「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 ここにあり 邪馬臺国!
 -卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-

※ ここにあり 邪馬臺国!
  -卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-
 (令和二年一一月一日(日)、主催 田川広域観光協会、於 田川文化センター大ホール)より

■ 饒速日(天照大神)が、素戔嗚尊の出雲王朝を倒し、
 倭奴國が成立(鉄製品を造り、漢字を使う国家)

 

下稗田遺跡の硯と鉄器
 この10月9日に古代のすずりについての専門家、國學
院大學客員教授の栁田康雄さんがとうとう豊国から国内最
古級のすずりを再発見された。
 下稗田遺跡から出土していた約50点の砥石を調査、そ
の中から3点のすずりを確認された。
 これまでは、主に筑前方面でのすずりの再確認が行われ
ていたが、ついに豊国から最古級のすずりが確認されたの
である。
 他方、飯塚市の立岩遺跡から、数点の刀子が出土してい
る。刀子は小刀のことであるが、高島忠平さんによれば、
木簡などに墨で字を書き、誤ったらその個所を削るための
道具ということだ。
 同遺跡からは、「前漢式鏡」も出土しており、遠賀川流
から京築方面にわたって、確実に「紀元前から墨で漢字
を書く文化
」があったことになろう。

上:すずり
下:鋳造鉄斧

「下稗田遺跡の硯」
「下稗田遺跡の鋳造鉄斧」

 行橋市の下稗田遺跡から出土していた硯を國學院大學客員教授の栁田康雄さんが調査して、紀元前150年の硯を確認された。
 飯塚市の立岩遺跡からは、刀子(小刀)が出土している。その刀子は、高島忠平さんによれば、木簡などに墨で字を書き、誤ったらその個所を削るための道具と言われている。

 立岩遺跡からは「前漢式鏡」も出土しており、したがって、紀元前に遠賀川流域から京築方面にかけて、「墨で漢字を書く文化」があったという事になろう。
 これは、私が言っているのはない。考古学の先生方が調べた事である。

 また、下稗田遺跡からは、鋳造鉄斧も出土しているという事は、硯を使い墨で文字を書き、鉄の斧を使う人々がいた。
 先ほどの大物主の説明にも「やりがんな」が出てきた。凄い国である。現在の電気を除けば、紀元前の時代に江戸時代までの文化にすでに到達している。この「やりがんな」は仕上げの為の鉋である。

 

下稗田遺跡の石器
「今山の石斧と立岩の石包丁および北九州市域石器の分布」

 行橋市教育委員会の弥生時代の下稗田村では、石器も使われている。今山の石斧や立岩の石包丁である。また、北九州方面にも石器がある。

 

七、天満倭国=倭奴國の成立
前一四 饒速日(天照大神)、
   葦原瑞穗國の笠置山に降臨
「発掘『倭人伝』」下條信行氏原図
「今山の石斧と立岩の石包丁の分布地図」
「笠置山」
「天照宮(宮若市磯光)」

 天満倭国(てんまんわこく)は、「そらみつやまと国」、あるいは「あまみつやまと国」と言い、イコール「倭奴(いぬ)國」である。

 私の方では、饒速日が天照大神である。その饒速日が降臨とある豐葦原瑞穗國の「豐」は、美称ではない。笠置山のある土地は昔、豊国であり「豐」は実字である。饒速日は、そこへ降臨したわけである。

 天照大神が祭られているから天照宮であり、そこに饒速日降臨の伝承が残されている。正式には、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊であり、『先代旧事本紀』に出てくる神である。
 日本書紀紀年の垂仁天皇十六年とあるから紀元前14年にあたる。

 

