「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
飛鳥時代の遣隋使・遣唐使 - 天智系 と 天武系 - (有料配信の無料部分)
今日は、豊の国古代史研究会の動画配信で、「飛鳥時代の遣隋使・遣唐使 -天智系と天武系-」という題で話をする。
私の講演の前にお招きした国立天文台の谷川先生が、「推古・舒明紀の遣隋使遣唐使」と題で「天群」と「地群」という話をされた。
私もその内容を受けて、これまで述べてきた飛鳥時代の話、白村江戦の話、壬申の乱の話のこれらをすべてを総合し纏めていきたいた思う。
谷川先生は、「天群」と「地群」という概念を出されている。その谷川先生と20数年前にお会いした頃には、古田武彦氏の下で「天群」というのは九州王朝の事で、 「地群」とは奈良県側の近畿天皇家の事だいうお考えだったかと思う。
私はその後、古田会から離れ、やがてこの田川の土地を20数年近く探索し、その結果、天智天皇側の倭国東朝は豊国であり、天智天皇は田川の土地にいたという事を見出した。
私の自論では、福岡県の西側に筑紫君薩野馬、後の天武天皇が出てくる。豊国側には天智天皇がいたという倭国本朝と倭国東朝という概念で飛鳥時代を解き明かしている。
谷川先生の自論と私の自論を掛け合わせて、総合して一気に壬申の乱につながる仮定の話としての「飛鳥時代の遣隋使・遣唐使」の題で話す。
この講演に用いるスライドは、色分けした。「天智系」が倭国東朝の天皇家ということで赤字で示した。西の倭国本朝から天武天皇が出るので「天武系」という事で青字で色分けして示し、展開していく。
何度も紹介しているこの地図であるが、スライドの題名が少しずつ変わっている。この講演では「飛鳥時代の倭国首都圏地図」と変えている。
法興元(591)年から『海東諸国紀』にある天智天皇の白鳳元(661)年を自説である飛鳥時代として扱っていく。
福岡県の西側、筑紫側が倭国本朝でここから筑紫君薩野馬が出てくるから「天武系」で青字で表す。天智天皇が出てくる倭国東朝は主に田川に関する事柄は、「天智系」で赤字で表す。
最初にこの地図を頭に置いて下さい。
・崇峻天皇(五八七~五九二)
崇峻四年(591)、筑紫へ2万余りの軍隊が派遣される ⇒ 何をする為に行ったのか?
崇峻五年(592)、崇峻天皇暗殺される
・西暦591年、日出処天子が「法興」という年号を発布する(筑紫年号)
法隆寺金堂の釈迦三尊像にある光背銘に「法興元丗一年」が「辛巳」=西暦621年
同時代の豊国年号は、「端政(589)」が崇峻天皇、「告貴(594)」が推古天皇の時の年号
・日出処天子と推古天皇の2つ京師が福岡県に並び立つ
倭国本朝(筑紫側)は大宰府に、倭京元年(618)に完成した条坊制の京師跡
倭国東朝(豊国側)の京師は、行橋市の椿市近くの須磨園の国府推定地跡
『隋書』俀国(たいこく)伝は、あるいは本来、倭国(わこく)伝と思われるが、この隋王朝に倭国本朝(天武系)と倭国東朝(天智系)の両方の国が、遣いを出したという事が見受けられる。
▶ 隋書 俀国伝(抄録) ※ 有料動画の部分のスライドについて、タイトルのみ表示
・「俀国在百済新羅東南」、「其國境東西五月行南北三月行」、「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」
・「漢光武時・・・自稱大夫」、「安帝時・・・俀奴国」、「桓霊之間其國大亂」、「有女子名卑彌呼」
「齊梁代與中国相通」
・「開皇二十年、俀王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌」
・聖徳太子の正体(『宋史』日本國(王年代紀))
・「王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為和歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等」
・「有阿蘇山其石無故火起接天者」、「大業三年、・・・其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云」
・「明年 上遣文林郎裴淸使於俀国・・・都斯麻國・・・又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國」
・「俀王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎」
・「其王與淸相見大悦曰」
・「其後淸遣人謂其王曰 朝命既達請卽戒塗」、「此後遂絶」
・隋書琉球國伝(抄録)「倭國使」、「夷邪久國」
▶ 隋書と推古紀、舒明・皇極紀の倭国本朝と倭国東朝 ※ 有料動画の部分のスライドについて、タイトルのみ表示
・隋書と推古紀の遣使記事
・日出処天子と推古天皇と裴(世)清
・阿毎多利思比孤と豊御食炊屋姫天皇の崩御
・舒明天皇紀の倭国本朝と倭国東朝
・舒明天皇紀の倭国本朝と倭国東朝の京師
・皇極天皇紀の倭国本朝と倭国東朝
・皇極天皇紀の倭国本朝と倭国東朝の京師
▶ 孝徳・斉明・天智紀の倭国本朝と倭国東朝 ※ 有料動画の部分のスライドについて、タイトルのみ表示
・孝徳・斉明・天智紀の倭国本朝と倭国東朝(福永説)
・倭河邊行宮=宇治宮(上権様)
・漏刻跡(糸田町)、金村権現宮にあった石板、漏刻記事
・斉明・天智・天武紀の一年ズレと七年ズレ
・新説 日本書紀 飛鳥時代
▶ 白村江の戦に「御笠団」「遠賀団」が行った ※ 有料動画の部分のスライドについて、タイトルのみ表示
・『唐書』が記録する「白江の戦」
『旧唐書』の『劉仁軌(唐の武将)伝』
『旧唐書』(九四五年完)
『新唐書』(一〇六〇年完)
・『三国史記』が記録する「白江の戦」
『三国史記』(一一四五年完)
・御笠団と遠賀団
▶ 白村江戦戦後処理(天智天皇、日本国の建国) ※ 有料動画の部分のスライドについて、タイトルのみ表示
・白村江戦戦後処理
唐の羈縻政策 ① 筑紫都督府を置く
唐の羈縻政策 ② 倭国東朝に主権を授く
琴弾瀧
大皇弟(大海人皇子=筑紫君薩野馬)「増換冠位」
・日本国の建国 → 壬申の大乱
「倭国、更めて日本と号す」
「吉野宮に入りたまふ」
・白村江戦~壬申の乱逸話
興国寺「白鳳五年」
『襲国偽僣考』「中元・果安の二年号」
添田町諏訪神社「中元司」
※ 以上が、有料版の一部、無料版の部分の動画で説明されているスライドです。