「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 ここにあり 邪馬臺国!
 -卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-

※ ここにあり 邪馬臺国!
  -卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-
 (令和二年一一月一日(日)、主催 田川広域観光協会、於 田川文化センター大ホール)より

■ 邪馬臺国の女王卑弥呼
 (帯方郡への遣魏使、魏使、卑弥呼の鏡、卑弥呼の墓)

 

卑弥呼両国との関係
二三〇「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士万
 人を率ゐて海に浮び、夷州(推定狗奴国
 および亶州(推定東鯷国)を求む」
(三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
※ 夷洲から数千人
二三二「三月、呉使を遼東に遣はす。七月、
 (公孫)淵、使者二人を遣はし、呉王孫権
 に意を通じ、貂馬を献ず。権、悦び淵に叙
 爵す。」
(三国志呉書嘉禾元年)
二三三 倭の女王卑弥呼、使を遣はし来聘す。
(新羅本紀一七三)
二三七「淵、遂に立ちて燕王を自称し、魏の
 北方を侵す。」
(三国志魏書景初元年)
二三八「司馬懿、淵を破り、三国志魏書景初
 二年六月~八月その首を都に送る。海東平
 ぐ。」
※ 日本の『新撰姓氏録』では、帰化人系の氏族の
 一つである常世氏(もと赤染氏)は、公孫淵の
 子孫と称している。

 『魏志倭人伝』だけを読んだのでは、ダメである。『三国志』全部を読まないと魏と呉の対立、そして、魏と呉が倭国(女王国)に対してどのようなスタンスを取っていたのか。
 また、狗奴国に対しては、どのようなスタンスを取っていたのか。東鯷国に対しては、どのようなスタンスを取っていたのか。
 これが、政治的な要因であるから、スライドのタイトルに「卑弥呼と呉・魏両国との関係」と書いている。

 『三国志呉書』「孫権伝」黄竜二年、230年記事に書かれている通り、狗奴国は危なかった。狗奴国(夷洲)から数千人が呉の国へ連れて行かれた。

 次の『三国志呉書』嘉禾元年、232年記事に朝鮮半島の公孫氏が魏に就いたり、呉に就いたりと二股外交をしている事が書かれている。

 233年記事は、朝鮮側の『三国史記』新羅本紀一七三に「倭の女王卑弥呼、使を遣はし来聘す」とある。

 『三国志魏書』景初元年(237年)に公孫氏(淵)が魏に反乱を起こす。そして、景初二年(238年)に司馬懿仲達が、淵を破ったとある。
 公孫氏の子孫について、何故か『新撰姓氏録』に「帰化人系の氏族の一つである常世氏(もと赤染氏)は、公孫淵の子孫と称している」と書かれている。
 赤染さんと言えば、香春町の人はご存知でしょ。何処の神社の宮司さんですか? (香春神社の宮司さん)

 

卑弥呼両国との関係
二三八 遼隧の戦い(りょうすいのたたかい)は、中国
 の三国時代の戦乱。遼東で半独立政権を築い
 た公孫氏と魏が、遼隧(現在の遼寧省鞍山市海
 城市)
で武力衝突し、結果、遼東公孫氏は滅亡
 した。
  景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 
 求詣天子朝獻 太守夏遣吏将送詣京都
(魏志倭人伝)
※ 誤植が多い
二三九 至魏景初三年 公孫淵誅後 卑彌呼始遺
 使朝貢
(梁書)
  魏景初三年 公孫文懿誅後 卑彌呼始遣 使朝
 貢
(『北史』倭国伝)
 (神功)卅九年、是年也太歲己未魏志云 
 明帝景初三年六月倭女王、遣大夫難斗米等、
 詣郡、求詣天子朝獻。太守夏、遣吏將送詣
 京都
(『日本書紀』神功皇后紀)

 『魏志倭人伝』にある「景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 ・・・」の景初二年は、間違いである。中国側の2書、『梁書』と『北史』倭国伝に「景初三年」と書かれている。
 また、『日本書紀』神功皇后紀の割注に「明帝景初三年六月」とある。見たかったですね。日本書紀の編集者たちは、720年頃の唐王朝の宮廷の図書館にあった『三国志』を見ている。その『三国志』には、「景初三年」と書かれていた。
 今の版本の「魏志倭人伝」にある「景初二年六月」というのが、誤植である。

 

邪馬臺国のその後
二四〇 魏使邪馬臺国に至る
  正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉
 詔書印綬
臺・台(万葉仮名)→   ※ 仮借
「魏使のルート(水行十日)」

