「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 白村江の戦い 御笠団と遠賀団
(令和二年九月一八日(金)収録、第17回 古代史講座、主催 田川広域観光協会、撮影・編集 豊の国古代史研究会)より
■ 白村江戦の戦後処理
白村江戦戦後処理
⑥ 天智四年(665 → 664)
秋九月庚午朔壬辰、唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣す。等謂、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰、凡二百五十四人。
七月廿八日至于對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。
海外国記曰、天智天皇三年四月、大唐客来朝。
大使朝散大夫上柱国郭務悰等卅人・百済佐平禰軍等百余人、到二対馬島一。
※ 唐の羈縻政策①
筑紫都督府を置く。大宰府占領さる。
⑦ 天智四年(665 → 664)
等謂、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰、凡二百五十四人。
七月廿八日至于對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。
※ 『大唐故右威衛將軍上柱國 祢公墓誌銘』( 禰軍 六七八年没)
*
*
(前略)去る顯慶五年(六六〇)、官軍の本藩を平らぐる日、機を見て變を識り、劔を杖つき歸を知るは、由余の戎を出づるがごとく、 金磾の漢に入るがごとし。
聖上嘉歎し、擢んづるに榮班を以てし、右武衛滻川府析衝都尉を授く。
時に日本の餘噍、扶桑に據りて以て誅を逋れ、風谷の遺甿、盤桃を負ひて阻め固む。(後略)
白村江戦の戦後処理、今日の講演の大テーマである。
⑥ 天智四年秋九月の記事を665年から664年に訂正した。「唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣す。」とある。この時に百濟禰軍、朝散大夫柱國郭務悰ら凡そ二百五十四人が、まず、對馬に来る。
そして、9月20日に筑紫に来ている。9月22日に表函を進める。とある。
しかし、海外国記曰、天智天皇三年四月に大唐客が来朝したとある。ここに1年ズレがある。人数が異なっているが、大使朝散大夫上柱国郭務悰ら30人。百済佐平禰軍ら100余人が対馬島に至るとある。
これらの記事についてあちこちの文献を訪ねて、この足った2行に纏めたのが、「唐の羈縻政策」である。
660年に百済の義慈王を虜にした。大唐王朝というのは、非常にユニークな王朝であり、敵を全滅させない。虜にして、一旦都に連れて来て教え諭す。
そして、自国に帰って良いが、唐に敵対しないで、友好的な関係で服従するように元も自国を治めさせる政策を採った。つまり、他民族の土地は、他民族で治めるように任せるという政策である。
これを「羈縻政策」という。これは、ちゃんとした歴史用語である。
倭国本朝と倭国東朝の2朝あった倭国に対するその羈縻政策 ①が、筑紫都督府を置いた。これは、多くの学者・日本人が認めたくないが、大宰府が占領された。
75年前、大日本帝国にもあった。同じ事が、664年にもあった。外国の軍隊に王朝の都が占領されている。この事は、通説の学者たちは認めない。
前述の天智四年記事の「9月20日に筑紫きて、9月22日に表函を進める。」の9月22日の所に赤線を引いた。9月20日に大宰府は占領された。
2日後の22日に唐から表函を進めらた相手は、誰なのか? 筑紫君薩野馬は、まだ、虜のままである。唐に占領された大宰府に誰がいるのか? 誰にこの表函を進めたのか? 大宰府に表函を進める王はいない。
だから、この表函は、倭国東朝の天智天皇にを進めたのであろう。違いますかね。
郭務悰と一緒に筑紫にやってきて、その後、倭国東朝(天智天皇の所)にもやって来たようである百濟の禰軍の墓が西安市(唐の都、長安)で見つかっている。六七八年に没したその墓誌銘には、次のように書かれている。
去る顯慶五年であるから、660年に官軍(唐軍)の本藩(百済)を平らぐる日に私は降伏した。ところが、聖上(唐の天子)は私を榮班して擢りぬいたという事で日本に派遣したのでしょうか?
