「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 白村江の戦い 御笠団と遠賀団
(令和二年九月一八日(金)収録、第17回 古代史講座、主催 田川広域観光協会、撮影・編集 豊の国古代史研究会)より
■ 舒明天皇紀の倭国本朝と倭国東朝
舒明天皇紀 の 倭国本朝 と 倭国東朝
三年(631)三月一日、 百済の義慈王が王子の豊章を質として送る。
五年(633)一月二十六日、高表仁が唐に戻る。
「與王子爭禮、不宣朝命而還」(『旧唐書』)
※ 倭国本朝の事件
四年(632)十月四日、唐の高表仁が難波津に到着。
八年(636)六月、岡本宮が火災に遭う。
田中宮(田川市伊加利岩亀八幡神社)に遷る。
この年、旱魃・飢饉が起こる。
※ 倭国東朝の事件
左側が、倭国本朝側の出来事で、右側が、倭国東朝(私の言う豊国側)の出来事に分けている。意外なことに『日本書紀』には、谷川先生も突きとめられたように一つの天皇紀の中に天群と地群の記事があると言われたように私にとっては、倭国本朝と倭国東朝の記事が、ごっちゃに書かれているのである。
したがって、これを分析していく必要がある。
たぶん、この「三年(631)三月一日、 百済の義慈王が王子の豊章を質として送る。
」という記事は、筑紫(倭国本朝)側の記事である。
この時に百済を支援していたのは、筑紫(倭国本朝)側である。
「五年(633)一月二十六日、高表仁が唐に戻る」という記事がある時に『旧唐書』の「王子と禮を爭い、朝命を宣せずに還る」とある。
先ほどの谷川先生の講演にあったように、高表仁は、倭国本朝と喧嘩して帰って行ったという事に間違いない。
これに対して「四年(632)十月四日、唐の高表仁が難波津に到着。
」いう記事の難波津は、行橋市の難波津かも知れない。
この唐の高表仁の記事で、倭国東朝(豊国)側では、何も喧嘩をしておらず、仲良くしている。谷川先生の話にも唐と仲良くしたとあった。
倭国本朝の京師は、大宰府で変わっていない。
倭国東朝は、八年(636)、田中宮に遷るとあり、場所は田川市伊加利の岩亀八幡神社である。その岩亀八幡神社について田川市史の中に「舒明天皇の時代に勧請」との現地伝承がしっかりと残っている。
舒明天皇の時代に遷ってきたというのは、やはり遷都であり、『日本書紀』の記事と合っている。
奈良県にある法起寺の『塔露盤銘』に書かれているのが、「十年(638)この年、福亮僧正が法起寺金堂を建立する。」という記事である。
その法起寺式伽藍配置の廃寺が、豊前の上坂廃寺である。したがって、上坂廃寺跡に建っていた法起寺の建物が、現在の奈良県の法起寺に移されたというのが、私の考えである。
「十三年(641)十月九日、百済宮に崩御。」の時の原文「東宮開別皇子、年十六而誄之」にあるようにこの時に後の天智天皇が、数えで年16歳と『日本書紀』に登場する。