「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 ここにあり 邪馬臺国!
 -卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-

※ ここにあり 邪馬臺国!
  -卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-
 (令和二年一一月一日(日)、主催 田川広域観光協会、於 田川文化センター大ホール)より

■ 景行天皇(狗奴国王卑弥弓呼)、鷹羽國へ攻め込む
 (大足彦忍代別天皇の豊国北伐)

 

十、狗奴国王卑弥弓呼の逆襲
 勝ちに乗じた狗奴国王卑弥弓呼はついに豊国を攻め
た。
 唯有 殘賊者 、一曰 鼻垂 、妄假 名號 、
山谷響聚、屯 結於菟狹川上 。二曰 耳垂 、
殘賊貪婪、屢略 人民 、是居 於御木川上 。
三曰 麻剥 、潛聚 徒黨 、居 於羽川上 。
四曰 土折・猪折 、隱 住於緑野川上 、獨恃 
山川之險 、以多掠 人民 。

(日本書紀 景行天皇
 景行天皇云々。九月移 陣于吾勝山 、以征 
田河之残賊 。々乗 風雨 、夜襲 皇軍 。
皇軍追撃、盡誅滅焉。天皇大喜云々。良哉、此國
土地沃壌、百姓殷富、宜 自今號 此國 謂 
 也矣。蓋因 鷹之靈異 也云々。

我鹿八幡神社古縁起)
  景行天皇日本武尊は敵同士だった。草薙剣を佩いた
日本武尊
が敗れ、景行天皇(卑弥弓呼)が勝利した。
だが、景行天皇鷹羽の神を敬い、「鷹羽國」とまで名
付けた。
  魏志倭人伝によれば、「其の(正始)八年、卑弥呼
の宗女臺與
、年十三なるものを立てて王と為す。
中遂に定まる
」とある。鷹羽國には国難が続いたようだ

 『魏志倭人伝』に卑弥呼の死後、また乱が起こったと書かれている。狗奴国王の卑弥弓呼が再び豊国へ攻め込んできた。

 それが、『日本書紀』景行紀に書かれている。最初に倒した相手が、菟狹川上の鼻垂であるが、菟狹と言えば、第二次神武東征の時に入った一柱騰宮があった土地(安心院妻垣神社)である。
 菟狭津彦・菟狭津媛の子孫は、どうなったのか? この景行紀で、鼻垂は、熊襲とされていて、景行天皇の敵である。神武天皇を支援した土地が、賊に変わっている。王朝交替が、激しい。

 次が、御木川上の耳垂。高羽川上の麻剥とあり、書き換えが漏れて「高羽」とある。「田」、「川」の田川と書かれていない。元は「鷹羽」である。それを『日本書紀』は、天武天皇の命令で「鷹」の字は、書き換えられた。
 次の土折・猪折は、田川の伝承にも出てくる。

 田川の伝承である『我鹿八幡神社古縁起』に景行天皇は、田河の残賊を征伐したとあるが、その国を「鷹羽國」と言ったとある。
 その「鷹之靈異」について抜き出した。

 狗奴国王の卑弥弓呼は景行天皇であり、日本武尊は敵同士だった。『日本書紀』に書かれているように親子ではなかった。日本武尊は、三種の神器の剣である草薙剣を佩いているが、景行天皇は草薙剣を佩いてない。
 何故、ここに気が付かないのか? 『日本書紀』を正確に読めば解る。

 

二代女王臺與(とよ)
卑彌娥惑翻叶群情臺與幼齒方諧衆望
(翰苑)
 後漢書曰安帝永初元年、有倭面上國王師升至。
桓・遷之間、倭國大乱、更相攻伐、歴年無主
有一女子名曰卑弥呼死更立男王國中不服
更相誅殺、復立卑弥呼宗女臺與、年十三爲王、
中遂定。其官有 伊支馬、次曰弥馬升、次曰
弥馬獲、次曰奴佳鞮之也。
(謝承後漢書)
絵「ヤマトタケル・川上梟帥」
絵「ヤマトタケル・倭姫命」

 『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼の宗女臺與がたつが、その間の経緯を見ていくと主人公は、日本武尊のようである。

 絵は、日本武尊は女装して、川上梟帥を殺す場面、草薙剣を振るっている場面、叔母の倭姫命である。

 

景行天皇
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
 ところで、「緑野の川上」の土蜘蛛については、日本
書紀と異なる現地伝承がある。
 「添田町史」の「緑川の話」である。
 景行天皇の皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)の軍勢
が、彦山川の上流に勢力をはる土折居折の軍を破って
血みどろ川と呼ばれるようになったという。
 土折居折が日本武尊から討たれたという話は田川市猪
にもあり、居折を切った太刀を洗ったという太刀洗の
井戸
が、町の出入口の道路そばにある。
絵「ヤマトタケル・川上梟帥」
「田川市猪膝の大刀洗の井戸」

