「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ ここにあり 邪馬臺国!
  -卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-
 (令和二年一一月一日(日)、主催 田川広域観光協会、於 田川文化センター大ホール)より

 ここにあり 邪馬臺国!
 -卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-

「英彦山・彦御山宝印・卑弥呼」
田川古代史フォーラム
令和二年一一月一日(日)
主催 田川広域観光協会
於 田川文化センター大ホール
 記紀万葉研究家
 神功皇后紀を読む会 主宰
 全邪馬連九州支部副支部長
       福岡県本部長
         福永晋三
ここにあり 邪馬臺(やまと)国!
 -卑弥呼が祭った鷹羽の神々、
     始まりは『ひこ山』から-

 

はじめに

● 戦後史学の源流 - 神武 ~ 神功は架空

はじめに 戦後史学の源流 - 神武~神功は架空

本「古事記及び日本書紀の研究」(津田左右吉)

 GHQに占領された時に「神を語るな」と大日本帝国が命令された。戦前、津田左右吉氏は「古代史を科学的に捉え、八代の天皇の実在に疑義を呈した不敬罪発禁本」という事で有罪にされたが、戦後史学は、GHQの命令とこの津田氏の説を基軸にリスタートした。

 したがって、日本史の教科書には、神武天皇も神功皇后も日本武尊も天照大御神も誰も出てこない。この人達(神々)が、全員遠賀川流域にいらっしたと言い続けたのである。

 

● 戦後史学からの脱却!& 倭国 = 豊国説‼

戦後史学からの脱却!& 倭国 = 豊国説‼

① GHQの占領政策(「神を語るな」)から解放こと。
② 戦後史学の「邪馬台国畿内説」や「大和王朝近畿発祥説」から解放
 されること。
筑豊・田川の神々を尊重し、筑豊の古伝承を大切にすること。
筑豊の人々が自分と自分の土地の遺跡に自信と誇りを取り戻すこと。
筑豊が元気になれば、古代史が正しい姿に戻る!

倭国=豊国説・邪馬台国田川説(福永説) 
 ① 記紀は豊国中心の史書(倭国~日本国の歴史)
 ② 英彦山から沖ノ島までの遠賀川流域こそ倭国(邪馬臺国)
 武・卑弥呼・神功・天智豊国側の王
 倭の五王阿毎多利思比孤(日出処天子)・天武筑紫側の王
 壬申の乱豊国での戦い
 平城京桂川町にあった → 延暦三年(784)長岡京に遷都

NEW

 「倭国=豊国説・邪馬台国田川説」のニューバージョンが、「⑥ 平城京は桂川町にあった。」である。

 つまり、奈良時代に倭王朝は、まだ、福岡県にあった。延暦三年(784年)に桓武天皇が長岡京に遷都した。この時に始めて筑豊にあった王朝が近畿に遷ったのである。

 

倭国=豊国説・邪馬台国田川説(福永説)

・・・ 日本書紀の成立、飛鳥時代の倭国首都圏地図、隋書俀国伝(抄録)、隋書と推古紀の遣使記事
    阿毎多利思比孤豊御食炊屋姫天皇の崩御、皇極天皇紀倭国本朝倭国東朝の京師
    白村江の戦い、御笠団遠賀団、白村江戦戦後処理、中臣氏の神事と六月晦大祓
    日本国の建国→壬申の大乱日本国首都圏地図

 

● 福永説の日本書紀の成立

 壬申の乱は、天武天皇が勝利した。つまり、筑紫君薩野馬が勝ったのである。これまでの日本書紀の成立とは全く違う福永説が、以下の通りである。

日本書紀の成立(福永説)
 壬申の大乱は豊君の天智天皇筑紫君薩野馬
すなわち後の天武天皇
との直接の戦いであった
とした。天智天皇は玄界灘に入水し天武が勝利
した。
 勝者天武天皇(=筑紫君薩夜麻)が、修史を
企図する。その編修方針こそ「削偽定実」であ
った

