「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 ここにあり 邪馬臺国!
 -卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-

※ ここにあり 邪馬臺国!
  -卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-
 (令和二年一一月一日(日)、主催 田川広域観光協会、於 田川文化センター大ホール)より

■ 弥生時代前期、神代の倭人の記録と居住地

弥生時代の実年代
「国立歴史博物館による弥生時代の実年代」

 少し考古学に戻る。「国立歴史博物館による弥生時代の実年代」を見てみる。

 我々世代が高校で教わった時(表の従来の年代)には弥生時代が始まったのは、紀元前500年頃であったとされていた。

 国立歴史博物館の先生方が、九州北部から出土している土器をC14年代測定だったと思う方法で計測した結果、弥生時代の始まりが約500年位早まってしまった。

 今までの考古学の結果は、たぶん、奈良県の土器片年からだと思われる。弥生時代の始まりの実年が変わって来た。
 九州北部の土器片を計測し直したところ、弥生時代の始まりが500年遡る結果となった。

 その「国立歴史博物館による弥生時代の実年代」の表に私が、紀元前660年の赤線を追加した。「倭成す大物主」というのが、私の最近の新説である。

 

神代の倭人の記録
論衡
「周時天下太平 倭人來獻鬯草」  
(異虚篇第一八)
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」  
(恢国篇第五八)
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯
 草 食白雉服鬯草 不能除凶」  
(儒増篇第二六)
『漢書』地理志
「然東夷天性柔順、異於三方之外、故
 孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷
 有以也夫。樂浪海中倭人、分爲
 餘國
、以歳時來獻見云。」  
(燕地)
「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國」  
(呉地)

 中国側の史書に弥生時代の倭人の記録が書かれている。『論衡』の「異虚篇第一八」の「周時天下太平 倭人來獻鬯草」とある。
 周の時とは、先ほど弥生時代の実年代が遡らされた紀元前1000年頃の王朝の時である。その時天下太平で倭人が来て鬯草を獻ると書かれている。

 『漢書』地理志には、「故孔子悼道不行」とあるように孔子が日本列島に来たかった事が書かれている。次にある文句が重要である。「樂浪海中有倭人、分爲百餘國」にある倭人とは、豊国の倭人・北部九州の倭人である。
 もう一つ大事な文句が「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國」である。この倭人と東鯷人の国の示す地図が、次の「卑弥呼の時代の東アジア」の地図である。

 

卑弥呼の時代の東アジア
後漢時代の地図(朝鮮半島・西日本を含む)

 倭国は、北部九州を中心とした国である。『魏志』韓伝に三韓の南、倭と接すると書かれているから、三韓の南に位置するのは、北部九州に決まっている。
 この時代から邪馬臺国(倭国)が、近畿に存在する訳が無い。近畿の土地には、何という国があったかと言えば、それは東鯷国である。

 この時代の日本列島には、倭国と東鯷国という2つの国があった。西暦220年まで漢の時代であり、その時には、卑弥呼は既に即位(共立)されている。

 

神代の倭人の居住地
Google Earth「福岡県Flood Maps」

筑紫国

豊国

 

神代 ~ 神功の豊国
宋史 日本國(王年代紀)
 其年代紀所 記云、初主號 天御中主 。
次曰 天村雲尊 、其後皆以 尊爲 號。次
天八重雲尊、次天彌聞尊、次天忍勝尊、次
波尊
、次萬魂尊、次利利魂尊、次國狭槌尊
角龔魂尊、次汲津丹尊、次面垂見尊、次
常立尊
、次天鑑尊、次天萬尊、次沫名杵尊
伊弉諾尊、次素戔烏尊、次天照大神尊、次
正哉吾勝勝速日天押穂耳尊、次天彦尊、次
、次彦瀲尊、凡二十三世、並都 於筑紫日
向宮
 。
 彦瀲第四子號武天皇 自筑紫宮入居大和
州橿原宮 即位元年甲寅(前六六七)當周僖
(恵)王時也 次綏靖天皇 次安寧天皇 次
懿德天皇 次孝昭天皇 次孝(安)天皇 次
孝靈天皇 次孝元天皇 次開化天皇 次崇神
天皇 次垂仁天皇 次景行天皇 次務天皇
 次仲哀天皇 國人言爲鎮國香椎大神 次
功天皇 開化天皇之曽孫女 又謂之息長足姫
天皇
 國人言爲太奈良姫大神

 元時代に書かれた『宋史』日本國(王年代紀)の書き出しが、「其の年代紀の記す所に云く」とあるように王の記録である。
 平安時代の東大寺の奝然という僧が、北宋の皇帝に献上した日本の記録である。『日本書紀』とは異なり、最初が天御中主である。その次が、天村雲尊とある。
 少し省略するが、伊弉諾尊が出てくる。王年代紀であるから伊弉諾尊も神代の王であった。次が、素戔烏尊とあり、素戔烏尊も王であった。

 次が凄い。天照大神尊が出てくるから、次天照大神尊と素戔烏尊は、姉弟では無いという記録が東大寺にあったらしい。

 次に出てくる正哉吾勝勝速日天押穂耳尊は、英彦山の北岳に祭られた神である。一つ後に炎尊とあるが、天彦火々出見命と思われる。
 次の彦瀲尊は、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命で神武天皇の父である。

 神武天皇の所に「筑紫宮から大和州の橿原宮に入り居す」と書かれているこの「大和」が私には、豊国としか思えないというのが自論である。それが、「倭国=豊国説」である。
 「即位元年甲寅」とあるので、これも日本書紀とは異なり、紀元前667年になる。

 綏靖天皇から垂仁天皇まで続き、その次の次景行天皇を青字で記した。火国から出た天皇である。成務天皇の次の仲哀天皇は、「香椎大神と國人が言う」とある。

 神功天皇を緑色交じりで記した。天皇と書かれており、神功は田川の土地では、確かに天皇として扱われる。また、息長足姫天皇というと天皇と書かれている。『播磨國風土記』の中にも息長足姫天皇と出てくる。
 神功天皇をもう一つ太奈良姫大神ともいうのが、凄い。田川の人にとって、身近に「奈良」という地名がいっぱいある。西田川高校も奈良ヶ丘にありますね。神功天皇の別名に「奈良」が付く太奈良姫大神である。

 

彦御山宝印 - 天御中主
古事記 別天神五柱
 天地初めて發けし時、高天原に成り
し神の名は、天之御中主神、次に
(鷹)御産巣日神
、次に神産巣日神

この三柱の神は、みな獨神と成りまし
て、身を隱したまひき。
「彦御山宝印」

 『古事記』の冒頭に「天地初めて發けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神、次に高(鷹)御産巣日神、次に神産巣日神、この三柱の神は、・・・」とあるが、天武天皇が、「鷹」の字を隠すために二柱目の「鷹」御産巣日神を「高」御産巣日神に書き換えた。
 英彦山は、彦御山宝印には三羽の鷹が描かれているように「鷹」御産巣日神が祭られていた。

 これが、私が言う鷹羽の神々である。『古事記』の冒頭に出てくるという事は、倭国の始原の神々であり、英彦山の神々である。
 今は確かに 伊弉冉尊、伊弉諾尊、天忍穂耳尊の三柱の神々となっているが、それ以前、つまり天武天皇に消される前は、『古事記』の冒頭のこの三柱の神々であったと思われる。
 私が、高校生の時から数えれば、30年近くこの田川の土地に来て求めてきた『古事記』の冒頭の神々は、英彦山の鷹羽の神々であった。