「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ ここにあり 邪馬臺国!
-卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-
(令和二年一一月一日(日)、主催 田川広域観光協会、於 田川文化センター大ホール)より
■ 壬申の大乱の勝者、天武天皇が修史を企図して
成立した『日本書紀』
『古事記』、『日本書紀』は現在の奈良県で作られたと思われているが、先ほど話したように平城京は、福岡県嘉穂郡桂川町にあったから、『古事記』、『日本書紀』は福岡県で作られたのである。
上記の地図が、法興元年(591年)から天智天皇の白鳳元年(661年)までの飛鳥時代における倭国首都圏の地図である。
筑紫側が、倭国本朝である。こちらから天武天皇が出てくる。倭国東朝が豊国であり、こちらから天智天皇が出てきた。
『隋書』俀国伝の冒頭の部分の原文に「則ち魏志の謂ゆる所の邪馬臺なる者也り」と書かれている。隋・唐と続く隋の時代を唐王朝が書いた歴史書の中にハッキリと「邪馬臺」とある。
隋王朝が認識した邪馬臺国は、まだ福岡県だという事が直ぐ解るのが、大業四年(608年)記事である。「文林郎の裴世清を派遣して倭国へ行かせた。」とある倭国は、倭国本朝(筑紫)である。
倭国に至る途中に、「都斯麻國を経て」の国名は、「つしま國」である。隋・唐の時代においても「都」は、「つ」と読んでいる。 という事は、『魏志倭人伝』にある「伊都國」を「いと国」と読むのは、間違いであり「いつ国」である。唐時代の仮借の用法で「つしま」は、「都斯麻」である。
次にあるのが「一支國」である。隋・唐の時代になっても「一支國」と書かれている。南宋時代の『魏志倭人伝』の版本にある「一大国」は、絶対に誤植である。
その次が「竹斯國」である。筑紫国を「つくし国」と読んではいけない。竹林を「つくりん」と読むんですか? 筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)と言う。「つくぜん」、「つくご」とは言わない。
「竹斯(筑紫)」は、「ちくし」である。
最後に「東の秦王国に至る」とあり、筑紫の東、豊国になる。「竹斯國以東はみな倭に付属している。」とあるから、この時代は、倭国本朝が中心である。倭国本朝から東側、豊国から近畿に至るまで、全部の国が倭国本朝(筑紫)に属している。
これが、『隋書』の記録である。九州が中心と書かれた記録であるから通説の学者たちは、取り上げたくない。奈良県・近畿が中心でないと気が済まない近畿説の学者たちは、『隋書』を取り上げてくれない。教科書も『隋書』の事は、少ししか載っていない。
隋書と推古紀の遣使記事
隋書 巻三 帝紀 煬帝
大業六年(六一〇) 春正月己丑、
倭國遣使貢方物。 第四回
隋書 巻八十一 列伝四十六 東夷
倭国此後遂絶。 第四回の帰国
隋書 巻八十一 列伝四十六東夷 倭国
記事なし
隋書 帝紀 大業七年 ~ 十一年
記事なし
書紀 巻二十二
推古廿二年(六一四)六月
丁卯朔己卯 第五回
遣犬上君御田鍬・矢田部造闕名。於大唐。
推古廿三年(六一五) 秋九月
第五回の帰国
犬上君御田鍬。矢田部造至自大唐。百濟・使則從犬上君而來朝。
『隋書』の記事では、大業六年(610年)に第4回の遣隋使をだいているが、 「倭国此後遂絶」とあるように倭国本朝(筑紫側)は、隋と国交を絶っている。
第4回までの遣隋使は、すべて倭国本朝(筑紫側)が出している。
豊国側では、推古天皇が独自の第5回の遣隋使を出している。しかし、その記事は、『隋書』には書かれていない。
裴世清という隋からの使者は、筑紫側の阿毎多利思比孤、豊国側の豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)の両方の天皇に会っている。
法隆寺の金堂にある釈迦三尊像の真ん中の仏様が、たぶん日出處天子といわれた阿毎多利思比孤である。この仏像は、大宰府に有ったと思われるが、遷都したので全て引っ越し奈良県へ持って行かれた。
この釈迦三尊像の光背には、「法興元丗一年」という年号が刻まれている。これは、九州の年号であり、奈良県の年号ではない。
その阿毎多利思比孤は、西暦622年に崩御した。
みやこ町にある綾塚古墳が、推古天皇陵と推定している。その推古天皇は、西暦628年に崩御し、後に「科長大陵」に遷ると『日本書紀』に書かれている。
綾塚古墳が、推古天皇陵だったと思うが、勿論、都が遷都した後に改葬(墓が引っ越し)されている。