日本の餘噍(残党)が、まだ頑張っていくから倭国に行って説き伏せてくれとの羈縻政策の為にやって来たらしい。
これは、すべて記録であり、私はそれを繋いだだけである。
大宰府に厳然と筑紫都督府址は存在する。これは、明らかに羈縻政策の結果の跡である。
天智四年に、倭国東朝の見逃せない記事がある。
「冬十月己亥朔己酉、大きに菟道に閲す」とあるのは、菟道(香春町阿曽隅社)で唐の兵士を閲兵したという事である。足った1行の記事であるが、敗戦した国の王が、勝者の軍隊の兵を閲兵出来るでしょうか? 否! 断じて負けた国の王が、勝った国の兵を閲兵した記録は、全世界何処にも無い。この事は、自信を持って言える。
『大唐故右威衛將軍上柱國※祢公墓誌銘』の拓本の一部であるが、「日本餘噍」の文字が見える。これは、「日本」と彫られた石文である。
考古学の世界では有名な石文であるが、しかし、ほとんど誰も口を開かない。禰軍は、六七八年に没しているから、「日本」という国号が始まって、まだ数十年である。
百済の禰軍は、菟道(香春町阿曽隅社)へ来たようである。
次に、唐の羈縻政策 ②の倭国東朝に主権を授く。であるが、つまり天智天皇が名実ともに倭国本朝、倭国東朝の両方をまとめた主となったのである。天智天皇が、ナンバーワンとなった。
白村江戦において、六百艘の船に当たると思われる遠賀団は、戦わなかった。天智天皇は、唐・新羅と密約を結んだと思われる。
これは、田川が誇る伝承である。大宰府が占領されたので、倭国はもう一国である。その天智四年、664年と思われる。
赤村にある琴弾瀧の伝承にこうある。
「紀元千三佰拾年の頃、天智天皇御西下豊前の国に御立寄の節」とある「御西下豊前の国に御立寄の節」は、消した。
天智天皇が赤村の琴弾瀧に来られたとあるだけでもスゴイ事である。そこで、日本側の琴の名手、命婦石川色子(福岡・田川のあちこちの伝承に出てくる)と中国側の琴の名手季氏の二人がここの岩上で合奏(別れの秘曲を奏でた)したというスゴイ伝承である。
赤村の先祖の方たちが、この伝承をでっち上げる訳がない。天智天皇が、唐の兵士を菟道宮(香春阿曽隈社)で閲兵した後に、幼少の頃から馴染んだ景勝地であるここ琴弾瀧に唐の客人たちを招いて、宴会をも催されたという事に間違いないと思われる。
天智天皇の大津宮が、滋賀県にあるのであれば、幾何もある瀧をすっ飛ばして、何故ここ赤村の琴弾瀧まで来なければいけないのか。
赤村の人たちも信じていないが、私は固く信じている。天智天皇は、ここ鷹羽國にいらっしゃったのである。
白村江戦戦後処理
⑨(天智)三年(664 → 665)
春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟(大海人皇子=筑紫君薩野馬)、宣増換冠位階名及氏上・民部・家部等事。
(天智)十年
春正月己亥朔庚子、大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於殿前、奏賀正事。
癸卯、大錦上中臣金連命宣神事。是日、以大友皇子拜太政大臣、以蘇我赤兄臣爲左大臣、以中臣金連爲右大臣、以蘇我果安臣・巨勢人臣紀大人臣爲御史大夫。御史蓋今之大納言乎。
甲辰、東宮太皇弟奉宣或本云大友皇子宣命施行冠位法度之事、大赦天下。法度冠位之名、具載於新律令也。
(天智)
四年冬十月庚辰、天皇、臥病以痛之甚矣。(天武紀上)
※ 天智十年(天智紀)
次に(天智)三年は、664年を665年に訂正した。私が恣意的にやっているとしか思われないですね。ここにある「春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟、宣増換冠位階名及氏上・民部・家部等事。」記事の大皇弟、大海人皇子(後の天武天皇)が、筑紫君薩野馬ではないかというのが、私の新しい見解である。
この(天智)三年の記事と同じ記事が、(天智)十年にも出てくる。
大友皇子を以て太政大臣に拜す。中臣金連を以て右大臣に爲す。・・・とある。
この『日本書紀』天智天皇紀に登場する右大臣中臣金連の名が、漏刻跡とも思える沁泉の石板にも天智天皇の名とともに右大臣中臣金連公と出てくる。この一致は一体何故であろうか?
(天智)三年の記事の「冠位を増し換えた」という事の仮定である。ここにある大皇弟の意味合いは、天智天皇と天武天皇は、兄弟ではなく、役目として天智天皇の弟分になられたという事である。
かつてのナンバーワン、筑紫君薩野馬が白村江の敗戦により、それまでナンバーツーであった天智天皇の所にやって来る。
唐の羈縻政策(大唐皇帝よりナンバーツーになれという命を受けてきた)に従い帰ってきたと考えると辻褄が合う。この後『日本書紀』に筑紫君薩野馬の名は、ぴたーっと出てこない。次に出てくるのが、持統紀である。
「冠位を増し換え」というのは、かつて自分の家来であった筑紫(倭国本朝)の家来に新しく中心となった豊国の冠位を増し換えたという事である。
豊国が、名実ともに多くの家臣団を抱えたことになった。それで、筑紫君薩野馬が、大皇弟の立場で指図を行ったと考えられる。
資料の中で私が、加えたのは大海人皇子は、筑紫君薩野馬ではないか。という点とこの(天智)三年記事は、664年ではなく、665年だという2点である。
665年に変更した理由は、天武紀の記事に(天智)四年の「冬十月庚辰、天皇、臥病以痛之甚矣。」があり、天智紀では、天智十年に病気になったとある。同じ内容の記事の年がまた、ズレている。