「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 ここにあり 邪馬臺国!
 -卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-

※ ここにあり 邪馬臺国!
  -卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-
 (令和二年一一月一日(日)、主催 田川広域観光協会、於 田川文化センター大ホール)より

■ 神武天皇は、鉄を求めて宇佐方面から豊葦原中洲へ
 向かう(第二次東征は「日を背にして戦う」)

 

 三年間、竈山の高千穂の宮で再軍備した神武は、118年に第二次東征を開始する。筑紫から一旦、日向に戻り、山越えをして宮崎の海に出て北上する。

第二次東征
一一八年春二月、第二次神武東征開始。「日を背にし
 て戦う神策」を実行に移す。
  日向から速吸門豊予海峡)に至り、珍彦を道案
 内とする。菟狹安心院妻垣神社)に至り、一柱騰
 宮
に入る。(日本書紀要約)
  数ヶ月、
 野嶽
求菩提
 山
)に通い、
 「大天狗
 (豊前坊)及
 び「八咫烏
 (求菩提山八
 天狗
)一族と
 同盟を結ぶ。
  この間、
 野の国樔(玖
 珠)
部らを巡
 撫。
 六月、
天皇獨り、皇子手研耳命と軍を帥ゐて進む。
 既にして皇師中洲に趣かんと欲す。」
「求菩提山八天狗像」

頭八咫烏

求菩提山八天狗像

 『日本書紀』を要約した内容に場所を私が比定しただけである。

 「6月、・・・中洲に趣かんと欲す」とある中洲は、葦原中国(あしはらのなかつくに)、豊葦原中国である。そこは、遠賀湾の中である。神武は、そこへ向かうのである。

 

第二次東征
  七月、頭八咫烏の案内で英彦山を下る。
  八月、菟田の穿邑(川崎町)に至る。菟田縣
 の血戦に勝つ。
  九月、天香山(香春岳)攻略にかかる。
(日本書紀)
川崎町天然記念物「中元寺川・甌穴群」

川崎町天然記念物
  中元寺川・甌穴

 

第二次東征 鉄を求めて
 二人得至其山取土來歸。於是、天皇甚悅、
乃以此埴、造作八十平瓮天手抉八十枚、嚴瓮
、而陟于丹生川上、用祭天神地祇。則於彼菟田
川之朝原
、譬如水沫而有所呪著也。天皇又因祈
之曰「吾今當以八十平瓮、無水造飴。飴成、則
吾必不假鋒刃之威、坐平天下。」乃造飴、飴卽
自成。
(タガネ)=束煉か  鏨・鑽=③やじり。叩鉄か
神武は製鉄法を得た?
 時、椎根津彥、見而奏之。天皇大喜、乃拔取
丹生川上之五百箇眞坂樹、以祭諸神。自此始有
嚴瓮之置也。時勅道臣命「今、以(鷹)皇産
靈尊
、朕親作顯齋。用汝爲齋主、授以之號
。而名其所置埴瓮爲、又火名爲香來雷
水名爲罔象女、糧名爲稻魂女、薪名爲
、草名爲野椎。」 
伊都
※ 神武が鷹皇産靈の現身
 十月、赤銅の八十梟帥国見丘岩石山に破る。
(日本書紀)

 「第二次神武東征 鉄を求めて」という今日は新説である。

 何故か知らないが、『日本書紀』に変な記事がある。椎根津彥と弟猾(おとうかし)を老父老嫗(おきなおみな)の姿に変装させて天香山から土を取って来る。
 それで、(神武)天皇は悅にで、・・・丹生川上に陟(のぼ)り、・・・菟田川の朝原で何をしたのか?というと、
 「無水造飴」とあり、水無しでタガネを作ろうとした。神武紀では「飴」は、「あめ」と読むのではなく、「たがね」と読む。
 

 飴「タガネ」の語源は、「束煉(たがねねり)か」という。「たがね」という別の漢字に「のみ」という字に当る「鏨」と「きり」という字に当る「鑽」がある。その「たがね:鏨・鑽」を『国語大辞典』を引くと「③やじり」とあり、語源説は「叩鉄か」とある。これは、鍛造鋳鉄の事である。

 神武天皇は、後の狗奴國の地からやって来て、天香山を攻略する前にそこの埴土を使って何か知らないが、鉄を作った? だから、スライドに「※ 神武は製鉄法を得た?」とした。

 さらに神武天皇は、喜んで次のようなお祭りをする。高(鷹)皇産靈尊に神武天皇自身がなって、顕斎(うつしいわい)をする。
 それで、名前を付けていく。嚴媛(いつひめ)。嚴瓮(いつへ)。嚴香來雷(いつのかぐつち)。嚴罔象女(いつのみつはのめ)。嚴稻魂女(いつのうかのめ)は豊受気媛神である。嚴山雷(いつのやまつち)。嚴野椎(いつののづち)である。『日本書紀』はこの「嚴」という漢字に変わっているが、『古事記』にあるこの「伊都(いつ)」であり、『魏志倭人伝』の「伊都國」の「いつ」である。

 神武天皇が東征した場所は、豊国であり、絶対に奈良県には行っていない。ここに出てくる敵の名が、赤銅の八十梟帥である。
 「赤銅」とあるから銅が採れる天香山、香春三ノ岳で麓に採銅所という所がある。

 

邪馬臺国の成立
 十一月、立岩
丘陵
飯塚市
に籠る磯城彦
攻めようとして、
は川と海の
混ざる広大な沼
を徒歩で渡り、
片島飯塚市
に上陸、遂に
熊野の神邑
を攻撃し、磯城
を滅ぼす。
天磐盾(立岩
神社)
に登り」、
東征成就を天祖
に祈願する。
 十二月、長髄彦との最後の決戦に臨む。
「十有二月の癸巳の朔丙申に、皇師遂に長髓彦
 を撃つ。」

