「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ ここにあり 邪馬臺国!
-卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-
(令和二年一一月一日(日)、主催 田川広域観光協会、於 田川文化センター大ホール)より
■ 弥生時代前期、大物主から伊弉諾尊の時代
(銅剣の時代、遠賀川式土器)
『古事記』の冒頭の三柱の次の四柱目の神が、宇摩志阿斯訶備比古遲神である。ここに「葦牙」とあるのは、水稲のことである。したがって、弥生時代の始めに稲をもたらした神である。
その「比古遲神」が、古事記の「八千矛の神」の段では、「日子遅の神」の表記に変わる。
八千矛の神から考えて、大物主のことである。
「倭成す大物主」というのは、『崇神天皇紀』の歌謡に出てくる。大物主は別名「八千矛の神」でもある。その大物主が引き連れてきた部族が、おそらく物部氏二十五部族だと思われる。
八千矛を大物主一人では、担げない。当然、家来(部族)達で担いでいる。だから、その部族が、物部氏である。
教科書によく出ていた「銅剣・銅矛・銅戈文化圏と銅鐸文化圏」の図であるが、銅剣・銅矛・銅戈の出土数は、福岡県が断トツに多い。
という事は、物部氏が福岡・豊国にいたと考えられる。
大物主は、英彦山豊前坊高住神社にいた。「高住」神社というのも元は、「鷹巣」神社だったと思われる。ここには、豊日別国魂神が祭られているが、後ろの岩山の洞窟の中に本殿が中にあるという珍しい神社である。
だから、祭られているのは大穴牟遅神であり、書き換えれば、大己貴神でもあるから、やはり大物主という事になる。
英彦山の四柱目の神は、大物主である。
高住(鷹巣)神社のご神文が、「抱き鷹の羽に二つ引き紋」であり、やはり鷹羽の神である。
添田町中元寺にある瀬成神社の伝承と金の原の東の庄原遺跡から出土しているやりがんな鋳型や金属溶解炉跡から鷹羽の神といえば、紀元前660年頃に農耕の文化もさることながら「やりがんな」を使う文化、金属を溶かす文化、絹を織る文化etcのテクノクラート集団の人々であった。
その非常に優れたテクノクラート集団の人々がここ鷹羽の土地に入って来て、元々ここに住んでいた縄文系の人々にもその技術を伝えて、紀元前より大いに栄えていたことが遺跡からもわかる。
於能碁呂島
多賀山
豊前坊山
立屋敷遺跡 柱痕跡
掘立柱による高床式建物
推定:伊邪那岐命の八尋殿
遠賀川式土器
大物主からの子孫が治めている間に伊邪那岐命が、豊国へやって来る。
「おのころ島の発見」と資料のタイトルに書いたように『古事記』にある文句の音、「塩許々袁々呂々」にある「許」、「呂」と「矛の末より」の「末」を合わせると「許呂末(ころすえ)」となる。
水巻町の図書館がある所に「頃末」という地名があり、多賀山がある。ここが、於能碁呂(おのころ)島であった。また、多賀山の隣にある山が、豊前坊山であり、大物主に関係する。
多賀山近くの遠賀川の水底から立屋敷遺跡がある。この遺跡からは、高床式建物の柱痕跡が見つかっている。また、遠賀川式土器は、稲作が全国に広まっていく元となった土器である。
だからここに伊邪那岐命の八尋殿があったと思われる。地面から床までの高さが、8尋だった建物だから八尋殿であり、遺跡と『古事記』の記事とピッタリ合っている。
伊弉諾尊の名前は、「いさな」という言葉が響いている。その「いさな」というのは「鯨」の古語であるから鯨を採った神である。
古遠賀湾図に丸印で多賀山=「おのころ島」を示している。そこに「頃末」という地名表記も見えている。ここが、『日本書紀』神武紀に書かれている伊弉諾尊が自分の国を褒めて名付けた「浦安の国」である。
奈良県に「浦安の国」があるでしょうか? 海無し県である。
記事は、「細戈(くわしほこ)の千足(ちだ)る国」と続くように、遠賀町からは細形銅剣が多数出土している。
私は、何も創作をしていない。『古事記』、『日本書紀』に書かれている通りの内容である。
遠賀川式土器が、100年で本州最北の青森まで到達する。スゴイ。
が、遠賀川式土器の伝播を著したこの地図がおかしい。遠賀川の位置が佐賀県になっている。この地図の作成者は誰なのか? これくらい筑豊というのが、全国的に知られていない事が判る。