「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 白村江の戦い 御笠団と遠賀団

※ 白村江の戦い 御笠団と遠賀団
 (令和二年九月一八日(金)収録、第17回 古代史講座、主催 田川広域観光協会、撮影・編集 豊の国古代史研究会)より

■ 孝徳・斉明・天智紀の倭国本朝と倭国東朝(福永説)

孝徳・斉明・天智紀 の 倭国本朝 と 倭国東朝 (福永説)

大宰府条坊復元図(井上信正氏)

 白雉元年(650)冬十二月、天智(孝徳)天皇は難波長柄豊碕宮(行橋市長井浜附近か)を造営し、そこを都と定めた。

 白雉四年(653)に、倭京(倭飛鳥河辺(かわら)行宮、香春町古宮ヶ鼻)に遷都。
 臣下の大半が皇太子(天智天皇)に随って遷った。

 孝徳・斉明・天智紀のこの辺りから完全に福永Worldに入る。倭国本朝の京師は、大宰府から一向に動かない。

 孝徳紀にある「白雉元年(650)冬十二月、天皇は難波長柄豊碕宮(行橋市長井浜附近か)を造営し、そこを都と定めた。 」の記事なので、当然、ここの天皇は孝徳天皇であるが、天智天皇に変えている。

 乙巳の変の後に天智天皇は、即位したと考えている。

 「白雉四年(653)に、倭京に遷都」とあるのは、倭飛鳥河辺行宮で、「河辺」と書いて「かわら」と読むから場所は、香春町古宮ヶ鼻である。
 次に「臣下の大半が皇太子に随って遷った。」とあるが、即位しているので、皇太子ではなく天智天皇である。したがって、天智天皇は、即位後早くも2度目遷都をしている。

 

倭河邊行宮
地図(字名)「香春町古宮ヶ鼻」
阿曽隅社

宇治宮(上権様)

 倭河邊行宮の場所は、宇治宮(上権様)と同じ場所で、香春町古宮ヶ鼻を想定している。

 この写真の場所から少し山を登った所に先ほど話した阿曽隅社という神社がある。ここが、私のいう阿蘇山である。

 

孝徳・斉明・天智紀 の 倭国本朝 と 倭国東朝 (福永説)

① 天智三年(664 → 657

是歳、於對馬嶋壹岐嶋筑紫國等置。又於筑紫築大堤貯水、名曰水城

水城大堤之碑

(斉明)二年(656)、(中略)飛鳥の岡本に、更に宮地を定む。(中略) 號して後岡本宮と曰ふ。
 田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。復、嶺の上の両つの槻の樹の邊に、観を起つ。號けて両槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。
 時に興事を好む。

 ここからは、私が田川の土地で見出した『日本書紀』の1年ズレ、7年ズレを整合した結果である。

 『日本書紀』の天智天皇三年は、西暦664年になるが、それを7年遡らせて西暦657年の記事とする説である。
 「是歳、・・・又、筑紫に於いて大堤を築いて、水を貯めた。それを名付けて水城という。」とあるので、通説では西暦663年の白村江の戦いで負けた翌年に造った事になる。
 それは、おかしい。確か谷川先生の講演でも天群の人たちは、唐・新羅と仲が悪かった。憎しみが勝っていたという話をされていた。
 だからこの時の倭国本朝(大宰府)側の天皇(筑紫君薩夜麻と思っている)が、万が一、敵に攻められた場合を想定して防御施設である水城を造った年は、私が田川で得た7年ズレを当てると実は西暦657年に水城は造られたのではないかという大胆な説を他の講演でも何度も言ってきた。

 

孝徳・斉明・天智紀 の 倭国本朝 と 倭国東朝 (福永説)

大宰府条坊を囲む羅城図

① 水工をして渠穿らしむ香山の西より、石上山に至る。二百隻を以て、石上山の石を載みて、流の順に控め引く。
(菟道)宮の東の山に石を累ねて垣とす。時の人の謗りて曰はく、「①狂心の渠功夫を損し費すこと、三萬餘②垣造る功夫を費し損すこと、七萬餘。宮材爛れ、山椒埋もれたり」といふ。
(中略)又③ 吉野宮を作る

 水城が造られた翌年、考古学上の大発見だろうと思うが、大宰府を囲む全長51kmに及ぶ羅城(都を巡る城)、羅生門の羅城が造られた。

 この図は、「国立歴史民俗博物館研究報告 第36集 阿部義平 図14」である。A 大野城、B 基肄城、C水城等々の延々51kmに及ぶ山城や土塁に囲まれて大宰府は守られていたのである。