 分析の結果は、「豊国の神々と天皇の歴史を
削り
筑紫国の神々と天皇の歴史を定める」こ
とと判明した。
 なお、古事記藤原京(福原長者原遺跡第二
期遺構)
の周辺で編まれ、日本書紀平城京
嘉穂郡桂川町)
の周辺で編まれたようだ。
 本講演は、古事記豊国の歴史)の時系列を
縦糸に、日本書紀の空間軸(筑紫国豊国)を
横糸にして編み直した、福永独自の古代史観(
鷹羽の神々から武・卑弥呼・日本武尊・神功
皇后までの歴史
)を述べるものである。

 「天皇は玄界灘に入水した」としたのは、万葉集からである。

 ここまでが、序段である。

 

● 田川 の語源は 鷹羽

二、田川の語源は鷹羽
 天武が隠した鷹羽の神々
豊前州田川郡龍之鼻権現縁起
木村晴彦『香春・英彦山の歴史と民俗』所収
 筑紫の国は身ひとつにして面よつあり、
其ひとつを豊国豊比咩とも又は豊日別婦
ともいへり、その国に郡八あり第一乃郡
彦の山あり、田心姫命います故に其所を
心乃国
と云しとかや、其山に三乃あやしき
ありてつねにすめり、此鳥今の龍が鼻
と云へる所にやゝもすれば、かけり行ぬ、
其あいだ、鷹の羽乃落ちたる所かならず幸
あれば
とて、落ちるかぎりの里を又鷹羽郡
と云
ける
が、白鳳の比おひよりや、田川郡
と名付たる
といへる事は、田と河とのたれ
る所なればなり、
白鳳(元年673 ~ 十三年685)
豊日別婦
 豊日別国魂大神(大物主)の妻

 天武天皇によって、「鷹羽」が「田河」に書き換えられたという事が、香春町の龍之鼻権現の伝承に残されていた。

 

・・・ 弥生時代の実年代、神代の倭人の記録、卑弥呼の時代の東アジア神代の倭人の居住地
    神代~神功の豊国(宋史 日本國(王年代紀))、彦御山宝印-天御中主(古事記 別天神五柱)

 

● 弥生時代の 倭国 = 豊国 年表

弥生時代の倭国=豊国の歴史



 

 

 

 



 

 

 

 


660


300


 


 


100


 


14


57

 
 

大物主 八千矛の時代

 
 

火カグツチ(火男)
八俣の大蛇(八幡神)「天叢雲剣」

 
 

伊弉諾尊 細型銅剣の時代

 
 

遠賀川式土器 立屋敷遺跡

 
 

すずり、鋳造鉄斧 下稗田遺跡
前漢式鏡、刀子、絹 立岩遺跡

 
 

素戔嗚尊出雲王朝を創建

 
 

天照大神笠置山に降臨、倭奴国
天の金山の鐵から鏡製作

 
 

ウマシマデの東遷
後漢の光武帝金印を下賜



 

 

 

 







1C
 

107
 

121
 

146
189

200
 

239
 

260
 

320
  

 
 

(漢)委奴国栄える

 
 

倭面上国王帥升生口献上
金銀錯嵌朱竜紋鉄鏡下賜か

 
 

神武天皇即位邪馬台国創始

 
 

倭国大乱

 
 

卑弥呼共立

 
 

帯方郡(魏)に遣使
遠賀川流域に後漢式鏡

 
 

日本武尊「草薙剣

 
  

神功皇后征西

 

・・・ 倭成す大物主日子山の起源、倭国の始まり-倭成す大物主、英彦山豊前坊住(鷹巣)神社
    鷹羽の神々の正体、最初の王朝交替 おのころ島の発見、弥生中期 銅剣の時代
    古遠賀湾沿岸の最古の稲作

