「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 白村江の戦い 御笠団と遠賀団
(令和二年九月一八日(金)収録、第17回 古代史講座、主催 田川広域観光協会、撮影・編集 豊の国古代史研究会)より
■ 皇極天皇紀の倭国本朝と倭国東朝
倭国本朝(大宰府)側の記録が、ほとんど見つからない。谷川先生の記事の中に若干出てきた物と整合していきたいと考えている。
「二年(643)四月二十八日、更に飛鳥板蓋宮に遷る。」とあるが、その場所は、行橋市にある福原長者原遺跡で、そのⅠ期の遺構が、倭国東朝の(近つ)飛鳥板葺宮跡ではないかと考えている。
倭国本朝の京師は、大宰府で変わりない。
倭国本朝の京師である大宰府は、この図のように美しい条坊制の都であった。官衙(かんが)という地方の役所跡ではない。
何故か『日本書紀』は、この阿毎多利思比孤の都について、徹底して書かなかった。
福原長者原遺跡には、Ⅰ期とⅡ期の2つの遺構がある。その中の少し小さめのⅠ期の遺構が、倭国東朝の(近つ)飛鳥板葺宮跡だと思われる。
(近つ)飛鳥というのは、近畿とは違って海側=東側の土地になる。近畿では、海側は西側の土地が(近つ)飛鳥となる。(遠つ)飛鳥は、豊国側では、香春・赤村になる。近畿では、(遠つ)飛鳥は奈良県側になる。
したがって、瀬戸内海を挟んで対照的な位置関係(鏡状態)となる。