大宰府は、京師である。西暦618年に完成したと思われる我が国初の条坊制の京師跡である。この大宰府条坊復元図を見て、京師では無いと思う方がどの程度おられるのか? その方は余ほどのひねくれ者である。
この大宰府を奈良説派・近畿説派の人達は、地方の役所跡にしたい。ここ大宰府が京師であったら困るのである。
一方、皇極天皇紀頃の(近つ)飛鳥板葺宮であるが、奈良県ではなく、行橋市の福原長者原官衙遺跡だと考えている。
この遺跡の第Ⅰ期のちょっと小ぶり遺構が、飛鳥板葺宮だったと思われる。
倭国本朝と倭国東朝という福岡県にあった2つの王朝が、白村江の戦いに行った。但しこの時の主戦者は、倭国本朝側であり白村江で戦った人達である。
倭国東朝の人達がどうしたかは、これから明かす。
天智二年(663年)倭国本朝が、白村江で敗戦した時に筑紫君薩野馬は、660年の百済が一旦滅亡した時に唐軍に捕まり唐の都長安で捕虜のまま、その敗戦知る。
教科書にある白村江の戦いの時の地図に滋賀県にあったとする大津宮から倭軍が行ったルートが書かれているが、それを消してある。それが、福永説である。
倭軍は、北部九州から白村江の戦いに行った。
御笠団 と 遠賀団
仁軌遇倭兵於白江之口 四戰捷 焚其舟四百艘 煙焰漲天 海水皆赤 賊众大潰 餘豐脱身而走
(旧唐書)
倭船千艘 停在白江 百濟精騎 岸上守船
(三国史記)
※ 千艘-四百艘=六百艘
御笠団印
遠賀団印
Ⓒ 東京国立博物館
北部九州から白村江の戦いに行ったという事を決定付ける話がある。まず、『旧唐書』の劉仁軌(唐の武将)伝に、「倭兵の・・・其の舟四百艘を焚いた。煙と焰が天に漲り、海水が皆赤くなった。賊众(倭国)、大いに潰える」とある。
ところが、朝鮮側の記録『三国史記』には、「倭船千艘が、白江に停在し、百濟の精騎が岸上で船を守った」とある。
白村江の戦で焚かれたのは、四百艘であるが、出かけ行った倭船は、千艘であると記事の内容が食い違う。
算数すると、千艘-四百艘=六百艘 となる。その六百艘が何をしていたのか? 何もしていない。
先ほど紹介した大宰府の条坊図の北西部の所から、「御笠団印」「遠賀団印」という銅印が出土している。この銅印は、どう考えても白村江の戦いに出かけて行った2つの軍団印と思われる。
「御笠団印」は、御笠山(宝満山)、御笠川のある大宰府の軍団。「遠賀団印」は、遠賀川流域の軍団の銅印と考えられる。
この2つの銅印は、東京国立博物館に仕舞われていて、一般に出したくないと思わる。白村江の戦いに出かけて行ったのは、奈良の軍隊では無いことが、明らかになる。
だから、戦わなかった六百艘の軍隊「遠賀団」が残った天智天皇が、ナンバーワンとなっていく。
白村江戦戦後処理
⑥ 天智四年(665 → 664)
秋九月庚午朔壬辰、唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣す。等謂、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰、凡二百五十四人。
七月廿八日至于對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。
海外国記曰、天智天皇三年四月、大唐客来朝。
大使朝散大夫上柱国郭務悰等卅人・百済佐平禰軍等百余人、到二対馬島一。
※ 唐の羈縻政策①
筑紫都督府を置く。大宰府占領さる。
⑦ 天智四年(665 → 664)
等謂、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰、凡二百五十四人。
七月廿八日至于對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。
※ 『大唐故右威衛將軍上柱國 祢公墓誌銘』( 禰軍 六七八年没)
*
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(前略)去る顯慶五年(六六〇)、官軍の本藩を平らぐる日、機を見て變を識り、劔を杖つき歸を知るは、由余の戎を出づるがごとく、 金磾の漢に入るがごとし。
聖上嘉歎し、擢んづるに榮班を以てし、右武衛滻川府析衝都尉を授く。
時に日本の餘噍、扶桑に據りて以て誅を逋れ、風谷の遺甿、盤桃を負ひて阻め固む。(後略)
白村江の戦いで唐に敗れ、唐の羈縻(きび)政策(勝った外国の土地の事は、その国に任せるという政策)により大宰府に筑紫都督府が置かれた。という事は、嫌なことであると思うが、西暦664年に大宰府は唐に占領されたのである。 外国に占領されたのは倭国本朝の事ではあるが、75年前にGHQに占領された大日本帝国だけではない。