・・・ 下稗田遺跡の硯と鉄器、下稗田遺跡の石器、天満倭国=倭奴國の成立(①鉄製品を造った国家
    倭奴国と楽浪郡の里程、万葉仮名「」(日本国語大辞典)、伊都能知和岐知和岐弖
    倭人周里を用いた、天満倭国=倭奴國の成立(②墨で漢字を書く国家)、五七年の倭奴国

・・・ 邪馬臺国の成立 東征前史 彦瀲尊まで、『魏略』中の火国の記録、縄文湖の水が引いた後の
    弥生遺跡、吾平山陵、第一次東征 鉄を求めて免田式土器の分布

・・・ 第二次東征、鉄を求めて邪馬臺国の成立、立岩遺跡(倭奴国の遺跡)鉄剣・鉄矛・刀子・絹
    弥生時代の絹、倭奴国の読み方 いぬこく(万葉仮名)→ ぬ・ヌ弥生時代の倭国
    鞍手郡誌の東征コース、筑紫に凱旋

・・・ 魏志倭人伝中の後漢代の記録、卑弥呼の時代の東アジア倭国大乱時の「冢」か(1)、(2)
    倭国大乱時の「冢」か、邪馬臺国のその後

・・・ 卑弥呼両国との関係、邪馬臺国のその後、帯方郡から女王國に、對馬國一支國
    末盧國はどこか(福永説)、伊都国へ(東南陸行五百里)、卑弥呼の鏡=内行花文鏡
    倭国東鯷国、箸墓、邪馬台国はなぜ狗奴国に敗れたか、弥生時代の鉄器・鉄鏃

・・・ 狗奴国王卑弥弓呼の逆襲、二代女王臺與(とよ)、新説 日本書紀 景行天皇、二人の日本武尊
    鞍手の日本武尊の本貫地、大足彦忍代別天皇豊国北伐、景行帝の北伐路(一)、(二)

・・・ 倭建命天皇倭国防衛戦、伊吹山=足立山(霧が岳)、葛原八幡、清水原 居醒泉(ゐさめがゐ)
    ヤマトタケルと白鳥伝説能褒野上野、三重のまがり、古宮八幡宮の神幸祭り
    白鳥神社田川伊田)、鎧塚古墳(鞍手町)、臺與の遣晋使 生口とは何か

 

● 神功天皇(神功皇后)の征西

十一、神功皇后の征西
 4世紀前半、遂に東鯷国が挙兵した。すでに饒速
日尊の本流と融合したと推測される東の三角縁神獣
鏡圏を形成する強国が、征西を開始した。
 気比の宮を発した神功天皇神功皇后)は、海人
族を従え、但馬播磨の国を南下、瀬戸内海に出る。
牛窓で新羅の王子を退治し、吉備の鬼の城の温羅(うら)
滅ぼし、西進する。遂に穴門豊浦宮(下関市幡生の
生野神社)
を落し入城。
 邪馬台国の王の一人、岡県主の祖熊鰐(くまわに)が帰順。続
いて伊都(いつ)主の祖五十迹手(いそとて)が帰順。美奈宜神社や平
塚川添遺跡などに拠った羽白熊鷲を殲滅遠賀の地
物部氏を招集し、ニギタ津(鞍手町新北)を出航
筑紫末羅県(宗像大社・宮地岳神社周辺)の勝門比
売を滅ぼす
。筑後川を渡って紀武内宿祢とともに
を攻撃、桜桃沈輪を滅ぼす。豊国に戻り、淡海の
大津の宮(旧豊津町)
を滅ぼし、御所ヶ谷(神籠石、
旧京都郡、現行橋市)
に拠る忍熊王(日本武尊の孫)
を殲滅。邪馬台国滅亡
 川崎町池尻大海の地に宮殿を構えたようだ。
江戸時代初めまで広大な「帝階八幡神社」があった
との伝承が残っている。

 神功皇后は、気比の宮から出て来て、豊国を全部征服した後に川崎町大海に江戸時代まであった「帝階八幡神社」の場所に宮殿を建てて豊国を治めたようである。

 