 田川市猪膝にある大刀洗の井戸は、日本武尊が猪折を切った太刀を洗ったという伝承である。田川の伝承はおかしい。『日本書紀』では、景行天皇が猪折を征伐したと書かれている。

 何故、同じ田川の熊襲、猪折を倒した相手が入れ替わるのか? これで、田川の伝承のスゴサが解る。

 

二人の日本武尊
卑弥呼、死更立男王、國中不服、更相誅殺。
(謝承後漢書)
 於是日本武尊、解髮作童女姿、以密伺川上梟
帥之宴時、仍佩劒裀裏、入於川上梟帥之宴室、
居女人之中。川上梟帥、感其童女之容姿、則携
手同席、舉坏令飲而戲弄。于時也更深、人闌、
川上梟帥且被酒。於是日本武尊、抽裀中之劒、
川上梟帥之胸。
 未及之死、川上梟帥叩頭曰「且待之、吾有所
言。」時日本武尊、留劒待之、川上梟帥啓之曰
「汝尊誰人也。」對曰「吾是大足彥天皇之子也
、名日本童男也。」川上梟帥亦啓之曰「吾是國
中之强力者也、是以、當時諸人、不勝我之威力
而無不從者。吾、多遇武力矣、未有若皇子者。
是以、賤賊陋口以奉尊號、若聽乎。」曰「聽之
。」卽啓曰「自今以後、號皇子應稱日本武皇子
」言訖乃通胸而殺之。故至于今、稱曰日本武
尊、是其緣也。
※ 田川の男王から鞍手の男王に授号

 女装した日本武尊が、川上梟帥の胸を劒で刺す場面の記事であるが、劔で刺されて殺さる側の川上梟帥が、刺す側の日本童男に向かって、「これから後、日本武皇子を名乗りなさい」という。

 名乗り。号を授けるというのは、上位の者が、下位の者に与えるという行為である。何故、倒される川上梟帥が、倒す側の日本童男に向かって、「日本武皇子」と名乗れと言うのか?
 この記事の話もおかしい。このことから、スライドに「二人の日本武尊」という新説のタイトルに書いた。

 

鞍手の日本武尊の本貫地
 小狭田彦の孫小磐削ノ御剣王日本武尊と小
狭田彦の娘常磐津姫の間に生れた人である。父
君の日本武尊に従って東征し、駿河の焼津では
特に軍功があった。その賞として祖父景行天皇
より武部ノ臣の称を頂いたほどである。御剣王
は帰国の後『兎角に父の尊の慕わしくて、尺ノ
岳及び新北尊の戦勝を祈り玉ひし地なりに尊を
祭り玉ひ云々』とある。」
 「御剣王の御子天ノ磐代武部ノ種日子王は父
に劣らぬ武勇の人であったが、『御子磐木那賀
ノ王を嘉麻の碓井の邑主となし、御子天賀那(かな)(がわ)
賀御ノ王 彦ノ王
新北の神主となし、御子津々
舞岳(尺岳)日本武尊小狭田彦御剣王合祀の
神主となし、御子玉御木ノ王を穂波の郡司とな
し、御子山戸部ノ王を聞(企救)の司となし、
御弟羽羽戸部ノ王を羽(田川の主とし、御
弟八ツ田大戸部ノ王を暗崎(黒崎)の村主とな
し玉ふ』云々とある。」
(鞍手町史)
※ 臺與の即位前の「豊国火国の争い」か

 田川の日本武尊と鞍手の日本武尊というように考えるしかなかった。『日本書紀』に載っている川上梟帥が、田川の日本武尊であった。
 つまり、卑弥呼が死んだ後の直ぐの男王だったとして、その男王を倒しにきたのが、鞍手の日本武尊と考えると話が解りやすい。鞍手の日本童男に敗れたのである。

 その鞍手の日本武尊の子や孫については、上記の『鞍手町史』に書かれている通りである。

 

絵「剣岳城」
写真「八剱神社 上宮」

 鞍手の日本武尊は、魏志倭人伝中の
伊都国王=一大率ではないか。

 剣岳城 

Ⓒ鞍手町教育委員会

←日本武尊の本貫地
 鞍手町 八剱神社(上宮)

 鞍手の日本武尊は、鞍手町中山の剣岳に居た。『魏志倭人伝』の中の伊都国王、一大率と考えている。田川の日本武尊がナンバーワンで、鞍手の日本武尊はナンバーツーということは、一大率であった。
 ナンバーツーの日本武尊が、ナンバーワンの日本武尊を倒した。

 

