村江戦の軍団印が、「御笠団印」と「遠賀団印」である

・・・ 白村江戦に出掛けていった軍団の印が大宰府から出土されている。「御笠団印」と「遠賀団印」と
   いう銅印である。
    「御笠団印」の側が、戦って沈めれられた400艘で、天智天皇に限りなく近い「遠賀団印」側の
   600艘は戦わずして帰ってきた。
    したがって、天智天皇は、白村江戦で負けていない。唐・新羅の同盟国である。

白村江戦(倭国本朝の遺物)
「大宰府 条坊図」

「御笠団印」の出土地

銅印〈印文「御笠団印」)

「遠賀団印」の出土地

銅印〈印文「遠賀団印」)

 

● 唐の捕虜となっていた筑紫君薩野馬が、白村江敗戦の翌年664年に帰朝

・・・ 白村江戦の翌年の664年に捕虜となっていた筑紫君薩野馬が帰ってくる。
    日本書紀では、天智天皇四年と天智天皇十年に唐軍の同じ人物の記事が出てくる。
   海外国記では、天智天皇三年となっている。664年である。

白村江戦後
      筑紫君薩野馬
 帰朝
⑥ 天智四年(六六五 → 六六四
 秋九月庚午朔壬辰、唐国、朝散大夫沂州司
馬上柱国劉徳高等を遣す。等謂、右戎衞郎將
上柱國百濟禰軍朝散大夫柱國郭務悰、凡二
百五十四人。七月廿八日至于對馬、九月廿日
至于筑紫、廿二日進表函焉。
 海外国記曰、天智天皇三年四月、大唐客
来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰等卅人・
百済佐平禰軍等百余人、到対馬
天智十年)十一月甲午朔癸卯、對馬國司、
遣使於筑紫大宰府、言「月生二日、沙門道久・
筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人、
從唐來曰『唐國使人郭務悰等六百人・送使沙
宅孫登等一千四百人、總合二千人乘船卌七隻、
倶泊於比智嶋、相謂之曰、今吾輩人船數衆、
忽然到彼、恐彼防人驚駭射戰。乃遣道久等
預稍披陳來朝之意。』」

 

● 筑紫君薩野馬の名前は、『日本書記』から帰ってきた途端に消える

・・・ 筑紫君薩野馬とこの時に一緒にやって来た百濟の禰軍という人のお墓が西安(かつての長安の都)の
   郊外から見つかっている。その百濟の禰軍は、香春の地までやって来たらしい。
    「冬十月に大きに菟道に閲す」とあり、閲兵している。天智天皇が戦争で勝った側の唐の軍隊を
   閲兵しているというこの一行の記事が解けなかった。
    何故、負けた側の天皇が、勝った側の軍隊を閲兵できるのか? 天智天皇側は、唐・新羅と同盟して
   いた。大宰府(倭国本朝の都)は、占領された。

白村江戦後
      筑紫君薩野馬
 帰朝
⑦ 天智四年(六六五 → 六六四
 等謂、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍朝散大夫
柱國郭務悰
、凡二百五十四人。七月廿八日至于
對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。
※ 『大唐故右威衛將軍上柱國 祢公墓誌銘』
( 禰軍 六七八年没)

 (六六〇)
 官軍の本藩
 を平らぐる
 日
、機を見
 て變を識り、
 劔を杖つき
 歸は、 由余の戎を 出づを知るるがご とく、金磾
 の漢に入るがごとし。 聖上嘉歎し、擢んづるに
 榮班を以てし、右武衛滻川府析衝都尉を授く。
 時に日本の餘噍、扶桑に據りて以て誅を逋れ、
 風谷の遺甿、盤桃を負ひて阻め固む。(後略)
※ 冬十月己亥朔己酉(十一日)、大きに菟道(香春
 阿曽隈社)に閲す(閲兵した)
(日本書紀)
「祢公墓誌銘」

 