 翌240年に魏使が、邪馬臺国に至る。魏使が、帯方郡からきた距離は、10,700里であり、12,000里ではない。

 

帯方郡から女王國
分軄命官統女王而列部
 魏略曰、從帶方、循海岸水行、暦韓國、
到拘耶韓國、七十餘里、始度一海、千餘里至
馬國
。 其大官曰卑拘、副曰卑奴。無良田、南北
市糴。南渡海、至一支國、置官至對同。方可三
百里。又渡海、千餘里至末盧國人善捕魚
浮沒水取之
。東南五百里、至伊都國、戸万餘、
置曰爾支、副曰洩溪觚柄渠觚。其國王皆統屬王
女也。
文身點面猶稱太伯之苗
 魏略曰…自帶方女國万二千餘里
「古遠賀湾図(新北津)」

 『魏志倭人伝』より前に書かれた『魏略』で、魏使のルートを辿ると「對馬國」とあり、「對海國」とは書かれていない。
 次は、「一大國」ではなく、「一支國」と書かれている。

 先ほどの地図で宗像が「末盧國」、そこから「伊都(いつ)國」へ至る。そこに「爾支(にき)」がいるという事で、鞍手町の新北へ魏使は来ている。

 

對馬國
御魂神社(旧村社大明神様)
【旧地】
  長崎県対馬市厳原町豆酘字龍良山628
 御祭神 (鷹)皇産靈尊
 由緒
  橿原の朝皇産靈尊の五世の孫津島県直
 建弥己々命に詔して天神
 地祇を祭らせ給ふ処にし
 て神功皇后三韓に向ひ給
 ふ時行宮を定められ御親
 ら戦捷祈願し給ひし社な
 り、皇産靈を祀る社は
 全国にも稀
にして佐護の
 神皇産靈を主基の宮、本
 社を悠紀宮
として上古由
 緒ある社にして顕宗天皇
 3年4月、上より神田十
 四町を献上せられた。
高御魂神社(対馬)

 対馬(對馬國)に高御魂神社がある。祭神が、高(鷹)皇産靈尊である。高皇産靈を祀る 社は全国にも稀。英彦山も稀。

 

一支國
律令制 壱岐郡田河郷
 旧田河村、現在の芦辺町の芦辺浦・諸吉大
石触・諸吉東触・諸吉南触・諸吉本村触・
吉仲触
・諸吉二亦触と深江東触・深江南触・
深江本村触・深江平触・深江栄触深江鶴亀
を含む地域に比定される。
原の辻遺跡
御祖神社(諸吉仲触)
祭神 (鷹)皇産靈尊
絵「原の辻遺跡」
高御祖神社(壱岐)

 壱岐には、平安時代に壱岐島の東側に田河郷と言われた土地がある。旧田河村である。天武天皇が、「鷹羽国」を「田」と「河」の「田河」に変えたその同じ「田河」の地名が、壱岐島にある。

 田河郷と言われた土地の深江栄触・深江鶴亀触という場所から出た遺跡が、原の辻遺跡である。ここが、『魏志倭人伝』にある一支國である。
 だから、魏使は何処に来たのか? 田河郷(壱岐)から田河(田川郡)へ来た。田河郷の中心の神社が、高御祖神社であり、祭神が高(鷹)皇産靈尊である。

 

末盧國はどこか 福永説
 また筑紫末羅(まつら)の縣玉嶌(たましま)の里に到り坐して、
其の河邊に御食(みおし)し時、當に四月(うづき)上旬(はじめ)なりき。
爾くして其の河中の磯に坐して御裳の糸を拔き
取り、飯粒(いいぼ)を以ちて餌と爲し、其の河の年魚(あゆ)
其の河の名を小河と謂ふ。また其の磯の名を勝門比賣(かちどひめ)
謂ふ
釣りき。故、四月の上旬の時、女人(おみな)裳の
糸を拔き、(いいぼ)を以ちて餌と爲し、年魚(あゆ)を釣るこ
と今に至るまで絶えず。
(仲哀記)
 北到 火前國松浦縣 、而進 食於玉嶋里小
河之側 。

(神功皇后摂政前紀)
帯日売 神の命の 鮎釣ると 御立しせりし
 を誰見き
(山上憶良)
 この「石」の正体について、『鬼の日本史』にこ
う記す。古代の戦で、捕虜になった敵の首長は手足
を切断
され、やがて失血死した。これを「石コロに
」と言い、今日の「殺す」の語源となった。