神功皇后の戦略と魏使の経路
地図「福岡県内の神功皇后の戦略ルート及び魏使のルート図」

 魏使のルートと同じ土地を神功皇后は、征服して行った。

 

● 壬申の乱の結果/おわりに

十二、再び壬申の乱
箸陵の下の決戦 六七二年七月四日
 三輪君高市麻呂置始連莵上道に当たっ
て、箸陵の下で戦う。近江軍に大勝。
 勝ちに乗って、鯨の軍の後ろを断ったので、
鯨の軍はすべて解散して逃げ散った。は辛
うじて逃げることができた。
天武天皇十五年(六八六
 六月の戊寅(十日)に、天皇の病を卜ふに、
草薙劒に祟れり。即日に、尾張国熱田社
(鞍手町)
に送り置く。
朱鳥元年六八六
 九月丙午(九日)に、天皇の病、遂に差え
ずして、正宮に崩りましぬ。
 鷹羽の神々を正しく祭らなかったせいで、天武
天皇
はついに鷹羽の神々に祟られて薨去したので
あろう。
 皇室の菩提寺とされる京都の泉涌寺には歴代天
皇の位牌が並ぶが、天武系の八代七人の天皇の位
は無い。

 『日本書紀』の中で、「箸陵」は2ヶ所に出てくる。最初は、先ほどの崇神紀である。2ヶ所目が、ここの天武紀である。
 「上道に当たって、箸陵の下で戦う」とある。

 「鯨の軍」とあり、近江朝の将軍の「鯨」と言った。滋賀県近江の琵琶湖には、鯨はいない。鯨がいるのは、海である。

 686年に天武天皇が病になった理由が、「草薙劒に祟れり」とある。草薙劒は、現在も天皇家の位を象徴する三種の神器である。草薙劒は、日本武尊が佩いた劔であり、俣遠呂智が持っていた劔である。何故、天武天皇は祟られるのか? 
 筑紫君だからである。鷹羽の神々を消したからである。

(結論)
 ・鷹羽の神々を正しく祭らなかったせいで、天武天皇はついに鷹羽の神々に祟られて薨去したのであろう。
 ・皇室の菩提寺とされる京都の泉涌寺には歴代天皇の位牌が並ぶが、天武系の八代七人の天皇の位牌は無い。

 現在の天皇家は、豊君でいらっしゃる。というのが、福永説である。

 

壬申の大乱 箸陵の下の決戦
上つ道(柿下大坂 ~ 小柳)
中つ道(仲哀峠 ~ 中津原)
下つ道(味見峠 ~ 採銅所)
近つ飛鳥(京築)~ 遠つ飛鳥(田川)
地図「香春町」
Google Earth「赤村内田の前方後円型地形」

 「上道」と書かれていた道が、地図の通り実際にある。近つ飛鳥(京築)と遠つ飛鳥(田川)を結ぶ3本の道の1本である。
 上つ道は、大坂越えて赤村の小柳までつながる道である。その場所にある前方後円型地形が、箸墓であるならば、ここで大海人皇子の軍は、近江朝に決定的な勝利を得たのである。

 

おわりに
 長年、古事記日本書紀の舞台は主に豊国
だと主張してきた。
 だが、記紀自体が「鷹羽國」を隠し続けて
きたようだ。平安王朝はことに「九州隠し
を企て実行してきた。
 千数百年の長きにわたって「田川の歴史」
は隠されたのである。
 江戸に遷都?した明治政府は、再び鷹羽の
神々
の宿る日子山に「神仏分離令」を強行し、
国家神道を打ち立てた。天武天皇の浄御原令
以来の「鷹羽の神々潰し」が実行された。
 太平洋戦争後、GHQの占領政策(「神を
語るな」
)によって、鷹羽の神々は再三再四
消された。
 私は日本史をそう捉えている。

 

悠久の歴史を秘めた日子山
写真「英彦山」

ご清聴ありがとうございました

 悠久の歴史を秘めた日子山。始まりは『ひこ山』からである。