 苦戦を強いられたようだが、辛勝し、終に長髓彦
殺す。
倭奴国滅亡し、邪馬臺国成立。
「立岩神社」

 神武東征が成就し、倭奴(いぬ)国滅亡し、邪馬臺(やまと)国が成立した。

 紀元前660年に最初に大物主が、倭(やまと)国を建国しているから、神武天皇は、第二次倭(邪馬臺)国を建てている。
 倭奴(いぬ)國が、第二次倭国であるならば、神武天皇は、第三次倭(邪馬臺)国を建てたという事である。

 豊国は、農作物・海の幸・金属に至るまでの資源が豊富であり、技術もあり非常に富み栄えた国であった。だから、豊国という。
 その豊国では、何度も王朝交替が起きたというのが、福永説である。

 

立岩遺跡(倭奴国の遺跡)
 鉄剣・鉄矛・刀子・絹
「前漢式鏡」
「甕棺」
「鉄刀・鉄剣の絵に絹」

 高島先生に逆らい、立岩遺跡は、倭奴(いぬ)国の遺跡であると考える。
 立岩遺跡から出土した写真にある鉄刀の付け根には、絹が巻かれていた。弥生時代の絹である。

 

弥生時代の絹
「弥生時代の絹が出土している遺跡地図」

 邪馬台国の会がまとめた絹が出土している遺跡の地図である。弥生時代の絹が出土している遺跡は、すべて九州である。
 奈良県から出土している絹は、ギリギリ古墳時代である。

 

倭奴国の読み方 いぬこく
 (万葉仮名)→ ぬ・ヌ
求菩提山縁起
「求菩提山縁起」

 「倭奴国」の読み方は、絶対に「いぬ国」である。「奴」という漢字から平仮名「ぬ」、片仮名「ヌ」という字が生まれた。

 また、『求菩提山縁起』には次のように書かれている。
 「神武天皇鋒端を揺し、中国を平らげ、威奴の邪神を撥はしめ、九州を政(おさ)めんとす」の文句に威力の「威」がある。「威奴」は、「いぬ」である。
 次に「人皇廿七代繼體(継体)天皇の御宇、此の縣の國民威奴が岳の凶暴なる鬼を懼る。」にある「威奴が岳」は、現在の「犬ヶ岳」である。「威奴 」は、「いぬ」という読みに決まっている。福永説であり、個人的見解である。

 

弥生時代の倭国
Google Earth「福岡県Flood Maps」

筑紫国

豊国

 

邪馬臺国の成立
一二〇年
「ここに媛女あり。こをの御子と謂ふ。
 そのの御子と謂ふ所以は、三島湟咋の
 女、名は勢夜陀多良比売、その容姿麗美
 しかりき。故、美和の大物主神、見感で
 て、その美人の大便まる時、丹塗矢に化
 りて、その大便まる溝より流れ下りて、
 その美人のほとを突きき。ここにその美
 人驚きて、立ち走りいすすきき。すなは
 ちその矢を将ち来て、床の辺に置けば、
 忽ちに麗しき壮夫に成りぬ。すなはちそ
 の美人を娶して生みし子、名は富登多多
 良伊須須岐比売命
と謂ひ、亦の名は比売
 多多良伊須気余理比売
と謂ふ。こはその
 ほとといふ事を悪みて、後に名を改めつ
 るぞ。故、ここを以ちての御子と謂ふ
 なり」とまをしき。
(古事記)
※ 火処(ホド) 踏鞴(タタラ) 製鉄

 神武天皇は、東征成就後に香春の地に入って、どうしたか?

 美和の大物主神の子孫の富登多多良伊須須岐比売命。またの名は、比売多多良伊須気余理比売を正妃に迎えた。
 ここに「ほと」といふ事を悪みて、名を改めたとあるが、その「ほと」については、吉田正一氏の説に賛同して、「火処:ホド」である。
 『日本書紀』では、「タタラ」は「踏鞴」の字で書かれている。まさに、製鉄である。タタラ製鉄があった。大物主の子孫や物部氏がタタラ製鉄をやっていたという名残りだと思っている。

 

鞍手郡誌の東征コース ④
(以下略)
l 一、若杉山(同篠栗町) いづれも天皇の靈跡地
k 一、神武原(同)
j 一、蚊田の里(粕屋郡宇美町) 荒木の女志津姫
    皇子蚊田皇子を生み奉った地
i 一、田中庄(筑紫郡大野村) 荒木武彦奉迎地
h 一、寶滿山(竈門山) 登山して御母君の靈位を
    祭り給ふ
g 一、牛頸(同) 土蜘蛛打猿打首の故地
f 一、山口(同上穂波村) 皇軍戰勝休養の地
e 一、大分(同) オホギタと讀む、天皇の神靈を
    祭る
d 一、高田(同大分村) 田中熊別の奉迎地
c 一、日の原(同) 天皇に因む地名
b 一、姿見(同)
a 一、潤野(嘉穂郡鎮西村) 天祖を祭られた所

 『鞍手郡誌』に載っている『射手引神社』の社伝に残る神武東征のコースである。神武天皇は、豊国を制圧した後に一旦、筑紫の寶滿山(竈門山)に帰る。その時に粕屋郡宇美町の蚊田の里で、蚊田皇子が生まれている。

 

、筑紫に凱旋
「射手引神社社伝の神武東征コース地図」