「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 白村江の戦い 御笠団と遠賀団

※ 白村江の戦い 御笠団と遠賀団
 (令和二年九月一八日(金)収録、第17回 古代史講座、主催 田川広域観光協会、撮影・編集 豊の国古代史研究会)より

■ 倭国本朝の阿毎多利思比孤 と 倭国東朝の推古天皇

阿毎多利思比孤 と 豊御食炊屋姫天皇

法隆寺金堂の釈迦三尊像と光背銘「法興元丗一年」
綾塚古墳(みやこ町勝山黒田)

法隆寺金堂 釈迦三尊像 光背銘
西暦622年、阿毎多利思比孤薨去

綾塚古墳(推定:推古天皇陵)
西暦628年、推古天皇崩御。
「科長大陵」に遷る。

 九州・大宰府の都にかつては置かれていたと思われる法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘に「法興元丗一年」と彫られている。
 その翌年に当たる西暦622年に、阿毎多利思比孤が薨去したというのが、日本に残されている数々の資料から読み取られている。

 一方、私が取り上げる倭国東朝側では、豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)の陵を綾塚古墳と推定している。その推古天皇は、西暦628年に崩御し埋葬された陵から後に「科長大陵」に遷るとある。

 後に「日出処天子」と言われた阿毎多利思比孤と綾塚古墳に葬られたと思われる推古天皇とは、ある程度同じ時代を過ごしている。
 それは、間違いない事である。それでよく通史の世界で聖徳太子の事が云われるが、私は、もう聖徳太子は挙げません。実際に存在していたのは、後の「日出処天子」=阿毎多利思比孤と呼ばれた男王である。
 阿毎多利思比孤は男王であり、推古天皇は女帝であり明らかに違う。綾塚古墳の別名が、「女帝」と書く女帝(にょたい)神社と呼ばれていたので、推古天皇の陵であったと思われる。
 勿論、大和王朝が近畿に遷った時に改葬されて、中は全部遷されたようであるというのが、私の推測である。

 

日出処天子 と 推古天皇 の 京師

図「大宰府」(条坊図)
冊子「福原長者原官衙遺跡」の地図

大宰府

椿市廃寺近くの国府推定地(須磨園)

 大宰府は、考古学の世界でも通史の世界でもこの美しい条坊制の都が、一地方の役所という事にされているが、それは違う。
 倭国本朝で、日本で最初の条坊制の平城京が、大宰府に造られていた。

 これに対して、倭国東朝の推古天皇の都は、行橋市の地図にある福原長者原遺跡(福原長者原官衙遺跡)に都が遷る前、その北の方にある椿市廃寺の隣、国府推定地(須磨園)にあったのではなかったかと考えている。
 まだ、まったく発掘されていません。

 

日出処天子 と 推古天皇 と 裴世清

(推古)十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐国號妹子臣曰蘇因高。卽大唐使人裴世淸・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世淸等。爲唐客更造新館於難波高麗館之上。
 六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客。

 推古16年(608)秋八月に、隋の裴世清を京の海石榴市の (ちまた) に迎えている。
 これは、裴世清が筑紫国の阿毎多利思比孤を訪れた後に秦王国(豊国)を訪れたという『隋書』俀國傳の記事と呼応する。

 隋王朝が、我が国に遣いを出している。この遣いの人物名が、裴世清である。

 『日本書紀』推古紀の16年夏4月に小野臣妹子が大唐より至ると書かれているが、大唐ではなく、正しくは隋であり、書き換えられている。
 小野妹子は、唐(正しくは隋)では蘇因高と名付けられている。以下、唐と書かれているのは、すべて隋の書き換えである。

 大唐の使人裴世淸と下客十二人が、小野妹子に従い筑紫に来る。難波吉士雄成を遣わして、大唐の客裴世淸らを召す。
 唐客の為に改めて、新館を難波高麗館之上に造ったと書いてある。これが、現在の福岡城敷地内から出た鴻臚館の事である。遺跡がしっかりと存在する。

 推古天皇16年=西暦608年に福岡城内の所に鴻臚館は、造られたことになる。

 唐客が筑紫に来たのは、夏4月であったが、4ヶ月経った推古16年(608年)の秋8月に隋の裴世清を京の海石榴市の衢(ちまた)に迎えている。
 『日本書紀』の海石榴市(つばきち)と書く場所は、間違いなく 豊前、行橋市の海が近くにあった所である。そこが、椿市廃寺の辺りであり、「京の海石榴市の衢(ちまた)」とあるからには、推古天皇の都の事である。そこに裴世清を迎えている。

*1

*1:景行天皇12年記事、海石榴市(つばきち)の左注に豊前の土地が記されている。

 この『日本書紀』推古16年秋8月の記事は、裴世清が筑紫国の阿毎多利思比孤を訪れた後に秦王国(豊国)を訪れたという『隋書』俀國傳の記事と呼応しているのである。

 『隋書』俀國傳によれば、その裴世清は筑紫国から推古天皇の都(国府推定地(須磨園))にやって来る途中に阿蘇山に寄っている。
 その阿蘇山の事を近年調べているとどうも香春三ノ岳の麓にある阿曽隅社の辺りの事だったと思われる。つまり、香春三ノ岳が、『隋書』俀國傳に書かれている阿蘇山ではないかというのは、阿曽隅社という宮の石碑には、阿蘇山の「阿蘇」と同じ字が彫られているからである。
 熊本県の阿蘇山へ寄ったのではなく、香春町の阿蘇山に寄ったのである。

 裴世清は、筑紫から香春町の阿曽隅社の所(阿蘇山)を通って、秦王国(豊国)である椿市廃寺近くの国府推定地(須磨園)にやって来たことになる。
 『日本書紀』の記事と対応している。