 大宰府に水城や羅城が造られた同じ頃に、倭国東朝では、「① 水工に渠(地下水路)を穿らせた。」と書かれている。場所は、「香山の西より」とあり私が言う所の香春三ノ岳より「石上山に至る。」とあるが、その石上山が何処か解らない。
 「② 宮の東の山に石を累ねて垣とす。」とあるその宮は、宇治宮と思われる。その東にある大坂山の中腹に「呉中平雪穴」と呼ばれる掘り下げた石垣がある。
 地下水路の事を貶めて、時の人の謗りて曰はく、「①狂心の渠。・・・」とある。「又 ③ 吉野宮を作る。」と書かれている。

 この時に福岡県の東西において、このような大土木工事が間違いなく行われた。奈良時代より圧倒的に前の西暦600年代の出来事である。

 

孝徳・斉明・天智紀 の 倭国本朝 と 倭国東朝 (福永説)

「水城」復元図
ブラタモリに出た「羅城」
絵「水城」
ブラタモリの羅城図
「狂心の
(香春町宮原給水所建設時の
   謎の石組みの地下水路
宮原給水所建設時
宮原の石組みの地下水路

 大宰府の羅城については、今年1月のブラタモリ新春番組の画像である。番組の中、「近年発見!古代都市の姿とは」で防衛施設であるとタモリさんはハッキリ言った。良い番組だった。NHKが、偶然にも羅城を紹介してくれた。
 大宰府が、地方都市(地方の役所)であるハズが無い。明らかに一王朝の都跡である。

 倭国東朝側で造られた「狂心の渠」は、香春町の宮原盆地の地下を流れている水路である。写真は、宮原給水所を建設する時である。地下深くの赤丸で囲んだ所を拡大したのが、石組みの水路である。その石組みは、粘土で覆われている水路であり、水源に当たる香山というのは、石灰岩で出来た香春三ノ岳であるから、その山を潜り抜けた水は、どんな酸性雨の水であっても弱アルカリ性の名水になって流れてくる。
 建設された宮原給水所は、その石組みの地下水路にパイプを通して汲み上げた水をタンクに貯めて、渇水の時には臨時にこの水を香春町の家庭に配るというシステムになっている。
 西暦600年代に造られた地下水路が、給水所になっている。スゴイ事である。

 この地下水路を地元で調査された方がいて、その結果最低でも南北に全長4kmある。地下水路を一ヶ所は、掘られた事があり、1本の中に4本並行して造られていたという大工事である。
 この地下水路が、『斉明紀』に書かれている「狂心の渠」と謗らてた地下水路であると考えている。日本全国何処を探してもこれだけ大規模な地下水路は無い。
 香春町を全面的に発掘してみたい所であるが、叶わない夢である。
 何れにしろ、福岡県の東西(倭国本朝・倭国東朝)で西暦600年代に凄まじい土木工事が行われた。白村江の戦いの前である。

 

孝徳・斉明・天智紀 の 倭国本朝 と 倭国東朝 (福永説)

 永徽六年、新羅訴百濟、高麗、靺鞨取北境三十城。
 顯慶五年(660)、左衛大將軍蘇定方爲神丘道行軍大總管。定方執義慈、隆及小王孝演、酋長五十八人送京師,平其國五部、三十七郡、二百城,戶七十六萬。乃析置熊津、馬韓、東明、金漣、德安五都督府,擢酋渠長治之。命郎將劉仁願守百濟城,左衛郎將王文度爲熊津都督。
 九月,定方以所俘見,詔釋不誅。義慈病死。
(新唐書・百済)

筑紫君薩夜麻唐軍の捕虜となる。

若宮神社本殿

  吉野宮(山国町)

若宮神社石段
若宮神社鳥居

 西暦660年に大事件が起きる。『新唐書・百済』に唐の年号顯慶五年、蘇定方という唐の将軍が、百済の義慈王太子の隆及び小王孝演酋長五十八人を捕虜をして執らえて京師(長安、現在の西安)に送ったと書かれている。