天満倭国=倭奴國の成立
 ① 鉄製品を造った国家
 素戔嗚尊を倒したのが天照大神こと饒速日尊
あろう。宮若市宮田町磯光の天照宮に祭られる男
神である。
 『古事記』天の岩屋戸伝承にこうある。
 かれここに天照大御神見畏こみて、天の
石屋戸
を開きてさし隠りましき。ここに
天原
皆暗く、葦原の中つ国悉に闇し。これ
に因りて、常夜往く。ここに万の神の声は
、さ蝿なす満ち、万の妖悉に発りき。…
の金山の鐵を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎ
て、伊斯許理度売の命に科せて、鏡を作ら
しめ
、…天の香山の真男鹿の肩を…(手力
男の神)、速須佐の男の命に千座の置戸
負せ、また鬚と手足の爪とを切り、祓へし
めて、神逐ひ逐ひき。
 「千座の置戸」とは何枚もの板状の石のことで
あり、素戔嗚尊は重い石を身体の上に置かれて圧
殺されている。
 彼の一族は再び現在の出雲に流されたようだ。

 素戔嗚尊を倒したのが天照大神こと饒速日尊であろうとしたのは、先ほどの『宋史』日本国(王年代紀)にあった「次伊弉諾尊、次素戔烏尊、次天照大神尊」の順とも一致している。

 スライドのサブタイトルを「鉄製品を造った国家」とした通り、天岩屋戸伝承の記事に「天の金山の鐵を取りて、・・・鏡を作らしめ、」とあり、天岩屋戸事件の時に鉄の鏡を作っている。

 

倭奴国と楽浪郡の里程
倭國
憑山負海鎭馬臺以建都
 後漢書曰、朝(鮮)東南大海中、
依山島居、凡百餘國。自武帝滅 朝鮮、
使譯通漢於者州餘國、稱王、 大倭王
邦臺

 樂浪郡儌其國万二千里。甚地大
較在會稽東。与朱雀・儋耳相近。
(謝承後漢書)
樂浪郡 → 樂浪郡
(隋書俀國傳)
(さかい、とりで
「范曄後漢書」
※ 樂浪郡徼は、樂浪郡治の謂いか
伊都能知和岐知和岐弖
イツのちわきちわきて
(古事記上巻 忍穂耳命邇々芸命 天孫降臨
『翰苑』倭国条の第一句「憑山負海鎭馬臺以建都」

 「後漢書曰」とあるのは、『謝承後漢書』の事である。西暦250年頃に書かれた後漢書であり、『魏志倭人伝』より前に出来ている。

 この後漢書で、「其大倭王治邦臺」と書かれているが、『范曄後漢書』では、「其大倭王居邪馬臺國」となっている。

 原文は『翰苑』であり、「憑山負海鎭馬臺以建都」とあるのは、四六駢儷(べんれい)文で「邪馬臺」の「邪」が落ちて書かれている。

 重要なのは、楽浪郡からの里程である。「樂浪郡儌、去其國万二千里」と書かれている。楽浪郡から倭国までが、12,000里であるから、平壌からたぶん香春・田川までが、12,000里である。

 これより前の時代の天孫降臨において『古事記』に「伊都能知和岐知和岐弖」と書かれている。「伊都」は「いつ」であり、「いと」ではない。
 忍穂耳命と邇々芸命の天孫降臨である。忍穂耳命は、英彦山に祭られている神である。

 

万葉仮名「(日本国語大辞典)
万葉仮名「都」(日本国語大辞典)
万葉仮名「都」(日本国語大辞典)

 万葉仮名で「つ」は、「都」がトップである。

 

伊都能知和岐知和岐弖
イツのちわきちわきて
(古事記上巻 忍穂耳命邇々芸命 天孫降臨
地図「原の辻貿易」(弥生中期後半の交易活動)

楽浪式土器伝播図(倭国)

 楽浪式土器伝播図を見る限り、奈良県まで伝わっていないという事は、倭国の場所は、北部九州(豊国)である。
 また、伝播のルートは、後の卑弥呼の時代に魏使が来たルートである。

 