● 田川の地、赤村の琴弾瀧にも天智天皇の伝承が残されている

・・・ 紀元千三佰拾年の頃、天智天皇が来られている。
    そこで、「命婦石川色子と琴の名手季氏が、別れの秘曲を奏した」とある。香春町の
   菟道宮 阿曽隈社 )から赤村のこの琴弾瀧に唐の兵士と百濟の禰軍を連れてきている。

白村江戦後
      筑紫君薩野馬
 帰朝
⑧ 天智四年(六六五 → 六六四
琴弾瀧の由来 (標石) 
 紀元千三佰拾年の頃、天智天皇御西下豊前の
国に御立寄の節
 ある日此の瀧に御遊覧あらせ
られ瀧の側に御休みの時、天皇の御心を慰め奉
らんと天女が天下りて琴を弾いたので天皇の叡
感斜めならず「琴弾瀧」と御命名遊された。
 其後命婦石川色子琴の名手季氏と共に此の瀧
の岩上に坐し別れの秘曲を奏した所、余韻嫋嫋
として瀧に感応し、其音澄んで琴の如くありし
ため、それ以来一段此の瀧の名を発揮したり
写真「琴弾瀧(赤村)」

 

● 筑紫君薩野馬が、後の天武天皇である

・・・ 日本書紀でいきなり消えた筑紫君薩野馬が、天智天皇三年の記事に大皇弟として登場した
   大海人皇子ではないか?
    大海人皇子、後の天武天皇は天智天皇の弟ではない。役職名としての大皇弟と書かれている。
   かつてのナンバー2の天智にもとナンバー1の天子(筑紫君)が、弟の身分で一緒に政治を執った
   ということである。
    この事を一般には、大皇弟を単純に弟と言ってきただけである。

白村江戦後
      筑紫君薩野馬
 帰朝
(天智)三年(六六四 → 六六五
 春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟(大海人
皇子=筑紫君薩野馬)
、宣増換冠位階名及氏
上・民部・家部等事。
(天智)十年春正月己亥朔庚子、大錦上蘇我
赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於殿前、奏賀正事。
癸卯、大錦上中臣金連命宣神事。是日、
大友皇子拜太政大臣
、以蘇我赤兄臣爲左大臣、
以中臣金連爲右大臣、以蘇我果安臣・巨勢人
臣紀大人臣爲御史大夫。御史蓋今之大納言乎。
甲辰、東宮太皇弟奉宣或本云大友皇子宣命施
行冠位法度之事、大赦天下。法度冠位之名、具載
於新律令也。
(天智) 四年冬十月庚辰、天皇、臥病以痛
之甚矣。(天武紀上)
※ 天智十年 (天智紀)

 

● 天智天皇の倭国東朝に「中元」という年号があった

・・・ 『襲国偽僭考』は、大分県の江戸時代の学者、鶴峯戊申が著したものである。
    ここに天智天皇が「中元(ちゅうがん)」という年号を定めたと書かれている。668年が
   元年である。田川郡には、中元寺川が流れている。
    『藤氏家伝』には、その668年(天智元年)に律令(近江令制定)を制定したとある。

白村江戦後 天智中元と改元
朱雀
 天武天皇元年壬申、朱雀元年とす。一説には、
 白雉・朱雀の二年号をしるさずして、ことに
 中元・果安の二年号をしるしていはく、天智
 帝之時、中元四年(671 = 日本書紀天智
 十年)に終る。又曰く、按ずるに戊辰66
 8
= 日本書紀天智七年)を元年と為す。
 天武帝之時、果安。又曰く、按ずるに年数を
 審らかにせず。
※ 天智天皇の命令により藤原鎌足が天智元年(6
 68)に律令を編纂した。
(『藤氏家伝』大織冠伝)
 近江令制定
「襲国偽僭考 海西鶴峯戊申季尼著」

 

白村江戦後 天智中元と改元

 諏訪神社の隣の田圃に
中元寺遺跡が残されていた。
「中元寺遺跡群 : 発掘調査報告書 2 」
(添田町教育委員会 )がある。

 添田町諏訪神社の由緒には
「中元司」と書かれている。

写真「諏訪神社(末田町)」
地図「添田町中元寺」