 そして「熊津都督(ゆうしんととく)と爲った」とあり、熊津都督府が百済に置かれて唐に占領された。

 唐軍に執らわれて捕虜となった酋長五十八人の中に筑紫君薩夜麻がいたという記事である。

 倭国東朝側では、吉野宮が造られる。この記事は、斉明紀にあるが、天智天皇の記事だと思われる。英彦山の南側、中津市山国町の若宮神社がある場所の字名が、吉野である。ここに壬申の乱にもよく出てくる吉野宮が造られたと思っている。
 この若宮神社は、山国川から石段が拝殿まで、ずーっと続くという凄い規模の神社である。江戸時代の山国村でしょうか?一部の村人たちが造れるような石段ではない。現在の車道が、2本もこの石段を横切っている。

 

孝徳・斉明・天智紀 の 倭国本朝 と 倭国東朝 (福永説)

(斉明六年、660)
 夏五月辛丑朔戊申、高麗使人乙相賀取文等、到難波館。
 是月、有司、奉勅造一百高座・一百衲袈裟、設仁王般若之會。

(斉明六年、660)
「方今謹願、迎百濟國遣侍天朝王子豐璋、將爲國主。」云々。
 送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝等、其正發遣之時見于七年
(661)

③ 天智天皇六年(667 → 661
 春三月辛酉朔己卯(十九日)、都を近江大津宮(糸田町大宮神社)に遷す。

『海東諸国紀』
 斉明七(661)年辛酉、白鳳と改元し、都を近江州に遷す。

大宮神社の鳥居越しの香春岳

 「斉明六年(660年)、高麗人使いにやってきた・・・」のは、倭国本朝側の記事であろう。

 同じく斉明六年(660年)の『日本書紀』の記事であるが、唐に義慈王と太子隆及小王孝演が執らわれたから、百済には王族が誰もいなくなったので、人質だった王子豐璋を百済の国主となすと云う。
 それで、王子豐璋を送ったとあるが、その割注の所に、正しくはその發遣の時は、七年に見ゆとある。暗に日本書紀の中で661年と1年ズレた年を記している。
 王子豐璋は、660年か661年のどちらの年に百済に帰ったか判らないが、たぶん、筑紫君薩夜麻、義慈王が執らえられた660年の翌年に百済に帰えして何とか再興しようとしたのであろう。
 この王子豐璋を百済へ送り返した記事は、倭国本朝の出来事だと思う。

 この倭国東朝の「都を近江大津宮に遷す。」という記事、天智天皇六年は普通667年であるが、また7年ズレ(6年ズレ)で661年に訂正している。
 近江大津宮の場所は、糸田町大宮神社だと考えている。

 近江大津宮へ遷都については、朝鮮側の『海東諸国紀』にもある。斉明七年辛酉とあるから661年だとハッキリ書かれている。
 記事に「白鳳と改元し、都を近江州に遷す。」とあるので、近江大津宮に遷都のことである。

 近江大津宮に遷都する天智天皇七年の記事を661年に訂正したのは、『海東諸国紀』にある斉明七年の661年を信用したからである。日本書紀は、どうも年がズレている述べてきた通りである。
 多くの講演を聴講して頂いた方に良く解らないと言われ続けたが、間違いなく日本書紀の記事は、7年ズレたり1年ズレたりしている。

 この「白鳳と改元し、都を近江州に遷す。」という記事にある「白鳳」という年号は、天智天皇の年号になる。これで、また、頭が痛くなる。通説では、「白鳳」という年号は、天武天皇の年号という事になっている。

 

孝徳・斉明・天智紀 の 倭国本朝 と 倭国東朝 (福永説)

於天豐財重日足姬天皇七年(661→660)、救百濟之役、汝、爲唐軍見虜
(洎天命開別天皇三年(664)、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶兒、四人、)

※ 持統天皇四年(690)冬十月記事。
 唐より帰朝した大伴部博麻への労いを述べた場面。

(斉明六年、660 → 661
 又、皇太子初造漏剋、使民知時。又、阿倍引田臣闕名獻夷五十餘。又、於石上池邊作須彌山、高如廟塔

沁泉+慶州瞻星台

 持統天皇四年冬十月の唐より帰朝した大伴部博麻への労いを述べた場面の記事である。

 「天豐財重日足姬(斉明)天皇七年百濟を救う役で、汝(大伴部博麻)、唐軍の爲に虜になったね。天命開別(天智)天皇三年に洎びて、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶兒、四人を送り返した・・・」とある。

 百濟を救う役で筑紫君薩夜麻らと大伴部博麻が唐軍の捕虜になった天豐財重日足姬(斉明)天皇七年は、661年ではなく、1年ズラして660年である。
 『新唐書・百済』にあった顯慶五年(660年)である。