 『古事記』仲哀記の「筑紫の末羅(まつら)の縣」と書かれている記事にでてくるのが、「勝門比賣(かちどひめ)」という石の名前である。

 ところが、『日本書紀』神功皇后紀では、「火前國松浦縣」となっているが、どう考えても『古事記』の「末羅縣」、『日本書紀』の「松浦縣」のどちらも『魏志倭人伝』にある「末盧國」の事である。
 しかし、『古事記』は、「筑紫」。『日本書紀』は、「火前國」となっている。何ですか? この差は。場所が、遷っている。

 

末盧國はどこか 福永説
伊都国宮地嶽神社の祭神
 勝門姫・勝村大神・勝頼大神
  三柱の神は、社伝に、慶応3年(1867
 年)に
 宮地嶽
 神社

 り分霊
 を勧請
 したと
 ある。
「宮地嶽神社」
「宮地嶽神社(糸島)」

 『古事記』に書かれている「勝門比賣」を捜して、十数年。糸島半島から見つけ出した。伊都国宮地嶽神社、こちら糸島の読み方は、伊都(いと)国ですね。その祭神が、勝門姫とハッキリ書かれている。
 勝門比賣は、神功皇后に倒された熊襲の姫である。

 福津市の宮地嶽神社から遷されたのが、慶応3年(1867年)とあるから、この年までは、福津市の宮地嶽神社の祭神も間違いなく、勝門姫であった。それを明治政府が、神功皇后に切り替えた。

 

末盧國はどこか 福永説
宗像市田熊石畑遺跡(宗像高女跡)
Google Earth「田熊石畑遺跡(いせきんぐ宗像)」
「発掘時の遺構」
「武器形青銅器」
「宗像市釣川」

 末盧國は、宗像市の田熊石畑遺跡(宗像高女跡)である。今は、いせきんぐ宗像である。魏使は、釣川を入って来てここに上陸した。

 

伊都国へ 東南陸行五百里
魏使のルート(末盧國から邪馬台国へ陸行)
古遠賀湾図

 女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察
せしむ。諸国、之を畏れ憚る。常に伊都国に治し、国中
に於いて刺史の如き有り。

 王使を遣はして京都・帯方郡・諸韓国に詣らしめ、
及び郡の倭国に使するや、皆に臨みて捜露し、
文書・賜遺の物を伝送して
女王に詣らしめ、差錯
するを得ず。
(中略)

 末盧國から伊都國へは、東南陸行500里。私は、以前、「宗像が末盧國なら、邪馬臺国は田川だ」と『魏志倭人伝』を解いた。だから、伊都國の場所は、鞍手である。

 

地図「中国鏡の出土分布」
『魏志倭人伝』「五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利」
「写真」

内行花文鏡Ⓒ福智町

「写真」

赤烏元年鏡Ⓒ山梨県

卑弥呼の鏡=内行花文鏡

 卑弥呼がもらった銅鏡100枚は、ハッキリ内行花文鏡と書いた。この内行花文鏡は、後漢鏡にして魏鏡である。

 東鯷国側の鏡は、山梨県から赤烏元年鏡が出土している。魏のライバル呉の年号の鏡である。写真の内行花文鏡は、福智町から出土している。地図で見ても遠賀川流域に多く出土している。
 卑弥呼が、貰った銅鏡の枚数は、100枚である。出土した内行花文鏡は全国の合計数で、まだ、100枚を超えていない。しかし、三角縁神獣鏡は、すでに500枚、600枚以上出土している。三角縁神獣鏡が、卑弥呼が魏から貰った鏡だという訳が無い。

 

倭国東鯷国
一九六 曹操、献帝を戴き、屯田制を施く
    (この後、東鯷人、魏都来貢)
二〇五 遼東の公孫氏、朝鮮に帯方郡をおく
二〇八 赤壁の戦、中国三分の形勢となる
二二〇 魏、九品中正をおく、曹丕(文帝)献帝を廃し、
    魏の帝位につき、漢滅ぶ
二二一 蜀の劉備、帝位につき、蜀漢と号す
二二九 呉王孫権、呉の帝位につき、建業に都す
二三〇 孫権、将軍衛温・諸葛直を夷州(狗奴国)
    州(東鯷国)
に遣わす
二三八 魏、遼東の公孫氏を亡ぼす(呉の赤烏元年銘神
    獣鏡
山梨県に出土)
二三九 倭国(邪馬臺国)卑弥呼、魏に朝貢
二四〇 魏、倭国卑弥呼に「親魏倭王」印を仮授す
    (東鯷国と断交か)
二四四 呉の赤烏七年銘神獣鏡兵庫県に出土
二六三 魏、蜀漢を亡ぼす
二六五 司馬炎(武帝)晋をおこす、魏亡ぶ
二六六 倭国(邪馬臺国)臺与、晋に朝貢
二八〇 晋、呉を亡ぼして中国を統一す
二九七 史家陳寿没(『三国志』「魏志倭人伝」を編む)