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
景行天皇
 265年ごろ、「東に行き、反乱者を討伐する
ため」、剣岳を発した日本武尊が、途中、伊勢神
宮(天照宮)
を拝む。
 伯母の姫命から草薙剣(三種の神器)を受け
取った。
 熊襲国に到った日本武尊は、川上梟帥の夜宴に
女装して紛れ込み、川上梟帥を刺殺する。
 羽の川上の土折・猪折を指すようだ。
 そうであるなら、土折猪折は初めに景行に帰順
し、後に日本武尊に誅殺されたのかもしれない。
 こうして「熊襲の酋長ら」を倒して日本武尊
熊襲国を平定する。
 実は、田川の失地を回復した。

 したがって、日本武尊が川上梟帥を倒しているのであれば、日本武尊は景行天皇に奪われた田川の失地を回復したのではないかと『新説 日本書紀』で書いた。

 

大足彦忍代別天皇豊国北伐
 十二年秋七月、熊襲反之不 朝貢 。八
月乙未朔己酉、幸 筑紫 。九月甲子朔戊
辰、到 周芳娑麼 。
 爰有 女人 、曰 神夏磯媛 、其徒衆
甚多、一國之魁帥也。聆 天皇之使者至 
、則拔 磯津山之賢木 、以上枝挂 八握
劒 、中枝挂 八咫鏡 、下枝挂 八尺瓊 
、亦素幡樹 于船舳 、參向而啓之曰「願
無 下兵 。我之屬類、必不 有 違者 
、今將歸德矣。唯有 殘賊者 、一曰 
 、妄假 名號 、山谷響聚、屯 結於
菟狹川上 。二曰 耳垂 、殘賊貧婪、屢
略 人民 、是居 於御木川上 。三曰 
麻剥 、潛聚 徒黨 、居 於高羽川上 
。四曰 土折猪折 、隱 住於緑野川上 
、獨恃 山川之險 、以多掠 人民 。

 景行天皇が、狗奴国王の卑弥弓呼だとして、征伐していった場所が『日本書紀』に書かれている。それを次の地図で辿る。

 

景行帝の北伐路(一)

Google Earth「宇佐市~田川・香春」

 この地図に示した通り景行天皇は北伐をしている。奈良県から豊国を征伐に来たのではない。菊池・山鹿方面から日田を通って、豊国を北に向かって征伐している。

 

大足彦忍代別天皇豊国北伐
 天皇遂幸 筑紫 、到 豐前國長峽縣 
(行橋市長峡)、興 行宮 而居、故號 
其處 曰 也。  
 卽留 于來田見邑
 (小倉南区朽網)
權興 宮室 而居之。仍與 群臣 議之曰
「今多動 兵衆 、以討 土蜘蛛 。若其
畏 我兵勢 、將隱 山野 、必爲 後愁 
。」則採 海石榴樹 、作 椎爲 兵。因
簡 猛卒 、授 兵椎 、以穿 山排 草
、襲 石室土蜘蛛 而破 于稻葉川上 、
悉殺 其黨 、血流至 踝。故、時人其作 
海石榴椎 之處曰 海石榴市
 (行橋市椿
市)
、亦血流之處曰 血田 (小倉南区津
田)
也。復將 討 打猨 、侄度 禰疑山 
(小倉南区貫山)

 次に豐前國長峽縣に到るとあり、ここの「京」の起こりが書かれている。この豐前國長峽縣は、行橋市長峡である。

 來田見邑は、小倉南区朽網。海石榴市は、行橋市椿市。血田は、小倉南区津田。禰疑山は、小倉南区貫山である。それを次の地図で辿る。

 

大足彦忍代別天皇豊国北伐
Google Earth「行橋市・北九州市小倉南区」
 景行帝の北伐路(二)

 

大足彦忍代別天皇豊国北伐
 天皇、初將 討 賊、次 于柏峽大野 
、其野有 石、長六尺・廣三尺・厚一尺五
寸。祈之曰「朕得 滅 土蜘蛛 者、
將蹶 茲石 、如 柏葉 而舉焉。」因蹶
之、則如 柏上 於大虛 。故、號 其石 
曰 蹈石 也。

景行天皇紀)
日向または肥後の国(狗
 奴国)
から出た大帯日子
 命(卑弥弓呼)
は、火国
 を北上し
宇佐 → 御木
 (豊前市)→ 高羽(田川)
 → 緑野(添田町小緑)→
 來田見(北九州市朽網)

 明らかに 豊国北伐を行っ
 ている。
帝踏石(北九州市小倉南
 区朽網
西二―二八)が現実
 に存在。
写真「帝踏石」

帝踏石

 次に柏峽大野という所で、大きな石を蹴ったら柏の葉のように舞ったので、その石を名付けて、蹈石というとある。
 その蹈石は、北九州市小倉南区朽網西二―二八にある帝踏石である。このような大きな石が、蹴って舞いますかね。勿論、神格化された話である。