 持統天皇四年(690年)は、大伴部博麻が唐軍の捕虜となった660年から丁度30年経ってやっと帰朝した年である。

 持統天皇紀に残された持統天皇ご自身の言葉の中にピッタリ同じ660年が記載されているのである。大伴部博麻に対して、この時にお前は唐軍の捕虜になったね。それから30年経ってやっと帰ってきたね。ご苦労さんと労った場面である。
 このような凄まじい記録が、『日本書紀』と中国側の記録、朝鮮側の記録を見ていくとズレている内容がピタピタと一致していくのである。

 次は、倭国東朝の斉明六年(660年)の記事であるが、先ほどの王子豐璋を百済に送った年を考えれば、661年かも知れない。「又、皇太子初造漏剋、使民知時。」とあるが、皇太子ではなく、天智天皇が漏剋(水時計)を初めて造った。
 更に記事は「又、於石上池邊作須彌山、高如廟塔。」とある。漏剋だけを造ったのではなく、須彌山も造ったとあるので、何のことかと考えてたどり着いたのが、この合成写真である。

 糸田町の沁泉(たぎり)と呼ばれる池に新羅の善徳女王が建てた瞻星台を池の寸法に合わせた合成した写真である。だから、「高さ廟塔の如し」とこの池に合成した物の方が慶州瞻星台より高いと考えられる。

 

漏刻跡(糸田町)
「糸田金村権現宮」(糸田町教育委員会)
Google Earth(沁泉)

 「糸田金村権現宮は、天智天皇7(668)年秋8月、右大臣金連公によって造営されたものである。」と書かれているが、668年ではない。
 糸田金村権現宮に残された石板の記録と『日本書紀』天智天皇10年あるいは、斉明天皇6年の漏刻造営記事は、全て一致していたという事がようやく解った。私の悪い頭で算数ばかりしてやっと到達した。

 沁泉を上空から見ると、丸い池と四角い池と排水路の3点セットで構成されている事が解る。

 

金村権現宮にあった石板

1174年

 舊記曰糸田庄金村權現宮天智天皇
七年
秋八月右大臣金連公所被令造營也
初公扈
【口語訳】
 旧記(不詳)に云うことには、糸田庄の
金村権現宮は天智天皇七年秋八月右大臣
金連公
が造営させられたものである。
 初め、金連公は天皇につき従い、筑紫の
要害を巡視された時この地に到り、権現が
夢に現れ告知をこうむり、鉾を用いて地を
探り神泉を得、灌漑に便利であった。
金村権現宮にあった石板の拓本(一部分)

 金村権現宮にあった石板の拓本が、糸田町に残されていた写しを頂きました。その拓本の一部であるが、「舊記に曰く」という文句で始まり、「天智天皇7年秋8月、右大臣金連公によって造営されたものである。」と書かれている。
 現地でかなり貴重な物を手に入れている。

 

 よってその後友足(有職か)に仕え権現
を池のほとりに勧請し、村人に永く権現の
恩恵を享けさせた。
 社伝に云うには、金村権現は大和国葛城
下郡の式社で、大臣の氏神である。
 今年七月、激震がしきりに起こり、社殿
に到り、神体を損傷し、水口を塞ぎ、神泉
を埋めた
(中略)
 永く石を用いて神体をお迎えした理由を
知らせようとしただけだ。
承安四甲午(一一七四年)
        七月二十五日  
 大願主大檀越  
 大神朝臣緒方右京進惟世敬白
沁泉付近の古地図

 口語訳の中に「今年七月、激震がしきりに起こり、社殿に到り、神体を損傷し、水口を塞ぎ、神泉を埋めた。」と書かれている。
 その石板が造られた年は、判っている。平安時代の1174年である。私たち現代人より圧倒的に白村江の戦いがあった時代に近い年である。
 石板で残されたわけであるから金石文(きんせきぶん)である。わが国には数少ない石文の一つであるが、石板本体は、行方不明になり、拓本だけが残っている。

 石文の最後に承安四甲午と書かれているので、1174年と解るのである。地図の赤印のある沁泉が、先ほど私が写真でコラージュを作った場所である。
 「沁泉より北方に二町ほど離れた所から鉾を拾ってきて、新たな神体としたら再び水が沸いた」と書かれている。石を用いて神体をお迎えした理由を知らせようとしたとある。

 

