「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ ここにあり 邪馬臺国!
-卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-
(令和二年一一月一日(日)、主催 田川広域観光協会、於 田川文化センター大ホール)より
■ 神武の薨去後、倭国大乱が起こる。7、80年を経て、
卑弥呼が共立される(倭国大乱は、豊国と火国の争い)
『魏志倭人伝』の「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆」にある最初の男王が、神武天皇である。
神武の後、倭国大乱が起こり、卑弥呼が共立されるまで7,80年は男王であったとある。
倭国大乱が起こった理由であるが、皇子神渟名川耳尊、手研耳命大王を弑した事にある。つまり、神武天皇と香春の媛との間に産まれた皇子が、吾平の媛との間に産まれた手研耳命大王を殺したと日本書紀に書かれている。
だから、豊国と火国の争いが起こった。これが、倭国大乱である。
皇子神渟名川耳尊が、手研耳命大王を殺した年は、「太歳己卯」とあるので、西暦139年に当る。神武天皇が即位した年が、辛酉年(西暦121年)から80年後の西暦200年に卑弥呼が共立されると全部『魏志倭人伝』の記事と合っている。
卑弥呼が共立された年を西暦200年としたのが、『魏志』韓伝・倭人伝、『日本書紀』神功皇后紀の記事を分析して総合した結果である。
卑弥呼の時代の東アジアの地図に書かれていないが、倭国の南に狗奴国がある。
香荒町の宮原遺跡の丁度隣に前方後円墳らしい跡がある。周溝(堀の跡)が残っている。
考古学的な調べによれば、宮原遺跡からは弥生中期から後期の内行花文鏡が出土している。
奈良県桜井市のホケノ山古墳を緑色文字で記載しているが、これは東鯷国側の古墳で3世紀中葉である。ここからは、当然、神獣鏡が出土している。何故か知らないけれど、内行花文鏡等の鏡片が出土している。
ホケノ山古墳の年代を近畿説の学者が早めても弥生中葉であるから、宮原遺跡と比べると100年以上の隔たりがある。ホケノ山古墳は年代を早めているので、本当は200年くらいの隔たりがある間も知れない。
日本書紀の崇神天皇の時代の記事であるが、ここに大嘗祭の起源と思われる記事が書かれている。「天照大神・倭大国魂(=大物主神)、二神を、宮殿内に共に祭り」とある。
悠紀殿に祭られているのが、たぶん天照大神である。主基殿に祭られていたのが、大物主神であったのだろう。天武天皇によって消されたので、今でも大嘗祭で主基殿に祭られている神は、わからない。
180年春の記事に「大物主神が神明倭迹迹日百襲姫命に憑いて、我を祭れ」とある。神武天皇の後、倭国大乱が起こり、大物主神の祭りが途絶えていたようである。
180年秋の『古事記』にある「意冨多々泥古命を以ち、神主と為て、御諸山に、意冨美和之大神の前を拝き祭りたまふ」と記事の「御諸山」は、「みむろ山」ではない。「みわ山」である。
ハッキリ言う。これは、「香春岳に大物主神が祭られた」と書いている。