 東鯷国も、196年の曹操の時代に魏の都へ朝貢している。その後、240年に倭国(邪馬臺国)の卑弥呼が、「親魏倭王」となり、魏が東鯷国と断交かと推測している。

 244年にも呉の年号である赤烏七年銘神獣鏡が兵庫県から出土している。したがって、日本の東西で魏の鏡と呉の鏡が同時に出ている。
 東に呉の鏡、西に魏の鏡が出ている事だけでも邪馬臺国に場所は決まりである。

 

邪馬臺国のその後
二四七年 其の(正始)八年、太守、王頎官に到
 る。倭女王卑弥呼狗奴国王卑弥弓呼素より和
 せず。、載烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻
 撃する状を説く。塞曹掾史、張政等を遣わし、
 因って詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄
 を為りて之を告諭す。
(魏志)
『魏志倭人伝』「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩」
航空写真「赤村内田の前方後円型地形」

 247年の記事に「詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮」とあり、この時に私たちは、女王卑弥呼が狗奴国に負けたと考えている。負けたからと言って邪馬臺国が滅んだのでない。最前線辺りで負けた責任をとって死んだようである。

 この赤村にある前方後円墳型地形が、卑弥呼の墓ではないかと考えている。この写真は、1970年代の航空写真であるが、周溝(堀)がる。左側は土砂崩れで埋まっているが、前方部の右側には、池が残っている。
 周溝跡があり、前方後円形の地形である。造出(つくりだし)に当る場所から土器片が出土している。祭祀が行われていたと思われる。また、この場所には、山神様の碑が建てられていたと言われている。
 これは、古墳でしょ。自然地形ですか?

 

邪馬臺国のその後
 倭迹迹日百襲姫命大物主神の妻となった。神は
昼に現れないで夜だけ来た。倭迹迹日姫は翌朝に神
の麗しい姿を見たいと言った。大神は翌朝姫の櫛箱
に入って居よう。私の姿に驚いてはならないと答え
た。翌朝櫛箱を見ると麗しい小さな蛇がいた。姫は
驚き叫んだ。大神はたちまちに人の姿となって妻に
言った。「お前は私に恥をかかせた。私はお前に恥
をかかせてやる。」と。神は空に上り三輪山(香春
岳)
に帰った。姫は仰ぎ見て後悔し、ドスンと座っ
た。すると箸に陰部をついて死んだ。そこで大市に
葬った。
 時の人はその墓を名
付けて、箸墓といった。
 邪馬臺国の女王卑弥呼
大物主をつまり鷹羽の
を祭った巫女王だった。
 狗奴国王卑弥弓呼に敗
れたのだろうか、卑弥呼
は責任を問われ自決した
ようだ。
Google Earth「赤村内田の前方後円型地形」

 『日本書紀』にある箸墓の由来である。倭迹迹日百襲姫命が、箸に陰部をついて死んだから、箸墓といった。大物主は鷹羽の神であるから、倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼であるなら、やはり大物主を祭った巫女(ふじょ)王であった。
 この前方後円型地形が、卑弥呼の墓とすれば、北の方角に大物主を祭った三輪山、つまり香春岳があり、南の方角に大物主を祭った鷹巣山(高住(鷹巣)神社)がある。

 私がいうこの卑弥呼の墓は、倭迹迹日百襲姫命の箸墓であるならば、南北に大物主が祭っている。見事なロケーションである。奈良県の箸墓古墳と三輪山の位置関係では、当てはまらない。

 

邪馬台国はなぜ狗奴国に敗れたか
 弥生中期 鉄剣の時代
「弥生時代鉄器総覧」

図は、川越哲志『弥生時代鉄器総覧』

 

 弥生時代の鉄鏃(銅鏃)の出土数
「弥生時代の鉄鏃(銅鏃)の出土数表」

 

 北九州の主な鉄鏃・銅鏃出土地
「北九州の主な鉄鏃・銅鏃出土地」
「鉄鏃」

 卑弥呼が、狗奴国に負けた理由は、鉄鏃の差である。出土している鉄鏃の数が、菊池・山鹿の方が圧倒的に多い。田川は、ほとんど無い。0である。田川は、発掘されていないので、まだ、出土していない。鞍手・北九州・行橋で少しだけ出土している。
 弓矢の数の差である。空中戦で負けた。