漏刻記事
(斉明六年、六六〇)夏五月辛丑朔戊
申、高麗使人乙相賀取文等、到難波館。
是月、有司、奉勅造一百高座・一百衲
袈裟、設仁王般若之會。又、皇太子初
造漏剋、使民知時
。又、阿倍引田臣闕
名獻夷五十餘。又、於石上池邊作須彌
山、高如廟塔
(天智十年)夏四月丁卯朔辛卯、置
新臺始打候時動鍾鼓、始用漏剋。
此漏剋者、天皇爲皇太子時、始親所製
造也、云々。
須弥山イメージ図

 漏刻記事には、斉明6年に漏刻須彌山を造ったとある同じ記事が、天智10年に出てくる。「漏剋を新臺に置く」とあり、それは「天皇が皇太子の時」とある。
 私は、天智が皇太子ではなく、天皇に即位して造ったと考えている。

 尚、「須彌山」の説明は、省略しますので、講演動画をご確認下さい。

 

 日本における時刻のはじまり 天智天皇の10年 4月25日に始めて漏刻を新しい台に 設置して鐘鼓を鳴らして時を告げたとの「日本書紀」の記述が、日本における最古の時報の記録となります。 ( 太陽暦に直すと西暦671年、6月10日。)

沁泉の四角い池
水落遺跡の説明図

 漏刻について通説では、日本書紀の天智10年記事を採用している。飛鳥水落遺跡が漏刻跡ではないかという地元の人の熱烈な勘違いにより指定されているが、私は、沁泉が漏刻跡だと考えている。
 絵は、水落遺跡を発掘した学芸員が描いた想像図である。面白いのは、赤丸の印の所で役人が下にあるプールから桶で水を汲み運んで、漏刻の一番上の水槽に水を入れている。
 そして、上側の水槽から水が銅管を通って、一番下の水槽に溜まっていくと浮きが上昇して行き目盛が刻んであって時が測れる。
  それを2階にある鐘で時を知らせた。

 沁泉の四角い池に漏刻の絵を合成したが、水落遺跡と違う点は、60年程前までは丸い池には、湧き出した水は地上近くまで溜まっていて四角い池に溢れた水が流れて行っていたと地元の人4、5人からの証言があるので、溢れた水を受け止めるだけで良い。
 役人がプールから水を汲んできて水槽に入れる必要はない。自動で時が測れる。1日測れば、一番下の水槽の水を抜けば、また、次の日に時が測れる。

 丸い池の方に瞻星台(須彌山)が置かれていれば、丸い池の側で年月日を測り、こちらの四角い池で時間を測ったとういう非常にリーズナブルな施設と考えられる。
 私は、沁泉に天智天皇が日本で最初に漏刻を造った跡ではないか。つまり瞻星台+漏刻の跡ではないかと考えている。

 

斉明・天智・天武紀の
   一年ズレと七年ズレ
(斉明六年、六六〇)「方今謹願、
 迎百濟國遣侍天朝王子豐璋、將爲
 國主。」云々。送王子豐璋及妻子
 與其叔父忠勝等、其正發遣之時見
 于七年(六六一年)
 ※ 一年のズレ
b(斉明元年)皇祖母尊即天皇位。
 (斉明)七年七月丁巳崩皇太子
 素服稱制
 ※ 七年ズレの原因
(天智)三年春二月己卯朔丁亥、
 天皇命大皇弟、宣増換冠位階名及
 氏上・民部・家部等事。
 (この条は全体として、または部分
  的に天智天皇十年条と重出してい
  るらしい。
 〈日本古典文学大系頭注〉)
 ※ 最大の七年ズレの例

 斉明・天智・天武紀のあちらこちらに1年ズレ・7年ズレの記事が出現する。今日ここまでに説明した年代の中にも黒字から赤字に修正した1年ズレの記事が沢山ありましたね。

 大きく7年ズレている記事が、この(天智)三年に冠位を増した時の記録である。この記事は、天智天皇十年にも重出していると岩波書店の日本古典文学大系の頭注にハッキリと書かれている。
 したがって、昭和の学者たちも7年ズレがあるとハッキリ言っている。重出記事であると。7年ズレの記事は、ここだけでは無く、他にも⑦もう何か所かにある。

 1年ズレ・7年ズレの記事を綿密に検討したのが、これまで話してきた結果である。

 

