「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 白村江の戦い 御笠団と遠賀団

※ 白村江の戦い 御笠団と遠賀団
 (令和二年九月一八日(金)収録、第17回 古代史講座、主催 田川広域観光協会、撮影・編集 豊の国古代史研究会)より

■ 日本国の建国から壬申の大乱へ

日本国の建国 → 壬申の大乱

⑩ 天智天皇九年(670)春二月に、戸籍を造る。

※ 庚午年籍。唐の冊封下に入る

 倭国、更めて日本と号す。自ら言ふ。日出る所に近し。以に名と為すと。
 (三国史記 新羅本紀文武王十年十二月)

⑪ 天智天皇十年(671)九月に、天皇寝疾不予したまふ。
 冬十月の甲子の朔壬午(十九日)に、東宮、天皇に見えて、吉野(山国町若宮八幡)に之りて、脩行仏道せむと請したまふ。天皇許す。東宮即ち吉野に入りたまふ。大臣等侍へ送る。菟道(香春町阿曽隈社)に至りて還る。

 「天智天皇九年(670)春二月に、戸籍を造る。」とあるのは、いわゆる庚午年籍である。そして、その戸籍を唐に渡すのである。つまり、唐の属国になる(冊封下に入る)という事である。

 この年に、『三国史記』新羅本紀文武王十年十二月によれば、「倭国、更めて日本と号す。自ら言ふ。日出る所に近し。以に名と為すと。」とある。
 これが、私の考えるかぎり「日本国」の始まりである。「日本国」と書く「やまと国」の始まりで「倭国」と書く「やまと国」では無い。

 私が追っかけている『日本書紀』は、この時の名前に与かって、「倭国」と書く「やまと国」を「日本国」を「やまと国」に改めている。
 だから、『三国史記』にある「倭国、更めて日本と号す」との記事と合っていると思う。これが、私の言う「日本国の建国」である。「日本国」は、670年に始まったというのが、福永説である。

 天智紀にある「天智天皇十年(671)九月に、天皇寝疾不予したまふ。」の記事を同じ記事が、天武紀では、「(天智)※四年冬十月庚辰、天皇、臥病以痛之甚矣。」と書かれている。
 『日本書紀』は、年代がバラバラである。同じ事件を別の個所で何回も何回も書いてる。

 次に「冬十月の甲子の朔壬午(十九日)に、東宮、・・・」とあるが、この東宮は、大海人皇子である。ひょっとして、筑紫君薩野馬かも知れない。
 天皇が許したので、東宮は、2日半で歩き倒して吉野に逃げ込んだのである。途中で菟道宮に寄っているから大津宮から向かったのであろうか。

 

日本国の建国 → 壬申の大乱

※(天智天皇)四年冬十月の壬午(十九日)に、吉野宮に入りたまふ。
 時に左大臣蘇賀赤兄臣右大臣中臣金連、及び大納言蘇賀果安臣等送りたてまつる。菟道より還る。
 或の曰はく、「虎に翼を着けて放てり」といふ。是の夕に、嶋宮(大任町島台)に御します。
 癸未(二十日)に、吉野に至りて居します。
 (天武天皇摂政前紀)

 天智紀に天智10年に書かれていた記事が、今度天武紀では、また、(天智天皇)四年と書かれている。このズレは一体何でしょうか?『日本書紀』は、年代ズレのオンパレードである。1年ズレ、7年ズレ、差を採れば、6年ズレと3種類の年代ズレがある。

 ここにも東宮を見送った一人に、漏刻を津打った右大臣中臣金連が出てくる。

 この時に大海人皇子は、すでに謀反を企てていたことが、この「虎に翼を着けて放てり」という有名な文句で解る。壬午(十九日)に出発して、癸未(二十日)に、吉野に着いている。
 実際に何とか2日で歩いて辿り付けそうである。

 

白村江戦 ~ 壬申の乱逸話
白鳳五年(古語拾遺654年)       
白鳳五年(襲国偽僭考659年)       
白鳳五年(海東諸国紀665年)       
白鳳五年(日本書紀677年)
興国寺由緒
興国寺

 ここからは、こぼれ話である。

 「白鳳五年」についてであるが、実際に福智町上に興国寺というお寺があり、その寺の由緒に「白鳳五年に創建された」とある。
 豊国で創建されたお寺が白鳳五年とあるが、こちらの地域伝承や色々な古典を調べても古語拾遺では654年、襲国偽僭考では659年、海東諸国紀では665年、日本書紀では677年とズレている為に、白鳳という年号が、本当に天智天皇の年号か、天武天皇の年号か判読不能である。

 

白村江戦 ~ 壬申の乱逸話
朱雀
  天武天皇元年壬申、朱雀元年とす。
  一説には、白雉・朱雀の二年号をしる
 さずして、ことに中元・果安の二年号を
 しるしていはく、天智帝之時、中元四年
 (671 = 日本書紀天智十年)に終る。
  又曰く、按ずるに戊辰668 = 日本
 書紀天智七年)
元年と為す。
  天武帝之時、果安。又曰く、按ずるに
 年数を審らかにせず。
『襲国偽僣考』海西鶴峯戊申季尼著

 天智天皇の頃であるが、『襲国偽僭考』、あるいは『和漢年契』という本にあるが、天智天皇の時に「中元」という年号が一部にあったのである。

 

白村江戦 ~ 壬申の乱逸話

 諏訪神社の隣の田圃に
中元寺遺跡が残されていた。
「中元寺遺跡群 : 発掘調査報告書 2 」
(添田町教育委員会 )がある。

 添田町諏訪神社の由緒には
「中元司」と書かれている。

諏訪神社
地図「中元寺」

 天智天皇の時の年号である「中元」という名前が付いた川が、川崎町から添田町にかけて流れている。また、添田町の教育委員会が発掘報告している中元寺遺跡という遺跡もある。
 その中元寺遺跡の傍に諏訪神社があり、由緒には、「中元司」と書かれている。「司」は、役所である。中元司の前を流れているから中元寺川というのである。

 田川の土地の伝承と天智天皇の役所跡が重なるという事になる。確証は、ありません。