倭人周里を用いた
歩と里の概念
孝徳紀
 「五十戸とす」
  歩 (ふたあし)
   (五〇歩
  尺 (新字源)
= 一・三五㍍
= 六七・五㍍
= 二二・五cm
『史記』 管晏列伝 司馬遷
晏子 「六尺に満たず」
御者 「八尺の大男」
一・三五m
一・八m
秦  歩 (ふたあし)
  里 (三〇〇歩)
= 一・三五㍍
= 四〇五㍍
  歩 (ひとあし)
   (三〇〇歩
= 〇・二四㍍
= 七二㍍
絵「1歩=2跬(跬:半歩、一足)」

 漢文に強い私が抜き出した結論である。1歩は、2跬(足)の6尺である。中華人民共和国から出てきた古い物指しで、1尺は、22.5cmであるから、1歩(6尺)は、1.35mとなる。
 次に大事なのは、「五十歩百歩」という諺である。周の時代には、50歩が1里だったようである。『論衡』に「倭人は周へ鬯草を獻った」とあったように周の1里、50歩で計算すると、67.5mになる。1里は、非常に短い長さである。

 この1里(50歩)を秦の始皇帝は、6倍したから1里(300歩)となり、1里が405mの長い里となった。

 先ほどの楽浪郡から12,000里を1里=67.5mで計算すると平壌から香春までの丁度の距離、810kmである。

 

天満倭国=倭奴國の成立
 ② 墨で漢字を書く国家
 これらに関連するのが『後漢
書』倭国伝の次の一節である。
 建武中元二(五七)年、
倭奴国奉貢朝賀す。使人自
大夫と称す。
 倭国の極南界を極むるや
、光武賜うに
印綬を以てす。

 安帝の永初
元(一〇七)
年、倭国王帥
升等、生口百
六十人を献じ
請見を願う。
「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」
金印「漢委奴国王」
封泥「漢委奴国王」

 後五七年に後漢の光武帝より金印を貰ってきた時代である。まだ、実用的な紙はまだ無かった時代であり、木簡に墨で文字を書いていた。
 その木簡をなめし革(糸)で綴じる。簾のようにクルクルと巻き、橋に封泥(ふうでい)という粘土を置いて、その上から貰ってきた金印を押して封緘 (ふうかん)すれば、見事に国書となる 。
 後漢と倭奴國では、このようにして国書のやり取りをしているという事は、倭奴國の王と宮廷の官人達は、漢字・漢文を書くことが出来た。

 次、安帝の永初元年(一〇七年)の時貰ってきたのが、昨年に話題になった魏の曹操の墓から出土した鉄鏡と同じ鉄鏡。日田から出土したとされる(が、ちょっと怪しい)写真の美しい鉄鏡を貰ってきたのかなと推測をしている。今はまだ、夢物語である。また、中国大陸からの盗品の鏡だという可能性もある。

 

五七年の倭奴国
饒速日命天香語山命
「香春岳」

天香山

耳成山

畝尾山

 後五七年に後漢の光武帝に朝貢した時の倭奴國の王は、誰か? 『先代旧事本紀』にある饒速日命の末っ子で、天香語山命と考えている。
 私にとって、天香山といえば、香春三ノ岳が絶対に動かない。私の仮説は、この定点が動けば全部崩れる。『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』に天香山からは、金が採れた。銅が採れたと書かれている。
 香春三ノ岳からは、今も金も銅もギリギリ採れる。奈良県の天香具山からは、金も銅も採れない。天香山は、香春三ノ岳である。

 天香語山命の兄に可美真手命(うましまでのみこと)がいる。この人物が、近畿の大阪まで行く。これが、饒速日の東遷である。
 この饒速日の東遷の内容が、『日本書紀』でも『古事記』でも神武天皇の東征の記事に加わっている。これが、『古事記』、『日本書紀』のカラクリで神武天皇は、奈良県まで行っていない。九州止まりである。