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
飛鳥時代
 中大兄は大化の改新に協力しながらも、
諸豪族の恨みが増すと、それを孝徳天皇
に転嫁し、自らは白雉4(653)年に、
臣下の大半を引き連れて倭飛鳥河辺(か
わらの)
行宮(香春町阿曽隈社か)に遷っ
た。
 孝徳天皇は気を落とし、翌年、病気に
なって崩御した。
 655年、中大兄が即位、天智天皇で
ある。
 天智は百済との国交を絶ち、すでに白
雉4・5年に遣唐使を派遣、唐・新羅と
密約を交わしていた。
 斉明・天智紀にいう「二元外交(唐・
新羅と百済・高句麗との外交)」はなか
ったと考えられる。

 これは、西日本新聞の筑豊版で書かせてもらった「新説 日本書紀」の飛鳥時代の新聞記事の内容である。

 その後半の部分の内容について、先ほどの谷川先生の講演に「遣唐使を派遣」の話がありましたが、「天智は百済との国交を絶ち、すでに白雉4・5年に遣唐使を派遣、唐・新羅と密約を交わしていた。」というのが、私の推測である。

 斉明・天智紀にいう「二元外交(唐・新羅と百済・高句麗との外交)」であるが、谷川先生の話で、天群は唐・新羅と仲が悪く、百済・高句麗とは仲が良い。
 それに対し、地群は唐・新羅と仲が良く、百済・高句麗とは仲が悪いという結論を導き出されている。私の説と一部重なっている事に気付かれましたか?。

 朝鮮半島で、血みどろの戦いをしている新羅と百済・高句麗の使者が一つの朝廷に来るという事はあり得ない。お互いの使者が会えば、その場で争いが起きる。
 したがって、二元外交はなかったと考えている。

 

孝徳・斉明・天智紀 の 倭国本朝 と 倭国東朝 (福永説)

② 天智天皇七年(668 → 661
 春正月丙戌朔戊子(三日)に、皇太子即天皇位す。
 或本に云はく、六年の歳次丁卯の三月に位に即きたまふ。

 是歳、沙門道行、草薙剣を盗みて、新羅に逃げ向く。
 而して中路に雨風にあひて、荒迷ひて帰る。

大宰府条坊復元図(政庁付近)

銅印「御笠団印」

   御笠団印

銅印「遠賀団印」

遠賀団印

 愈々、白村江の戦いの直前である。

 冒頭で話しました「御笠団印」、「遠賀団印」という2つの銅印が、地図にあるように大宰府政庁跡の近くから出土している。

 倭国東朝側では、天智天皇7年に「皇太子、天皇に即位した」とあるが、668年ではなく、7年ズレの661年である。

 660年に筑紫君薩夜麻が、唐軍の捕虜なった翌661年に天智天皇は、何故か即位したと日本書紀は書いている。また、「或本に云はく、六年の歳次丁卯の三月に位に即きたまふ。 」と1年ズレの記事も書かれている。

 天智天皇7年に何故、即位なのでしょうか? 現代においても天皇陛下が即位した年が、元年じゃないですか。今上陛下が即位した年が、令和元年であり、令和7年から始まりますか?。
 このような事が、天智天皇7年記事には書かれている。天智天皇7年に即位されたというのは、おかしいでしょ。

 天智天皇7年の続きに次に変な記事「是歳(661年)、沙門道行、草薙剣を盗みて、新羅に逃げ向く。而して中路に雨風にあひて、荒迷ひて帰る。 」がある。沙門道行について、鞍手町中山にある八剱神社の社伝には、新羅の沙門とある。その沙門道行が、嵐に合って草薙劔を放り投げて帰ったので、一時期、草薙劔は八剱神社に安置されていたと誇らしく記録が残されている。

 ここで大事なことは、倭国東朝で661年に天智天皇が即位された(それ以前に即位されていても構わない)が、この時点で倭国本朝側にまだ主権があるので、「遠賀団印 」も大宰府の都跡から出土している。
 という事は、倭国東朝に近い遠賀団も倭国本朝側が、遠賀団も統御している。倭国本朝側が御笠団、遠賀団両方の統帥権を持っている。
 遠賀団印が、大宰府でなく、遠賀の土地から出土したのであれば、話しは別である。遠賀団印が、大宰府から出土した意義、時代背景を考えられた人は、今まで皆無である。
 元都立高校の国語の教員が、遠賀団は遠賀川流域の水軍であると言い切った。

 草薙劔は、天皇位を象徴する三種の神器の一つであるから、ここで、倭国東朝(豊国)に草薙劔が帰ってきたという記事だったのではないか。
 しかし、まだ主権は、倭国本朝側が持っている。倭国東朝(豊国)は、まだ弟国であるという表れだと思っている。