しかし、次に書かれている記事がおかしい。9月20日に王(筑紫君薩野馬)が居ない筑紫(大宰府)にきた2日後の22日に何故か豊国へ来ている。ここに「進表函焉」と書かれている。唐の天子(皇帝)から何らかの国書が、豊国(倭国東朝)にもたらされたという事である。
唐の天子(皇帝)から国書が贈られた結果の記録が、『日本書紀』天智四年(664年)にある「冬十月己亥(十一日)、大きに菟道に閲す」とある一文と思われる。
「閲す」とは、「閲兵する」ことである。通説の通り、天智天皇が白村江の戦いで唐王朝に負けていたとすれば、閲兵することは出来ない。
昭和天皇の事を持ち出すのは、気の毒ではあるが、大日本帝国が敗れて占領軍としてマッカーサーが来た時に昭和天皇が、マッカーサーの軍隊を閲兵しましたか? 敗戦国の天皇陛下が閲兵することは無理である。
しかし、天智天皇は閲兵をしている。何故か? 唐と同盟を結んでいたからである。天智天皇は、白村江の戦いで負けていない。
それが、唐の羈縻政策 ②の「倭国東朝に主権を授く。」である。天智天皇が倭国のナンバーワンとなって、今後は倭国を纏めていく政策が行われた。
白村江戦戦後処理
⑨(天智)三年(664 → 665)
春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟(大海人皇子=筑紫君薩野馬)、宣増換冠位階名及氏上・民部・家部等事。
(天智)十年
春正月己亥朔庚子、大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於殿前、奏賀正事。
癸卯、大錦上中臣金連命宣神事。是日、以大友皇子拜太政大臣、以蘇我赤兄臣爲左大臣、以中臣金連爲右大臣、以蘇我果安臣・巨勢人臣紀大人臣爲御史大夫。御史蓋今之大納言乎。
甲辰、東宮太皇弟奉宣或本云大友皇子宣命施行冠位法度之事、大赦天下。法度冠位之名、具載於新律令也。
(天智)※四年冬十月庚辰、天皇、臥病以痛之甚矣。(天武紀上)
※ 天智十年(天智紀)
『日本書紀』の665年と思われる「天皇命大皇弟、宣増換冠位階名及氏上・民部・家部等事。」の記事にある大皇弟は、大海人皇子(後の天武天皇)の事であり、天智天皇がその大海人皇子に命じて、冠位を増し換えたという事がどういう事なのか?
白村江の戦いで敗れ、倭国本朝側は滅んだ。筑紫君薩野馬という名前を考えても日出處天子といわれた阿毎多利思比孤の孫と思われる。
その筑紫君薩野馬は、唐の捕虜のまま、白村江の戦いで敗れ王で無くなる。帰朝した筑紫君薩野馬は仕方なく、天智天皇の所へやって来て、ここで大皇弟という立場で、かつての家来たちに豊国の冠位を増し換えたのである。
そのように考えるしかない。したがって、変なことを言っているようであるが、大皇弟の大海人皇子=筑紫君薩野馬となる。
「大錦上中臣金連命宣神事」とある文句が、中臣氏の神事と六月晦大祓につながる。
滋賀県大津市・佐久奈度神社由緒の最後の部分の「かく失ひては、天皇が朝廷に仕へまつる官官の人等を始めて、天の下四方には、今日より始めて罪といふ罪はあらじ 」とあるが、つまり、負けた側の筑紫の臣下たちの罪は、もうこちら豊国側の祓戸大神によって罪は祓われたから豊国の臣下としてちゃんと仕えなさいという事である。
したがって、前述の「増換冠位」という記事からピッタリつながる。
「六月晦大祓」を創作したのは中臣金連であり、近江令・飛鳥浄御原令・養老律令・大宝律令とかを研究されている学者たちが言われているように中臣氏は、祝詞をよむという役職である。
日本国の建国 → 壬申の大乱
⑩ 天智天皇九年(670)春二月に、戸籍を造る。
※ 庚午年籍。唐の冊封下に入る。
倭国、更めて日本と号す。自ら言ふ。日出る所に近し。以に名と為すと。
(三国史記 新羅本紀文武王十年十二月)
⑪ 天智天皇十年(671)九月に、天皇寝疾不予したまふ。
冬十月の甲子の朔壬午(十九日)に、東宮、天皇に見えて、吉野(山国町若宮八幡)に之りて、脩行仏道せむと請したまふ。天皇許す。東宮即ち吉野に入りたまふ。大臣等侍へ送る。菟道(香春町阿曽隈社)に至りて還る。
倭国でナンバーワンとなった天智天皇が、「日本」という国名を名乗る。
「日本」という国名は、」田川の地で始まった。日本国の起こりは、田川・豊国である。
倭国本朝と倭国東朝が無くなり、日本国をなった。この事は、『旧唐書』が証明している。
「日本は元小國、倭國の地を併せたり。」という文句があり、小国の倭国東朝が倭国本朝の土地を併せて日本となった事と合う。
これは、全部福岡県の出来事である。東の小国が、西の大国を併合しいたというのが、日本国の始まりである。
ここで、壬申の乱の話を一旦終わる。